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A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

ペッパーアダムスとジェリーマリガンが握手を交わした日・・

2015-02-08 | PEPPER ADAMS
Dizzy Gillespie Dream Band Jazz America

1981年2月16日、ペッパーアダムスは久々にビッグバンドに加わって、ニューヨーク、リンカーンセンターのエブリーフィッシャーホールのステージに上がっていた。コンサートも終盤に入り、Tin Tin Deoで熱演を終えたマリガンが聴衆の拍手に応えていた時、背後のバンドに振り向き、いきなりアダムスに手を差しのべ握手を交わしたが・・・。





この日のコンサートは、ディジーガレスピーのドリームバンドのコンサートであった。
臨時編成のこのガレスピーのビッグバンドにアダムスは加わっていた。同じステージにマックスローチを加えたコンボも編成され、同じステージでの競演となったプログラムも終盤を迎え、盛り上がった所での出来事であった。

このガレスピーのドリームバンドは、''Jazz America'' history of jazz seriesといったテレビ番組用の素材の一環として企画され、このコンサートの模様が収録された。この番組は、スポンサーがついた民間放送用に制作されるのではなく、教育用のプログラムとしてアメリカだけでなく広く世界中のテレビ局やラジオ放送に提供することを目的に作られた。

この主旨に賛同したディジーガレスピーは、このためにスペシャルバンドを編成し協力することになった。そのメンバーは各セクションとも実力者が揃い、ビッグバンドファンならずとも興味を惹くメンバー達であった。その中にはアメリカに来て間もないパキートデリベラの姿も。ラテン色の強いガレスピーの曲を演奏するには相応しい人選であった。

そして、コンボの方にはマックスローチの姿が。ジャズ界全体がフィーバーしていた時期ではあったが、コマーシャリズムに迎合したジャズとは一線を画していたローチにとっては久々の晴れ舞台での演奏であった。

そして、このバンドにメインゲストとしてジェリーマリガンが加わっている。
最初、このビデオを見た時、ガレスピーのドリームバンドのゲストとしてマリガンは少し違和感を覚えた。確かに、同時代を過ごしたジャズ界の立役者ではあるが、ガレスピーを主役とし、Bebopの歴史を再現するバンドには相応しいとは思えなかった。パーカーの代わりとしてソニースティットでも加わっていたら、これもドリームバンドといえたかもしれないが。

しかし、それを感じたのは参加したミュージシャン達も同じであった。特に、マックローチは、「お前は、ガレスピーと普段一緒にやっていたのか?ガレスピーのために一体何ができるのか?」と露骨にマリガンを責めたという。
ところが実際には、最初はアレンジの協力といっていたのがリハーサルを始めるとこの曲でソロをとりたいと要求はエスカレートしていった。メンバー達も「アダムスがいるのに何でマリガンが?」と首を傾げたが、結局はマリガンも主役の一人になった。

人柄の良いガレスピーは、間に入って皆を収めていざ本番となったが、アレンジを担当していたスライドハンプトンは、最後の抵抗か本番の演奏には参加しなかったという。

この真相を、ピアノのローランドハナが後日語っている。
このプロジェクトを企画したのは、音楽のドキュメンタリー作りには実績のあるGary KeysとStanley Dorfmantという2人のプロデューサーだった。2人はマリガンにこのプロジェクトへの参加を要請した時、最初からフィーチャーする場面をマリガンに与えていた。さらにマリガンへの報酬は、このコンサートへの出演料だけでなくこの映像販売に関してのフィーもあった。ジャズの歴史の再現といった企画でありながら、ショー仕立てするためにマリガンを使ってしまったのがミスキャストであったのだろう。

一方で、他の出演者はマックローチといえども出演料以外は貰っていなかった。だから、本来はペッパーアダムスの出番でもいいシーンで、マリガンの演奏になっているという次第だ。他のメンバー達も誰もマリガンとはやりたくなかったので、マリガンのバックの時は全然気合が入らなかった。一時はマリガンとローチの間で本番をキャンセルするという位まで、2人の間はシコっていた・・・、とハナの話は続く。

このような背景はあったものの、ガレスピーとジョンファディスの師弟対決もあれば、マックローチのハイハットだけを使ったドラムソロなど、コンサート自体には見どころは多い。
色々あっても、聴衆を前にプレーを始めれば、そこはプロのミュージシャン。
しかし、ガレスピービッグバンドの再編という点では、今一つ物足りなさを感じたのもマリガンが原因であったということだろう。

若い頃から常にジャズ界の最前線で活躍し続けたマリガン。そして主役で居続けられたのは、ジャズをビジネスにしていた面々との付き合いを上手くやっていたということだろう。そういえば、マリガンのコンサートジャズバンドも、ノーマングランツの支援があったから成り立っていたが、グランツがVerveを売却すると早々に解散したと聞いた事がある。

ダウンビートの批評家投票では、ペッパーアダムスはこの時すでにペッパーはマリガンを抜いて首位となっていた。そして読者投票でも翌年の82年にはマリガンが首位をアダムスの譲ることになる。ちょうどそんな時期でのマリガンの出番であった。

確かに、マリガンは70年代の後半はアルバム制作も途絶えがちで、落目のマリガンを周りのミュージシャンも感じていたのかもしれない。そのマリガンは、今後も主役であり続けるためには、せっかく得たこのコンサートの機会で、何とか主役の一人に加わりたかったと考えても不思議ではない。

マリガンはこの後も活動を続け、多くのアルバムを残す。あのクールの誕生の再演も果たした。きっと、最後まで話題の中心に居続けたいという想いでプレーを続けたのだろう。
よく成功者の中にいるタイプだ。

アダムスは、このコンサートの直前に"The Masters"がグラミー賞にノミネートされた連絡を貰う。そして、このコンサートが終わると、一人バリトンを持ってまたソリストとしてgigを求めて旅に出る。

自分自身はマリガンのファンでもあるので、どちらが良いとはなかなか言いにくいが、このコンサートに纏わる一連の話は、アダムスの人生観とマリガンのその違いがはっきりと出た出来事のような気がする。

2人にとって、このステージ上での握手はお互い一体どんな意味があったのだろうか?



