yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1994年にかかわった宮代町の公衆トイレ「四季楽」は住民のまちづくりの手本

2016年01月20日 | studywork

2016.1.20  1994年 住民のまちづくり「宮代の公衆トイレ 四季楽」  /1996.7記
 早いもので、埼玉県宮代町の公衆トイレ四季楽にかかわってから20年を過ぎた。
 国際交流会・宮あじ会で毎月1回、宮代町コミュニティセンター「進修館」に顔を出す。公衆トイレ「四季楽」は進修館の向かいにあり、ときどき様子を見たり、用足しに入る。まだまだ完成当時のきれいさを保っていて、20年前の考え方が間違っていなかったと再確認する。
 最近の公衆トイレ、公共トイレはずいぶんときれいになり、使いやすくなったが、20年前のトイレは仮設トイレのような外観で、汚い、くさい、怖いの3Kなどと酷評されるほどひどいのがほとんどだった。
 宮代町のコミュニティ広場に設置されたトイレも然り、広場で子どもを遊ばせている親御さん、ゲートボールを楽しんでいる敬老会、イベントで集まった人々から、苦情が絶えなかった。壊れたところは直し、汚れたところは掃除しても、すぐに壊れ=壊され、すぐに汚れ=汚され、役場の担当者もお手上げ状態だった。
 役場のKさんが何とかしなければと思案した。役場が用意して使ってもらうという姿勢だから役場任せになり、使い方が荒くなるのではないか、逆手をとって、町民にトイレづくりを任せたら自分の家のトイレのように大事に使うのではないか、と考えた。
 上司Sさんに町民によるトイレづくりを発案したところ前向きの返事、SさんとKさんが町長の了解をとり、町民によるトイレづくりが動き出した。
 といっても、そのころ、住民のまちづくりはまだ一般的ではなかった。そこで私に声がかかった。
 よくあるパターン1は行政の担当者が先進地モデルを見学し、素案をつくる、よくあるパターン2はコンサルに依頼し、アイデアをまとめてもらう、よくあるパターン3は広報などで意見を募る、・・・。こうしたよくあるパターンでは住民のまちづくりから遠い。
 Sさん、Kさん、私・・などが、どのように進めれば住民のトイレになるかるか知恵を絞った。

 まず、トイレを利用した人に感想や希望を聞き取りした。次に、町内で組織されている団体にトイレ利用について話を聞いた。日本トイレ協会という組織がある。連絡を取り情報と資料を入手した。
 そして、まず第1段階で、誰でもアイデアを出せるように簡単な内容のトイレデザインコンテストを実施することにした。
 まだインターネットが普及していないころであるから、広報に応募用紙を挟んだほかに、口づてでコンテストを紹介し、応募用紙を手渡していった。
 並行して、日本トイレ協会から講師を紹介してもらい基調講演をお願いするとともに、私の司会で、町内団体の方をパネリストとするトイレシンポジウムを開催した。
 行政担当者の熱意が伝わったのか、進修館大ホールが埋まるほどの参加があり、活発な質疑応答で盛り上がった。
 デザインコンテストは、もちろん公開で実施し、最優秀などの作品を選考した。
 選考結果は公開するとともに、最優秀案を町内の建築専門家が図面化、模型化し、展示して意見を募った。
 ・・このようにしてトイレが実現していった・・詳しくはホームページを・・。

 成功裡に終わった住民によるトイレづくりがはずみとなり、新庁舎も住民参加で進めることになり、さまざまな分野で住民参加が根付いていった。
 四季楽を見るたびに住民のまちづくりが基本だということを実感する。

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2015年スペインツアー3日目、ムンク展を見てから散策、プエルタ・デル・ソルで木の実を食べる熊の像発見

