2016.1 谷中七福神を巡る
2016年1月、天気もよし、風もなし。急に思い立って、谷中の七福神を訪ねることにした。インターネットの情報では徒歩2時間前後らしいので、何とか歩けそうである。家を10時半ごろ出て、田端から歩き始め、上野あたりで遅めの昼食を取って帰ってくるイメージで、携帯ポットに茶を入れて出かけた。
そもそも七福神とは、大黒天、毘沙門天、恵比寿天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋尊の七つの神様を指す。子どものころから七福神の飾りや置物を見ていたから馴染みはあるが、七福神を意識して七つの神社仏閣を歩くのは初めてである。民間信仰の一つで、「七難即滅、七福即生」の説に基づくといわれ、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると信じられたらしい。もっとも子どものころの記憶では、金運や商売繁盛の説が一般的だったように思う。
11時15分、JR田端駅着、改札あたりに七福神巡りの簡単なパンフレットが置いてあり、駅前にも案内表示が出ていた。谷中は不案内だが何とか行けそうだ。表示に従って、西に歩き始める(右図は全行程)。
11時20分、田端駅から5分ほどで右手に七福神の幟が見える。東覚寺である(写真)。
ここは福禄寿を祭っている。福禄寿は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国・道教の長寿神が由来らしい。長い頭、長いあご鬚、大きな耳たぶが特徴で、鶴と亀を連れ、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ(写真は裏庭の築山の福禄寿)。
境内は大勢で賑わい、甘酒も振る舞われていた。左手の社務所?には行列ができていたがこれは朱印をもらうための列で、私たちは朱印を遠慮し本堂の参拝を済ませる。裏の庭園はなかなか見応えがある。山あり谷あり、流れあり、樹木も手入れが行き届いている。都会の喧噪がまったく聞こえない。築山の頂上に福禄寿が飾られていたので写真を撮る。
11時45分、東覚寺から南に歩く。案内表示が少なくなったが、参拝らしい人の流れがあり、その流れに沿って25分ほど歩くと、青雲禅寺に着いた(写真)。この寺は屋根が瓦葺き、重層である。寺院の重層屋根は珍しいことから注書きがされていた。基壇が高いので見上げるようなプロポーションの寺である。
参拝客が長い列を作っていたので、正面を避け、横で参拝し、わずかに開いた扉からのぞき込むと恵比寿天が見えたので、写真を撮る(写真)。恵比寿天は、いざなみ、いざなぎの二神の子どもとされていて、七福神のうちでは唯一の日本由来になる。もともとは大漁追福=漁業の神で、左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持っている。のちに福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神ともなった。
11時50分、青雲禅寺から南西に5分ほど歩くと、修性院に着く。まだまだ参拝客は多い。暖冬のせいか、梅がちらちら咲いていた。ここの寺では履き物を脱いでの参拝で、堂内に入ると、朱印を受ける人の列があった。本尊の前は空いているので、先に本尊に合掌する。
本尊左手に布袋尊が祭られていて、こちらは短い列ができていた。列に並び、布袋尊に合掌、写真を撮る。布袋尊は、弥勒菩薩の化身とされ、唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波)に実在した禅僧がモデルとの説もある。祭られている布袋尊はかなり肥えている。手にした大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられたという。笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰されたそうだ。
修性院から南に歩く。路地のような細い道で案内表示はなくなった。それでも七福神巡りの参拝らしい人がぞろぞろと歩いているので、流れに沿っていくと、ほどなく谷中銀座に出た。いつもなのか、正月のイベントなのか分からないけれど、縁日のようににぎやかで、餅つきも行われ、けっこうな人だかりができていた。気がつくと、参拝の流れは屋台や回りの飲食店に紛れていき、人の流れは途絶えてしまった。田端駅におかれていた簡単な七福神巡りの地図をにらみながら、日暮里駅に向かう。道路に設置された周辺地図に天王寺とあり、線路に沿って南に進み、階段を下り、坂を上る。