1. Manteca
2. A Night In Tunisia
3. Groovin’ High
4. Mr, Hi Hat
5. Hot House
6. Lover Man
7. Tin Tin Deo
8. Salt Peanuts

Dizzy Gillespi (tp)
Gerry Mulligan (bs)
Milt Jackson (vib)
John Lewis (p)
George Duvivier (b)
Max Roarch (ds)
Victor Paz, Joe Wilder, Marvin Stamm and Jon Faddis (tp)
Benny Powell, Janice Robinson, Curtis Fuller and Melba Liston (tb)
Frank Foster, Pepper Adams, Frank Wess, Pacito d'Rivera and Jimmy Heath (Saxes)
Sir Roland Hanna (p)
Paul West and Ron Carter (b)
Candido and Big Black (per)
George Adams (g)
Grady Tate (ds)
Jon Henridcks (vol)

Recorded live at Avery Fisher Hall, New York, February 16 1981


Produced by Gary Keys

Dream Band Jazz America [DVD] [Import]
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Wienerworld
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昔からの友人達と、普段着のペッパーアダムスのベストプレー・・・・

2015-02-03 | PEPPER ADAMS
Encounter! / Pepper Adams

ペッパーアダムスのリーダーアルバムをとりあえず全て紹介したと思ったら、肝心な一枚がまだだったようだった。大分前に記事を書いた記憶があったのだが、追加で紹介しておくことにする。

実は、この最後の一枚が、自分の好きなアダムスのアルバムの中で上位に入るアルバムだ。何といってもこのアルバムの良さはエルビンジョーンズのドラムにあると思うのだが、改めて聴き直してみると・・・。

まず、このアルバムが録音されたのは1968年12月、サドメルでの活動も3年目に入り一層忙しくなっていた時期である。

アダムスにアルバム作らないかと誘ったのはプロデューサーのFred Norsworthy。過去に、一度Jazzlineというレーベルを作ったこともある。アダムスもそこでWillie Wilsonのアルバムに参加したこともあり、お互い知った仲だった。以前紹介したが、その後このアルバムは権利関係が曖昧になって、数多くのコピー版が作られたアルバムだ。その辺りがルーズなプロデューサーかもしれない。

このノースワーシーは、その時はどこのレーベルにも所属していないフリーな立場のプロデューサーであった。レコーディングにあたって彼からの具体的な要求は何もなく、曲も共演者も何の拘束も無い、アダムスが自由に選んでいいというものであった。
アダムスは、このアルバムでのプレーを「無駄な脂肪が何もついていない、特段の仕掛けも無い正直な演奏だ。当時は、何かしらお金にするための露骨な試みが入るものであったが」と言っている。それだけで、素顔のアダムス、そしてその仲間達の普段の演奏が聴ける内容となる条件は整った。

アダムスは一週間話を預かって、彼に返事をした。「メンバーが決まったので、話を受けようと」。そして、スタジオを手配して、レコーディングセッションが開かれた。ちょうどデュークピアソンのビッグバンドの録音を終え、クリスマスも迫った12月11、12の2日間であった。

アダムスの好きなようにしていいと言われたメンバーは確かにアダムスとはツーカーの中であった。シムスは一緒にロフトで切磋琢磨した仲、フラナガンのエルビンは昔からのプレー仲間、ベースのロンカーターも世代は少し違うがアダムスの隣町出身の同じデトロイターであった。セッションの様子は、すぐに地元のBlue birdでのセッションの雰囲気となった。録音は快調に進み、2日間で6時間分以上のテイクが録られたそうだ。

選曲は、晩年はオリジナルに拘っていたが今回は2曲だけ。最初のアダムスのオリジナルInaoutでは、ウォーミングアップを兼ねてか各人のハードなソロの交換が続く。
ジョーヘンダーソンの曲を2曲選んでいるのが特徴であり、ファンキーやハードバップというのと少し違った穏やかなムードを醸し出している。The Star-Crossed Loversのバラードプレーも良い感じだ。サドジョーンズの曲ではミンガスを意識し、トミーフラナガンがオーバーシーズで演じたVerdandiも取り上げている。

このアルバムは、録音するまでは順調であったが、出来上がってからが一苦労であった。
ノースワーシーは出来上がった録音を持って、各レーベルを廻る。ところが、パシフィックジャズもブルーノートも、この時代のアルバムの多くはPOP路線に変わっており、特にメジャーレーベルではこのようなストレートアヘッドなジャズアルバムは受入れられなかった。

そこに助け舟で現れたのが、プレスティッジの元で自由にアルバム作りを任されていたドン・シュリッテンだった。結局、ドン・シュリッテンがこのアルバムを買上げて、プレスティッジに売り込みに行った。プレスティッジのオーナーのボブ・ワインストックがレーベルの売却話を始めたドサクサに紛れてうまくプレスティッジへの売り込みに成功。めでたくプレスティッジのカタログに並んで陽の目を見ることになる。



という意味では、今回はドン・シュリッテンも直接はタッチしなかったが、彼のお蔭で結果的に素晴らしいアルバムが世に出たということになる。しかし、プレスティッジに渡されたテイクは最小限だけ。残りのテイクは胡散霧消、プレーヤー達には印税も入らなかったらしい。
どうもアダムスはお金に縁が無い。

アダムスのクロノグラフィーを見ると、このようなgigが何日も並ぶ。レコーディングは自分のアルバムであろうと、他人のアルバムであろうと、ある種よそ行きの顔、日々のgigで聴けたような、このような普段着の演奏はなかなかアルバムでは聴く事ができない。プライベート録音は数多く残されているようなので、その内、ライブ物で聞けるようになればいいのだが。