2016年01月19日 | 旅行

2016.1.19  スペインを行く11 テッセン・ボルネミッサ美術館 ムンク カラヴァッジョ「聖カタリナ」 衆議院 イベリコ豚 プエルタ・デル・ソル 木の実を食べる熊 カルロス3世像 道路原票  /2015.12記
 2015年10月22日、スペインツアー3日目の午後、プラド美術館のカフェでランチを取ったあと、テッセン・ボルネミッサ美術館に向かった。
 特設会場ではムンク展が開かれていた。ムンクはノルウェーの国民的画家で、「叫び」は日本でも繰り返し紹介されている。「叫び」の画面は不安で満ちていて、見る者を不安にさせる。
 なぜか?、ムンクには1才上の姉、2才下の弟、5才下の妹がいるが、妹が生まれて間もなく母が結核で死ぬ。ムンクが14才のとき、姉が結核で死ぬ。26才、パリに出て間もなく父が死ぬ。31才のころ妹が精神病院に入り、32才のとき弟が死ぬ。ムンク自身もアルコール依存症にかかり、自ら精神病院に入院している。そうした死の不安、恐怖がムンクをとりこにし、「叫び」になったようだ。
 特設展では時間を追って作品が展示されていて、最初に母や姉の死を連想させる「憂うつ」「パニック」「母と姉」など、続いて恋人を連想させる「接吻」「泣いている裸の女」「ひざまづく裸婦」などを見たが、見ているとムンクの不安や恐怖が移ってきそうな気がして、足早に見終えた。
 常設展には高名な画家の名作が展示されている。ぶらぶら見ていて、カラヴァッジョの「聖カタリナ」を見つけた。カタリナはキリスト教弾圧で殉教するが、カラヴァッジョの描くカタリナの目は生き生きしていて、弾圧に屈しない強い意志を感じさせる。
 モネ、ゴッホ、ルノアール、ドガ、ピカソ、ダリ・・・・などなどをゆっくり見て歩いた。

 テッセン・ボルネミッサ美術館を出てから、イベリコ豚肉屋などをのぞきながら、プエルタ・デル・ソルに向かった。この広場はマドリッドのほぼ中心に位置し、大勢の市民、観光客で賑わっている。
 広場の端に木の実を食べる熊の像が置かれている。「木の実を食べる熊」はマドリッドのシンボルで、マドリッド市の紋章にも描かれている。シンボルの木の実は甘みがあるらしく、熊の好物のようだ。
 広場の中央には馬にまたがったカルロス3世の像が置かれている。カルロス3世はフランス・ブルボン朝の血筋で、スペイン王についてからマドリッドの再開発に力を入れ、その記念で設置されたらしい。
 こうした記念の像はどことなく似ているし、台座の上に飾られているから芸術性は見分けにくいが、歴史をひもとく鍵にはなる。
 続く

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2004年、中国・青島に残るドイツの都市デザインの建築調査に着手する

2016年01月17日 | studywork

2016.1.17  2004年 「青島歴史街区の建築調査速報」 /2004.9記
 すでにこのブログでも紹介しているが、中国・山東省の青島は、1800年代のころはひなびた漁村だった。
 そのころヨーロッパ列強が世界各地に進出し、植民地化を狙っていた。昔の教科書では、マカオがポルトガル領、香港がイギリス領、上海には列強が租借地を確保したことが述べられていた。
 清政府は列強の進出を懸念し、青島に軍事施設を構築する。
 ドイツは、中国進出に一歩で遅れたが、入念な地学調査のうえ、青島に侵攻し、占領する。そしてドイツ流の都市計画に着手する。
 そのころ日本はイギリスと同盟を結んでいて、第1次世界大戦でドイツと敵対したイギリスを支援するため、青島に猛攻撃をかける。
 ドイツの敗戦とともに青島はドイツに代わり日本の占領となるが、日本はドイツの都市計画を踏襲した。
 その後の青島の発展はドイツの都市計画を基本に進められた。
 その結果、1900年代初期のドイツの都市デザインがいまに残されることになった。

 中国の伝統建築様式であるカン=寝台暖房を備えた住まいの調査を行ったとき、青島に残るドイツ建築を見て、少なからず驚かされた。その後、文献資料を探したが、青島に残るドイツの都市計画や建築デザインについての研究蓄積が少ないことが分かり、現地大学との何度かの打ち合わせの結果、2004年に、中国・青島の歴史的街区構成と現代的住志向に関する調査研究を主テーマにした第1次調査を実施することになった。