12時5分、天王寺に着いた。山門あたりには人が大勢いる。私たちの細道は裏道だったのかも知れない。山門の正面に本堂があるが誰も並んでいない。??ともかく本尊に合掌する。振り返ると、山門右手の堂に列ができていた(上写真)。その横には朱印の列も見える。どうやらこちらが七福神のようだ。
列に並ぶ。ここには毘沙門天が祭られていた(下写真)。黒々とした木像で、筋骨隆々?のたくましい姿である。もともとはヒンドゥー教の戦いの神だったそうで、たくましい姿はそのせいかも知れない。日本では、四天王の一つで多聞天とも呼ばれ、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけて表される。仏教に取り入れられてから福徳増進の神として信仰されている。
天王寺を出た先は墓地?が広がっている。七福神巡りの地図を頼りに歩いていったが、右も左も広大な墓地が続いていて、方向を見失った。徳川家の墓などの案内もあり、どうやら谷中霊園に入ったらしい。霊園案内図を見ながら、西に方向を転換する。高橋おでんの碑のある通りを進み、大通りを越え、細道に折れる。案内表示はどこにもなく、ときどき地図をにらんでいる人に出会う。谷中にはたくさんの寺があり、七福神の寺だけ表示するのは片手落ちだろうから、せめて七福神巡りの地図はもっと分かりやすくしてくれればと思ったりしているうち、長安寺に着いた(前頁写真)。
12時30分、住宅街の中に位置する長安寺は、山門がやや小さい。が、狭い境内はけっこうな人出であった。ここも履き物を脱ぎ、堂内での参拝である。
堂内正面の奥に本尊が祭られ、その手前に寿老人が祭られていた(写真)。多くの寺院では本尊前まで進めないが、長安寺ではお進み下さいの案内があったので、寿老人の前で合掌する。寿老人は中国・道教の星の化身で、手には巻物を括り付けた杖、団扇や桃などを持ち、鹿を従えた姿が一般的だそうだ。団扇は難を払い、桃は長寿のしるしで、鹿もまた長寿の象徴のため、長寿延命、富貴長寿の神として信仰されている。
長安寺の次は護国院に向かう。道は分かりやすい。七福神巡りらしい人も増え、何となく心強い。だいぶ足が疲れてきた。この程度の疲れでへこたれては、海外の旅も国内の旅もほど遠くなる。少し歩行速度を落として護国院を目指す。道は緩やかな下りで、助かる。
12時45分、護国院に着く(中写真)。上野からのアクセスが近いせいか、人出が多くなった。履き物を脱いで、堂内に上がる。まずは本尊に合掌する。
堂内右手には大黒天が祭られている(下写真)。大黒天は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神に由来し、日本古来の大国主命と習合して大黒天とされたようだ。大地=農業を掌握する神であり、大きな袋を背負い、打出の小槌をもち、頭巾をかぶった姿がよく知られ、食物・財福を司る福徳開運の神様として信仰される。
最後の不忍池弁天堂まであと一息だが、上野動物園をぐるりと回る下り道で、道のりは長い。動物の鳴き声がときどき聞こえる。左に猿山?を見上げ、右の鴎外荘を抜けると、工事の塀の先に池が見えた。谷中七福神の幟も並び、屋台も出て、かなりの人出だった。外国人も少なくない。
13時5分、幟の先の不忍池弁天堂に到着する(上写真)。列に並び進むと、弁財天が祭られていた(下写真)。弁財天は七福神の紅一点で、もとはインド・ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神に由来し、仏教に取り入れられてからは音楽・弁才の神となり、日本に伝わって吉祥天が習合し財福・知恵の神となり、弁財天と表記されたそうだ。弁財天は琵琶を持った姿が多いが、ここの弁財天は剣を構えていて、弁天堂下の階段下に琵琶の形をしたブロンズが飾られていた。
七福神巡りは、信ずる者の気持ち次第だからご利益を期待せず、ほどほどの散策で気持ちよしと受け止めればいいのであろう。
上野の山の3153=西郷さんと書かれたレストラン街の精養軒に入った。およそ2時間の散策、お疲れさん、生ビールで喉を潤し、ランチを取って家路についた。 (2016.1)