例えば、これは1967年モントリオールでの録音



1. Inanout                     Pepper Adams 5:47
2. The Star-Crossed Lovers    Duke Ellington / Billy Strayhorn 3:54
3. Cindy's Tune                   Pepper Adams 5:58
4. Serenity             John Coltrane / Joe Henderson 6:27
5. Elusive                       Thad Jones 7:15
6. I've Just Seen Her         Lee Adams / Charles Strouse 7:17
7. Punjab                       Joe Henderson 4:05
8. Verdandi                      Tommy Flanagan 3:57

Pepper Adams (bs)
Zoot Sims (ts)
Tommy Flanagan (p)
Ron Carter (b)
Elvin Jones (ds)

Produced by Fred Northworthy
Engineer : Tommy Nola
Recorded on December 11 & 12, 1968


Encounter
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Ojc
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ペッパーアダムスのラストレコーディングはビッグバンドで・・・

2015-01-30 | PEPPER ADAMS
Suite Mingus / Denny Christianson Big Band

ペッパーアダムスは、ガンの治療を続けながら、演奏ができなくなるまでプレーを続けた。
最後のリーダーアルバムがあれば、最後のレコーディングもある。

サドメル時代は、ビッグバンドのペッパーダムスであったが、サドメルを辞めてからは反対にソリストとしてのアダムスに徹していた。ビッグバンドファンにとっては、ビッグバンドでのアダムスのプレーをアルバムでは聴けなくなったのは寂しかった。ただでさえ、ビッグバンドでバリトンのソロを売りにする、バンドもプレーヤーも少ないので。

サドメルに限らず、ケントンに始まり、ファーガソン、ミンガス、グッドマン、ハンプトン、ヘンダーソン、ピアソン・・・・、他にもアダムスが参加していたビッグバンドは数多い。ソリストになったとはいえ、ビッグバンドをバックにしたアダムス節があってもいいではないか?と思うのは、自分だけでは無かった。

カナダの東海岸の都市モントリオールはニューヨークからは近い。ニューヨークのミュージシャンは、広いアメリカを遠くまでツアーするよりは、気軽にこのモントリオールを訪れ演奏をする。ペッパーアダムスも昔からよくモントリオールを訪れていた。地元のジャズコラムニストLen Dobbinはそのアダムスとは50年代からの知り合いであり、アダムスの良き理解者であった。

地元モントリオールでビッグバンドを立上げたデニークリスチャンソンは活動を始めて3年が経った時、地元のブルーノートでのギグに誰かソロのゲストを招いて演奏をしたいと思った。というのも、ビッグバンドをバックにしたソロアルバムというのも、あるようでなかなか良いアルバムは見つからないと日頃から思っていたからだ。「そんなセットがあってもいいのではないか?」との思いが募り、このレン・ドビンに相談をした。

彼の答えは「選択は簡単だよ。特に君たちの演奏にピッタリなのはペッパーアダムスしかいないよ」というものであった。

その最初の共演が実現できたのは1984年10月。この年、アダムスは脚の怪我でその年の大半を棒に振っていたが、それは復帰直後の事であった。
15日にTony Zanoとのgigの後、シンガポールジャズフェスティバルにワンナイターで飛んで、ニューヨークにトンボ帰りで戻り、一休みしてモントリオールに入りしてリハーサルに臨むという強行軍であった。
そして22日にブルーノートに出演し、翌日には地元のラジオにビッグバンドとスモールグループで出演し、Christiansonの夢は実現した。

ラジオ局での録音↓



長旅の疲れのせいか、最初のリハーサルでのプレーは全くさえず、バンドのメンバーからは「あれがアダムス?」という声も聞かれたが、翌日の聴衆を前にした本番では人が変ったようにいつものプレーに戻ったようだ。初の組み合わせで、練習もそこそこでオーケストラをバックに吹きまくる本物のプレーを目の当たりにしてメンバー達は唖然とした。

この成功で、このセットでアルバムを作ろうという話が具体化するのには大きな障害はなかった。残された課題は曲をどうするか、そしてアダムスの健康状態となった。

というのも翌年3月ガンが発見され治療、療養状態が続いた中でのスケジューリングは大変で、やっとレコーディングがセットされたのは1986年2月になってからであった。

2月は、17日にサドメルの本拠地ビレッジバンガードでは結成20周年の記念イベントが1週間に渡って開かれた。このオープニングに参加したアダムスはゲスト参加し、ボディーアンドソウルでフィーチャーされ、昔懐かしいサドメルファンの喝采を浴びた。その後レコーディングを一件こなしてからのモントリオール入りは、とても病気と闘っているとは思えない行動力であった。

しかし、すでに体調はかなり悪化していた。頭の方も治療の副作用でスキンヘッドとなっていたが、体力の方もスタジオ入りしたアダムスが、自らのバリトンを運ぶにも2、3歩歩いては一呼吸置くといった様相であった。
とてもこの状況でプレーができるのか?と皆は思ったが、一度マウスピースを加えてプレーを始めると、元気な頃のプレーと全く変わりない音が溢れ出てきた。
この録音を聴いても、弱々しさは微塵もない。



曲は、スタンダード曲を中心に何曲も用意された。あとはアダムスが何を気に入るかであった。最初はアダムスもあまり乗らずにリハーサルにも熱が入らなかった。調子が出てきたのは日も変る頃。用意された譜面に、何年か前クリスチャンが一緒にロスで活動していたCurt Bergがミンガスに捧げて作った組曲Mingus Three Hatsがあった。これにはミンガスの曲も含まれている。

ミンガスとなるとアダムスも目の色が変る。アダムスはミンガスのプレーだけでなく、人間性にも惚れ込んだ尊敬すべき人物。即採用でリハーサルもそこそこで演奏はスタートする。

さらに、あとアダムスが興味を示したのはAlf Clausenが作った何曲か。実は、これらの曲はアレンジの雰囲気、音使いを含めてサドメルの初期の曲に実に似ている。アダムスが興味を示したのもうなずける。
そしてスタンダード曲の中ではMy Funny Valentine。これは奥さんへ捧げる曲だったようだ。

という流れで、アルバム2枚分近くが一気に録音を終えたが。最初にアルバムになったのはこの後半の25日の録音からであった。
そして、このアルバムSuite Mingusが生まれた。ジャケットにはSmile Mingusとなっているが、これには何か意味があるのか?