 「青島歴史街区の建築調査速報」は、調査を終えて帰国した直後の速報である。第1次調査では、向陽院と呼ばれるドイツの都市計画に基づいて建築された中庭式集合住宅の実測採図と住み方調査を行った。
 向陽院は、ドイツがすすめる都市計画の労働者や新たにつくられている港の港湾労働者のための住まいとして計画された、らしい。・・らしいというのは、そのころのことの証言者がいないためである。
 向陽院は傾斜地に立地していて、2階建てのと3階建てで構成される。いずれも1階は店舗かレストラン、2~3階が住居で、当初はトイレも水も中庭での共同利用だった。
 その後の青島の発展はめざましく、住宅難となったため、中庭にも住まいが建て込んでた。

 この調査を端緒に、青島通いが始まった。青島に残る歴史建築の保全活用の一助になっていれば幸いである。

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2004年埼玉・住まい・まちづくり交流展の「間伐材活用」で隈研吾氏のデザインを報告、木材活用が楽しみ

2016年01月13日 | studywork

2016.1.13  2004年 埼玉・住まい・まちづくり交流展 「子ども建築学校・間伐材活用・生産緑地」  /2004.10記

 2000年から始まった埼玉・住まい・まちづくり交流展の狙いは、「住まいづくり、まちづくりには、住民・専門家・行政の協働が欠かせない。21世紀はパートナーシップの住まいづくり・まちづくりの動きに大きな期待が寄せられている。身近な住まいづくり、まちづくりの事例と知恵を持ち寄り、21世紀の埼玉像を話し合い、未来を作り上げる動きを始めたい」に要約される。
 こうした新しい企画にはさまざまな意見が噴出するが、試行錯誤で実施したところ反響は大きく、2年目、3年目と参加団体が増え、支援団体も広がった。

 5年目となった2004年、私たちの研究室は「子ども建築学校」「間伐材活用」「生産緑地」の活動や研究成果をポスターにまとめて展示し、パネル報告会で報告をした。
 1枚目は2000年から参加している埼玉県春日部市豊春地区公民館主催の子ども建築学校を紹介した「住まいの不思議・ドームをつくる」、2枚目は昨年から始めている木の勉強会をベースにした「建築家の間伐材活用への挑戦」で、間伐の重要性と間伐材活用に挑戦する建築家の作品を紹介した。ポスター担当はY君である。
 このなかで取り上げた隈研吾氏は、昨年、2020年東京オリンピックの新国立競技場設計案が採用された。氏は早くから間伐材活用をデザインに取り入れていて、今回の設計案でも木材活用のデザインが注目を引いた。木の勉強会に参加した学生も木材活用の発展に喜んでいると思う。
 3枚目は「生産緑地」で、N君が担当した。久喜市での調査をもとに農業が行われている生産緑地、緑地として管理されている生産緑地、放置されている生産緑地の現況を指摘している。
 
 4年目から新たな試みとして、展示されたパネルを一堂に集めてのパネル報告会が始まった。まちづくりお見合い会と呼ばれ、住民・専門家・行政がそれぞれに活動の内容や実績、苦労や悩み、成功の知恵や工夫などを紹介することで、お互いに刺激を受けてモチベーションを高める場、さらには協働できるパートナーを見つける場をつくること、が目指された。
 市民の会や高校生の発表、大学研究室や大学生の自主的な活動などが和気あいあいのなかで報告された、それぞれ活動の実績があり、思い入れが深いため、解説に熱がこもる。新たな提案や助言が飛び交い、来年にはさらに発展した成果を持ち寄りたいなどの発言もあり、皆さんには大きな刺激なったようだ。こうした報告を聞くと、元気づけられる。