この1986年2月25日がアダムスのラストレコーディングとなった。全編アダムスがフィーチャーされ、アダムスのリーダーアルバムと言っても不思議ではないアルバムとなった。
アダムスが亡くなる7カ月前である。

最高のソリストを目指したアダムスの最後のソロを、アダムスを育てたビッグバンドをバックに聴けるというのは偶然とはいえ最高の置き土産だと思う。
あまり有名ではないが、アダムスファン以外でも、サドメルファンにもお勧めのアルバムだと思う。

その後も、アダムスはプレーを続ける。
6月のJVCフェスティバルではTribute to Harry Carneyのプログラムで舞台へ、さらに7月2日はモントリオールジャズフェスティバルへ。もちろん、デニークリスチャンソンも駆けつけていたが、舞台ではすでに椅子に座っての演奏だった。しかし、一曲目が始まる前からスタンディングオベーションで聴衆は迎えた。
そして、奇しくも、このモントリオールでのステージがアダムスの最後のステージとなる。
アダムスが亡くなる2カ月前。

帰宅後は、治療・療養が続くが、ベッドから起き上がれない日々が続く。でもプレーへの意欲が無くなる事はなかった。
そのような中、8月20日枕元の電話にディジーガレスピーから電話が入る「デンマークにいる盟友のサドジョーンズが亡くなった」との。
同じデトロイト出身でお互い無名の時から一緒にプレーし、一緒にコンビを組んだことも、サドメルの立上げから参画し、サドジョーンズが辞める直前まで行動を供にし、そして同じ時期病と闘っていた親友でもあり、戦友の死であった。
そのショックからか、体調がさらに悪化したのか、31日に予定されていたジャズフェスティバルへの参加はキャンセルされた。

9月に入ると容態はさらに悪化し、24時間の看護体制に入る。その病床を見舞ったのは、サドメルを辞めた時に真っ先に会いに行った親友のRon Marabuto、そしてトミーフラナガン夫妻であった。

そして、9月10日、自宅で安らかに眠りにつく。享年55歳。
本人の希望で、葬式は行われず、遺骨は未亡人によってニューヨークの港に散骨された。

9月28日、トミーフラナガンの音頭で追悼式が営まれたが、エルビンジョーンズ、ジョージムラツ、フランクフォスターといった親友たちに加え、ジェリーマリガン、ゲイリースマリヤン、ロニーキューバーといった多くのバリトンプレーヤーも集まりアダムスの死を悼むプレーを繰り広げた。
多くのバリトン吹きに、生涯まさにプレーに命を懸けたこの生き様は大きな影響を与えたと思う。

アダムスの訃報を載せたニューヨークタイムスの記事の最後の一行、

He is survived by his wife.

が印象的だ。


1.  Lookin' for the Back Door             Alf Clausen 7:13
2.  My Funny Valentine       Lorenz Hart / Richard Rodgers 5:17
3.  Trollin' for Thadpoles               Alf Clausen 9:49
4.  A Pair of Threes                  Alf Clausen 6:21
5.  Mingus -- Three Hats
     Theme/Slop/Theme/Fables of Faubus/Theme/I X Love
                   Curt Berg / Charles Mingus 15:53

Denny Christianson (tp,flh)
Pepper Adams (bs)

Roger Walls (tp)
Ron DiLauro (tp)
Laflèche Doré (tp)
Jocelyn Lapointe (tp)
Patrice DuFour (tb)
Muhammad Abdul Al-Khabyyr (tb)
André Verreault (tb)
Bob Ellis (btb)
Richard Beaudet (ts,cl.fl)
Jean Lebrun (ts,ss,fl,Piccolo)
Pat Vetier (as,cl.fl)
Joe Christie, Jr. (as,ss,cl,fl,Piccolo)
Jean Fréchette (bs,bcl)
Kenny Alexander (p)
Vic Angelillo (b)
Paul Picard (per)
Richard Ring (g)
Pierre Pilon (ds)

Produced by Jim West
Engineer : Ian Terry
Recorded on February 24 & 25, 1986 at Studio Victor, Montreal, Canada

Suite Mingus
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Justin Time Records
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人生の最期が予感できた時、演奏には何か別な想いが加わっているような・・・

2015-01-27 | PEPPER ADAMS
The Adams Effect / Pepper Adams

1983年、また新たにリーダーアルバムを作りライブ活動も順調で、すべてが順風満帆に思えたアダムスであったが、その年の暮れも押し迫った12月15日、最初の不幸が訪れる。

駐車していた車のハンドブレーキが緩み、動き出してしまった車とガレージに挟まれアダムスは脚を複雑骨折してしまう。そのお蔭で病床で新年を迎えることになるが、そこで、前年のアルバムlive at Fat Tuesday’sでの演奏がまたもやグラミー賞のベストソリストにノミネートされたことを知る。
制作されたアルバムは少なかったが、それらが次々とグラミー賞にノミネートされた。それもベストアルバムとかベストグループではなく、ベストソリストとしてノミネートされたということは、彼のプレーに如何に注目が集まっていたかということの証左であろう。

久々の休養をしたといえばそれは疲れた体には良くもあったが、脚の治りは遅かった。予定していた仕事はすべてキャンセル、一方で世間では自分の演奏の評価が高まっていることを知ると、ベットの中でいてもたってもいられない日々を過ごしていた。
松葉杖をついて、やっとサックスを吹く練習ができるようになったのは5月も末になってからだった。思わぬ事故のお蔭で、この時すでに演奏活動には半年間のブランクができてしまった。

6月28日のベニーカーターのコンサートが開かれたが、これには車椅子でリハーサルに参加し、やっとプレーに復帰できた。しかし、普通に仕事ができるまでに完治するにはさらに時間が必要だった。
杖をつきながらやっと歩けるようになったのは9月の末。すでに怪我から9カ月が経過していた。10月以降はボチボチレコーディングへの参加もできるようになったが、1984年は結局彼の人生において大事な一年間を棒に振ったと言ってもよい。

1985年1月13日、この日にやっと一年がかりで車いすや杖から解放された生活を過ごせるようになった。アダムスは前の年のブランクを挽回すべく積極的な活動を再開するが、そのアダムスに2回目の不幸が訪れる。

復帰後すぐ、1月の末にはヨーロッパに渡った。ロンドンからノルウェーを経て、スェーデンに着いたアダムスは、ストックホルムでギグをこなしていた。
3月9日最後にクラークテリーとフランクフォスターのための歓迎パーティーに参加した後、翌日10日には北部の田舎町Bodenで地元のリズムセクションとプレーをしていた。翌日11日、体の不調を訴え地元の医者にかかったが、そこでアダムスは何と肺がんであることの宣告を受ける運命の日となった。

やっと足の怪我から復帰できたばかりなのに、遠い異国の地での突然の宣告を受けどのような心境であったか。心中を察するには余りあるが、アダムスはそのままツアーを続けパリに飛ぶ。
ニューヨークに戻ったのは3月21日だった。23-24日はニューヨークを離れニューポートでギグをこなした後、ニューヨークに戻り医者の精密検査を受けたのは27日になってからであった。一週間の検査入院をしたが、結果が変るはずはなかった。

その動かしがたい現実に直面したアダムスは、再びヨーロッパに旅立つ。イタリア、フランスを経て再びニューヨーク戻ったのが5月6日。
ニューヨークに戻っても何事も無かったかのように仕事をこなす。メルルイスに捧げるジャムセッションに出たかと思えば、トムハレルとのギグ、そして6月のクールジャズフェスティバルではウェスモンゴメリーに捧げるライブをジミーヒースやジョージベンソンと一緒に行った。何かに取り憑かれたように仕事をこなしていった毎日であった。

そして、6月25日、26日の両日、このアルバムが録音された。

前置きが長くなってしまったが、このアルバムはそのような状況で録音されたことをまずは認識すべきだろう。そして、アダムスのリーダーアルバムとしては最後になるのがこのアルバムだ。

前作のファットチューズデーのライブから、このアルバムが生まれるまでの間のアダムスの置かれた状況を知ると、このアルバムには普通のアルバムとは別に、何か他にアダムスが訴えたいことがあるのではないかと思ってしまう。

アダムスにとっては、この一年半は、まさに夢と希望に満ちた天国から、一寸先が闇の地獄へ落ちたようなものだ。しかし、演奏すること自体にはまだ不自由さはない。否、今まで以上に力強さを感じる。これは、一緒にプレーをしたフラナガンも感じたようだ。まだ「今まで以上に吹けるぞ」という事を訴えようとしていたのか。これが最後のアルバムとは思いたくはなかったが、もしかしたらもう何枚も作れないとは思ったはずだ。

このアルバムでは、最初はすべてデトロイト出身のメンバーを集めようとしたらしい。事実エルビンジョーンズにも一度は声が掛かったという。しかし、結果的にはフラナガンだけになってしまったが、このフラナガンは言わずもがなの昔からの友人でありアダムスの音楽の良き理解者であった。

フロントの相方には今回はフランクフォスターを迎えている。サドメルでも一緒にやっているし、そしてエルビンジョーンズとのコンビにアダムスが参加する事もあった友人、このフォスターも通じ合う仲だった。
事実。アダムスはあまりリハーサルをやらないタイプらしいが、アダムスのオリジナル中心で、どうなる事かとプロデューサーは心配したが、このフォスターは最初からアダムスの想いに沿ったプレーを繰り広げたとある。
ベースのロンカーター60年代からよくやっている仲間、ドラムはエルビンジョーンズが駄目だった時、ビリーハートがすぐに決まった。アダムスにとっては良く共演する相手だ。いずれもメンバー達に不足はない。

フラナガンの軽快なピアノから、シャッフルリズムにのって久々にハードバッパーらしい演奏だ。フォスターのテナーとも良く噛み合っている。まだやれるぞという想いからか力強さを感じる。

そして、バラードプレーのNow in our Lives。「今をしっかり生きなければ」というアダムスの気持ちが聞こえてきそうな情感の籠った演奏だ。CD盤ではこの曲は別Takeも収められている。特別想いが強かったのか。



Claudett’s Wayは1978年、アダムスが結婚した時に妻の為に作った曲。Reflectoryでもファットテューズデイのライブでも演奏している。これも彼の人生の思い出の曲なのだろう。

アダムスのリーダーアルバムとしては、初めてのデジタルレコーディング。そしてルディーバンゲルダースタジオ。録音も申し分ない。このセッションでの唯一の欠点はビリーハートのドラムがうるさ過ぎる事だったようだが。もちろんプレーを抑えさせたが、最後はマルチャンネルのバランス調整で乗り切ったと。

タイトルどおり、控えめでありながら、自らがリードする時は妥協を許さないアダムスの影響力をメンバーやスタッフ全員に与えている。
このアルバムも、最後のリーダー作に相応しい好アルバムだと思う。

そして、このアルバムを録音した翌月7月には、医者から2か月間仕事と旅行を止めるようドクターストップがかかる。そして、放射線治療が始まる。その後は、体調も徐々に衰えざるを得ない、アダムスが亡くなるまであと1年3カ月。

1. Binary           Pepper Adams 6:57
2. Now in Our Lives      Pepper Adams 6:56
3. Valse Celtique        Pepper Adams 5:45
4. Dylan's Delight       Pepper Adams 6:21
5. How I Spent the Night    Frank Foster 7:02
6. Claudette's Way       Pepper Adams 7:27
7. Now in Our Lives      Pepper Adams 8:44

Pepper Adams (bs)
Frank Foster (ts)
Tommy Flanagan (p)
Ron Carter (b)
Billy Hart (ds)