 私は10年目を区切りに交流展の活動から隠居したが、その後も発展的に活動が続いている。ますますの発展を祈る。
 

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2016.1谷中七福神を巡る

2016年01月10日 | 旅行

2016.1 谷中七福神を巡る
 
    2016年1月、天気もよし、風もなし。急に思い立って、谷中の七福神を訪ねることにした。インターネットの情報では徒歩2時間前後らしいので、何とか歩けそうである。家を10時半ごろ出て、田端から歩き始め、上野あたりで遅めの昼食を取って帰ってくるイメージで、携帯ポットに茶を入れて出かけた。

 そもそも七福神とは、大黒天、毘沙門天、恵比寿天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊の七つの神様を指す。子どものころから七福神の飾りや置物を見ていたから馴染みはあるが、七福神を意識して七つの神社仏閣を歩くのは初めてである。民間信仰の一つで、「七難即滅、七福即生」の説に基づくといわれ、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると信じられたらしい。もっとも子どものころの記憶では、金運や商売繁盛の説が一般的だったように思う。

 11時15分、JR田端駅着、改札あたりに七福神巡りの簡単なパンフレットが置いてあり、駅前にも案内表示が出ていた。谷中は不案内だが何とか行けそうだ。表示に従って、西に歩き始める(右図は全行程)。

 11時20分、田端駅から5分ほどで右手に七福神の幟が見える。東覚寺である(写真)。
 ここは福禄寿を祭っている。福禄寿は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国・道教の長寿神が由来らしい。長い頭、長いあご鬚、大きな耳たぶが特徴で、鶴と亀を連れ、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ(写真は裏庭の築山の福禄寿)。
 境内は大勢で賑わい、甘酒も振る舞われていた。左手の社務所?には行列ができていたがこれは朱印をもらうための列で、私たちは朱印を遠慮し本堂の参拝を済ませる。裏の庭園はなかなか見応えがある。山あり谷あり、流れあり、樹木も手入れが行き届いている。都会の喧噪がまったく聞こえない。築山の頂上に福禄寿が飾られていたので写真を撮る。

 11時45分、東覚寺から南に歩く。案内表示が少なくなったが、参拝らしい人の流れがあり、その流れに沿って25分ほど歩くと、青雲禅寺に着いた(写真)。この寺は屋根が瓦葺き、重層である。寺院の重層屋根は珍しいことから注書きがされていた。基壇が高いので見上げるようなプロポーションの寺である。
 参拝客が長い列を作っていたので、正面を避け、横で参拝し、わずかに開いた扉からのぞき込むと恵比寿天が見えたので、写真を撮る(写真)。恵比寿天は、いざなみ、いざなぎの二神の子どもとされていて、七福神のうちでは唯一の日本由来になる。もともとは大漁追福=漁業の神で、左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持っている。のちに福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神ともなった。
 
 11時50分、青雲禅寺から南西に5分ほど歩くと、修性院に着く。まだまだ参拝客は多い。暖冬のせいか、梅がちらちら咲いていた。ここの寺では履き物を脱いでの参拝で、堂内に入ると、朱印を受ける人の列があった。本尊の前は空いているので、先に本尊に合掌する。
 本尊左手に布袋尊が祭られていて、こちらは短い列ができていた。列に並び、布袋尊に合掌、写真を撮る。布袋尊は、弥勒菩薩の化身とされ、唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波)に実在した禅僧がモデルとの説もある。祭られている布袋尊はかなり肥えている。手にした大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられたという。笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰されたそうだ。

 修性院から南に歩く。路地のような細い道で案内表示はなくなった。それでも七福神巡りの参拝らしい人がぞろぞろと歩いているので、流れに沿っていくと、ほどなく谷中銀座に出た。いつもなのか、正月のイベントなのか分からないけれど、縁日のようににぎやかで、餅つきも行われ、けっこうな人だかりができていた。気がつくと、参拝の流れは屋台や回りの飲食店に紛れていき、人の流れは途絶えてしまった。田端駅におかれていた簡単な七福神巡りの地図をにらみながら、日暮里駅に向かう。道路に設置された周辺地図に天王寺とあり、線路に沿って南に進み、階段を下り、坂を上る。