Produced by Robert Sunenblick & Mabel Fraser
Recorded by Rudy Van Gelder

Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliff, N.J. on June 25 &26. 1985


Adams Effect
Pepper Adams
Uptown Jazz
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絶頂期のペッパーアダムスのライブでKenny Wheelerを相手に選んだ理由は・・・・

2015-01-24 | PEPPER ADAMS

Pepper Adams Live at Fat Tuesday’s

1981年春ペッパーアダムスはヨーロッパを旅していた。
一年前に作ったアルバム、”The Masters”での演奏が再びグラミー賞のベストソリストにノミネートされ、ソリストとしての活動に自信を深めていた。そして、そのプレーを披露し、評価してもらえる場所はアメリカだけでなくヨーロッパにも多かった。

4月にニューヨークを発ち、オランダでの演奏を終え5月2日にはノルウェー入りをした。1ケ月間様々なグループ、メンバー達と演奏をしたが、そこで一緒に行動を共にしたのがカナダ出身のケニーホイーラーであった。その時、すでにECMでのアルバムも多く、ヨーロッパではすでに名が売れたトランぺッターであった。

それからしばらくして、アダムスがインタビューを受けることに。
良くある「今後どんなことをやりたいですか?」という問いに、多くの人は漠然と「元気にいつまでもプレーしたいと」と答えるのが一般的だが、たまに具体的な計画や一緒にやりたいミュージシャンの名前が挙がる事がある。
その時のアダムスの答えもそうであった。「ノルウェーで一緒にプレーした、ケニーホイーラーと是非もう一度一緒にやってみたい」というものであった。

1983年、この年もアダムスは積極的に活動していた。1982年末に発表されたダウンビートの読者投票ではバリトンサックス部門で1953年以降30年間首位を続けていたジェリ―マリガンを抑えて初めて首位となったこともあり、活動の幅はさらに広がっていた。

ブルーノート、ボトムラインといった有名クラブへの出演が続き、古巣のビレッジバンガードへはエルビンジョーンズのグループに参加して出演していた。
そして、6月にはハンクジョーンズと共にスウェーデンに渡りストックホルムジャズフェスティバルに参加する。そこでは久々にモニカゼタールンドとも共演し、チェットベイカー、レッドミッチェル、シェリーマンというメンバーでも舞台を賑わせた。

帰国後は、エルビンジョーンズ、リチャードデイビス、フランクフォスターというあのHeavy Soundsのアルバムに参加したメンバー達の再会セッションへの参加もあった。
かと思えば、バリーハリスとはレッドロドニー、クリフォードジョーダンを加えたセッションも。
どれをとってみても、聴きに行きたくなるライブの連続だった。

そのような忙しい日々をおくっていた最中、アダムスの希望を実現する「場」が設けられた。アメリカではまだ無名であったケニーホイーラーを招いたセッションを受け入れるクラブやレーベルは稀であったが、ジャズクラブのFat Tuesday’s、そしてUptownというレーベルが手を上げてくれた。そこでレコーディングセッションがセットされた。

リズムセクションはノルウェーからメンバーを呼ぶのではなく、地元ニューヨークのミュージシャンが起用された。ピアノには一緒にストックホルムに行ったばかりのハンクジョーンズ。アダムスはジョーンズ兄弟とは同郷の仲間、サドジョーンズ、エルビンとは良くプレーしていたが、ハンクジョーンズとのプレーはあまり機会が多く無かった。そして、ベースにはクリントヒューストン、ドラムにはルイスヘイズ。



ライブに先立ち、リハーサルが行われたが、メンバー達はあっと言う間に打ち解けた雰囲気となった。
レコーディングはファッツチューズデイズでのライブで予定されたが、そこでまた問題が生じる。
選曲にあたってペッパーアダムスがスタンダード曲を頑として受け入れなかった。唯一Alone Togetherだけが選ばれたが残りはオリジナルとなった。



クラブ出演は6月16日からの5日間、録音はプレーもこなれた19日と20日の最後の2日間で行うことに。結果的に、この両日のセットリストを見てもいわゆるスタンダード曲は無く、ステージではOleoやAu Privaveが演奏されたがこれらはリズムセクションのみの演奏。アダムスとホイラーは参加していない。

この結果にはどうもプロデューサー側は不本意であったようだが、逆にこれがアダムスのリーダーアルバムに対する美学だったのかもしれない。前作のルーロウルズのアルバムでも起きたプロデューサーとの軋轢であった。他のミュージシャンのパートナーとして参加した時は、どんな曲でも、そしてどんなスタイルでもこなしたアダムスであったが、自分のリーダーアルバムに関しては妥協を許さない拘りだった。プロデューサーやレーベルにとっては扱いにくく、これがリーダーアルバムの少ない原因かもしれない。

もう一つは録音の問題。ライブでもあるが確かに決して良い音とは言えない。ベースのヒューストンもコメントしている、これは奇妙なサウンドと。自分達が行った演奏の音ではないが、自分達の手を離れてからの問題だと言っている。プロデューサー側も自分達はルディーバンゲルダーの音が好きなのだが、この結果には満足はしておらず、これはレコーディングを担当したJim Andersonの問題だと言っている。
なかなか良いメンバー、いい演奏でも結果が、曲と音を合わせて3拍子が揃うのは難しいものだ。

色々あったものの、演奏は素晴らしく、水と油に感じるアダムスとホイラーのサウンドもうまく噛み合っている。アダムスとトランペットの組み合わせというとブルーノートのドナルドバードとのコンビでファンキーな演奏が思い浮かぶが、サドジョーンズとかチェットベイカーなど良く共演するトランペットの好みは必ずしも派手なタイプではない。ドナルドバードとの演奏もクラブではアルバムとは別の雰囲気を感じさせる。

ハンクジョーンズはアダムスのバリトンを称して、大部分のプレーヤーは安全域の中で演奏するがそれがプレーの可能性をつぶしている。ところが、アダムスはハーモニーでも、メロディーでもすべての点で、常にその「安全域」を超えて可能性にチャレンジしている。それが良い演奏になっているのだとコメントしている。
レーシングドライバーが、危険なカーブでもスピードを落とさずに突っ込むからこそ、ドライビングテクニックが発揮できるのと同じ事を言わんとしているのだろう。

このアルバムにおけるアダムスの演奏は、また翌年のグラミー賞のベストソリストにノミネートされることになる。これも、アダムス絶頂期のアルバムの一枚といえよう。

しかし、折角の絶頂期に残されたアルバムは少ない。活動歴を見ると、始めに述べたように連日数多くの魅力あるセッションに参加している。特に、この時期のエルビンジョーンズとのプレーは是非聴いてみたいものだ。アルバムとしては残っていないが、多くのプライベート録音は残されているようなので、どこかで陽の目を見ているかもしれない。

絶頂を迎えたアダムスが亡くなるのはこのレコーディングから3年後の1986年9月。その間のリーダーアルバムも後一枚を残すのみとなった。

1. Conjuration                     Pepper Adams 7:47
2. Alone Together      Dietz / Howard Dietz / Arthur Schwartz 8:17
3. Diabolique II                   Pepper Adams 7:58
4. Claudette's Way *             Pepper Adams 7:35
5. Dylan's Delight *                 Pepper Adams 6:46
6. Dr. Deep                   Pepper Adams 7:33
7. Old Ballad                     K.Wheeler 7:10
8. Quittin' Time *                   T. Jones 6:52
9. Dobbin                    Pepper Adams 5:45
10. Tis *                      T. Jones 2:34

*はCD盤に収録

Pepper Adams (bs)
Kenny Wheeler (tp)
Hank Jones (p)
Clint Houston (b)
Louis Hayes (ds)

Produced by Robert Sunenblic & Mark Feldman
Recording Engineer ; Jim Anderson
Recorded live at Fat Tuesday’s , New York on August 19 & 20, 1983

CONJURATION / FATTUESDAY'S SESSION
pepper Adams
RESERVOIR
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メイナードファーガソンの過渡期の一枚は果たしてどんな感じで・・・

2015-01-20 | PEPPER ADAMS
Ridin’ High / Maynard Ferguson

手元に、スインジャーナルの‘67年6月号、7月号がある。たまたまアダムスのアルバム紹介で’67年録音が続いており、当時の情報でも何か得ようかとパラパラとめくっていると、瀬川昌久さんのビッグバンドに関する記事「ビッグバンド界の新勢力を探る」が2カ月に渡って掲載されていた。

サドメル、バディリッチ、ドンエリス、ウディーハーマン、ジェラルドウイルソン、そしてクラーク&ボランと当時旗揚げした話題のビッグバンドの紹介がされている。新しいビッグバンドが注目された時期だった。
読み返して面白かったのが、バディリッチがオーケストラを再編した時の逸話。
最初のデビューはラスベガスの新しいホテルであった。この新バンドの売り込み文句は「ロックジャズ」であった。運営を任されたエージェントは、ディスコのティーンネイジャー向けの演奏を希望し、アレンジもそのようなアレンジをオリバーネルソンに依頼した。しかし、リッチはそれに反目し最後はエージェントとの契約を切ったとある。
確かに、リッチの初期のアルバムは、ロック調の曲もあったが、ストレートなフォービートもあり、軸足はそちらに置きながら新しい物を取り込んだように思う。このリッチの拘りがあったから、その後もリッチのビッグバンドは続いたのだろう。

そして、気が付いたのが、その記事の中にメイナードファーガソンの名前が無かった。確かに、ファーガソンビッグバンドのルーレット時代は1965年で終わり、ハイノートを売りにしたコマーシャリズムにのった新たなバンドが生まれたのは70年代になってからだ。60年代の後半は、ファーガソンにとっては変身に向けて端境期であった。内情は、充電期というより、アメリカのジャズ界に嫌気がさして、イギリスへの移住も考えて半ば引退状態だったという。このファーガソンの場合は、リッチとは異なり、70年代に入っての思い切った変身が成功につながったケースだと思う。

一方で、アダムスの活動歴に戻ると、‘67年4月、この月は大忙しだった。サドメルのビレッジバンガードでのライブ録音(これは改めて棚卸したいと思う)があった月だが、前回紹介したバリーハリスのアルバム、ボビーハケットのアルバムを始めとしてレコーディングが続いた。その間隙を縫うようにエルビンジョーンズとのギグも何回か行われていた。
デュークピアソンとハーフノートに出たと思ったら、メイナードファーガソンとのギグも5日間。
そして、翌5月にメイナードファーガソンのオーケストラのこの録音があった。アダムスとファーガソンとの付き合いも56年の西海岸以来だから長い。忙しい毎日であったが、このファーガソンとの付き合いも大事にしていたようだ。

ファーガソンはハーマン同様生涯自分のバンドを率いたイメージはあるが、自分の認識としてもこの60年代後半のアルバムや活動歴はほとんど記憶に無かった。そんな中で作られたアルバムで、今回お初で聴いてみた。流石の瀬川先生も、レギュラーバンドを解散していたので、この期間のファーガソンの活動はノーケアだったのかもしれない。

小振りの編成が多いファーガソンだが、ここではフルのビッグバンド編成。
一曲目から少し意表を突く。チューバの低音が効いたアレンジで、途中からテンポがどんどん速くなったり遅くなったり緩急があり。ソロはフリージャズの様相を呈する。トロンボーンに次いでいきなりアダムスのソロがあるが、アルトとの掛け合いもミンガスビッグバンドのようだ。
これはかなり実験的なアルバムかと思ったら、曲によって雰囲気は変わる。今度はエイトビートが効いたロックスタイル。ここでもアダムスが登場。ドンセベスキーの作品は何となくウォーターメロンマン風。バディリッチのアルバムでも有名なWack-Wackも聴けるが、拍手を効果的に使ってリズミカルに。