 12時5分、天王寺に着いた。山門あたりには人が大勢いる。私たちの細道は裏道だったのかも知れない。山門の正面に本堂があるが誰も並んでいない。??ともかく本尊に合掌する。振り返ると、山門右手の堂に列ができていた(上写真)。その横には朱印の列も見える。どうやらこちらが七福神のようだ。
 列に並ぶ。ここには毘沙門天が祭られていた(下写真)。黒々とした木像で、筋骨隆々?のたくましい姿である。もともとはヒンドゥー教の戦いの神だったそうで、たくましい姿はそのせいかも知れない。日本では、四天王の一つで多聞天とも呼ばれ、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけて表される。仏教に取り入れられてから福徳増進の神として信仰されている。

 天王寺を出た先は墓地?が広がっている。七福神巡りの地図を頼りに歩いていったが、右も左も広大な墓地が続いていて、方向を見失った。徳川家の墓などの案内もあり、どうやら谷中霊園に入ったらしい。霊園案内図を見ながら、西に方向を転換する。高橋おでんの碑のある通りを進み、大通りを越え、細道に折れる。案内表示はどこにもなく、ときどき地図をにらんでいる人に出会う。谷中にはたくさんの寺があり、七福神の寺だけ表示するのは片手落ちだろうから、せめて七福神巡りの地図はもっと分かりやすくしてくれればと思ったりしているうち、長安寺に着いた(前頁写真)。
 12時30分、住宅街の中に位置する長安寺は、山門がやや小さい。が、狭い境内はけっこうな人出であった。ここも履き物を脱ぎ、堂内での参拝である。
 堂内正面の奥に本尊が祭られ、その手前に寿老人が祭られていた(写真)。多くの寺院では本尊前まで進めないが、長安寺ではお進み下さいの案内があったので、寿老人の前で合掌する。寿老人は中国・道教の星の化身で、手には巻物を括り付けた杖、団扇や桃などを持ち、鹿を従えた姿が一般的だそうだ。団扇は難を払い、桃は長寿のしるしで、鹿もまた長寿の象徴のため、長寿延命、富貴長寿の神として信仰されている。 

 長安寺の次は護国院に向かう。道は分かりやすい。七福神巡りらしい人も増え、何となく心強い。だいぶ足が疲れてきた。この程度の疲れでへこたれては、海外の旅も国内の旅もほど遠くなる。少し歩行速度を落として護国院を目指す。道は緩やかな下りで、助かる。

 12時45分、護国院に着く(中写真)。上野からのアクセスが近いせいか、人出が多くなった。履き物を脱いで、堂内に上がる。まずは本尊に合掌する。
 堂内右手には大黒天が祭られている(下写真)。大黒天は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神に由来し、日本古来の大国主命と習合して大黒天とされたようだ。大地=農業を掌握する神であり、大きな袋を背負い、打出の小槌をもち、頭巾をかぶった姿がよく知られ、食物・財福を司る福徳開運の神様として信仰される。

 最後の不忍池弁天堂まであと一息だが、上野動物園をぐるりと回る下り道で、道のりは長い。動物の鳴き声がときどき聞こえる。左に猿山?を見上げ、右の鴎外荘を抜けると、工事の塀の先に池が見えた。谷中七福神の幟も並び、屋台も出て、かなりの人出だった。外国人も少なくない。

 13時5分、幟の先の不忍池弁天堂に到着する(上写真)。列に並び進むと、弁財天が祭られていた(下写真)。弁財天は七福神の紅一点で、もとはインド・ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神に由来し、仏教に取り入れられてからは音楽・弁才の神となり、日本に伝わって吉祥天が習合し財福・知恵の神となり、弁財天と表記されたそうだ。弁財天は琵琶を持った姿が多いが、ここの弁財天は剣を構えていて、弁天堂下の階段下に琵琶の形をしたブロンズが飾られていた。

 七福神巡りは、信ずる者の気持ち次第だからご利益を期待せず、ほどほどの散策で気持ちよしと受け止めればいいのであろう。
 上野の山の3153=西郷さんと書かれたレストラン街の精養軒に入った。およそ2時間の散策、お疲れさん、生ビールで喉を潤し、ランチを取って家路についた。 (2016.1)

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