全体にファーガソンは自体があまりハイノートで吹きまくっている感じではなく、8ビート時代を迎えて、曲やリズムのバリエーションを試している感じだ。新バンドが誕生するのは大分先になるが、ちょうど転換期のアルバムは、色々なアプローチをした面白いアルバムだった。

1. The Rise and Fall of Seven       Mcintosh 5:52
2. Light Green             Don Piestrup 3:39
3. Kundalini Woman          Hampton 5:23
4. Sunny               Bobby Hebb 3:50
5. Meet a Cheetah           Don Sebesky 4:26
6. Molecules               Hampton 4:36
7. Wack-Wack             Donald Storball 2:48
8. Stan Speaks               Mcintosh 2:32
9. Alfie           Burt Bacharach / Hal David 3:00

Maynard Ferguson  (tp,flh)
Richard Hurwitz (tp)
Natale Pavone  (tp)
Lew Soloff  (tp)
Charles Camillei  (tp)
Slide Hampton  (tb)
James Cleveland  (tb)
George Jeffers  (btb,tuba)
Richard Spencer  (as,ss)
Lew Tabackin  (ts)
Frank A. Vicarr  (ts)
Pepper Adams  (bs)
Danny Bank  (bs,Piccolo)
Michael Abene  (p)
Joseph A. Beck  (g)
Donald R. Payne  (b,eb)
Donald McDonald (ds)
Johnny Pacheco (Congas, Drums, Shaker, Tambourine)

Produced by Alvertis Isbell
Recorded at Bell Sound Studios, New York, May3 & 5, 1967



Ridin High
Maynard Ferguson
Wounded Bird Records
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たまには、パウエルを忍んでバップスタイルでやってみようか・・・

2015-01-18 | PEPPER ADAMS
Luminescence! / Barry Harris Sextet

サドジョーンズの鳩のアルバム、そしてリーモーガンのサイドワインダー。どちらも時代を代表する有名なアルバムだ。そのどちらにも参加していたのが、ピアノのバリーハリス。
バドパウエル直系と言われるピアノは、ハードバップの創成期から色々なグループで活躍してきた。ピアノトリオのアルバムもあるが、トリオが有名になったのは晩年になってからかもしれない。

このバリーハリスは今でも健在。ベニーゴルソンやフィルウッズなど50年代のジャズを自らの体験で語れる数少ない生き証人の一人だ。プレーだけでなく、このパウエルから引き継いだビバップの真髄をまだ後進に伝承し続けているとも聞く。

このアルバムは、そのバリーハリスのプレスティッジレーベルでの初のリーダーアルバム。
このようなジャズの本流といった感じのアルバムを、記事で紹介するのも久しぶりのような気がする。

というのも、最近ペッパーアダムスの参加したアルバムを紹介する事が多いが、アダムスがサドメルに加入した60年代の後半には、アダムス自身がこのようなアルバムの録音に参加する機会が無かった。直近では、先日紹介したジミーラッシングのバックであり、ボビーハケットのバックに参加したのがこの時期である。というより、当時のジャズ界全体がコルトレーン旋風の吹いた後で、バリバリのバップ直系、そしてハードバップの演奏自体が少なくなっていた頃なので仕方がないともいえる。

反対にそのような時代だからこそ、このバリーハリスのアルバムは価値がある。1967年からいきなり10年前にタイムスリップした感じのアルバムだとも言える。此の頃のプレスティッジは大物プレーヤーもいないので、地味なアルバムが多い。その中で時々光るアルバムがあるが、これもその一枚だと思う。

ハリスはここではトリオの演奏では無く、3管の分厚いサウンドを選びアレンジも担当した。それもトランペット無しの、テナーにバリトン、そしてトロンボーンと低音域ばかりの重いサウンドだ。
久々のバップオリエンテッドな演奏、メンバー全員が水を得た魚のように生き生きとプレーしている。曲はハリスのオリジナル曲が中心だが、パウエルの曲もあり曲調は似ている。
パウエルが亡くなったのは前の年1966年の7月。まだ41歳の若さだったが、後を引き継ぐハリスとしては、これはパウエルへの哀悼の意を込めたアルバムだったのかもしれない。

ペッパーアダムスのソロも軽快だ。ちょうど西海岸からニューヨークに戻った頃の演奏の感じがする。アダムスも良いが、ジュニアクックのテナーが実にいい感じだ。

50年代か続くジャズレーベルのもう一方の雄、ブルーノートがリバティーの傘下に入ったのが前の年。アルフレッドライオンは最後の頑張りを見せていたが、この年の7月には引退してしまう。それに合わせるようにブルーノートがファンキー路線からさらに変貌する中、このプレスティッジは世の中の流行には振り回されず、マイペースでアルバムを作っていた。

そんな背景もあったので、ハリスのアルバムも何も奇を衒うことなく平常心で作られたように思う。これもバップスタイルの演奏にその後も拘ったプロデューサーDon Schrittenの手腕という事になるが、演奏だけでなく録音に関しても、古き良き時代の音を残したとコメントしている。確かに、ジャズの香りがする録音だ。

アダムスは、このセッションにはリーダーのハリスから声を掛けられたと思うが、このハリスも実はデトロイト出身。サドジョーンズ達と同様、アダムスにとっては地元デトロイトで一緒にプレーをした同じ年代の仲間であった。

ハリスがニューヨークに出たのは、アダムスよりは一足遅れて60年になってから。色々なセッション、グループへの参加を経て、この時期になってリーダーアルバム作りが本格化する。ハリスは典型的な大器晩成型だ。このアルバムからそろそろ50年、そして今も現役生活が続く。それも、パウエル直系のバップの伝統を、何の迷いやブレも無く今に至るまで守っているからだろう。

1. Luminescence        Barry Harris 6:23
2. Like This          Barry Harris 2:58
3. Nicaragua         Barry Harris 8:36
4. Dance of the Infidels     Bud Powell 5:05
5. Webb City          Bud Powell 5:58
6. My Ideal Newell Chase / Leo Robin / Richard A. Whiting 2:47
7. Even Steven          Barry Harris 6:40

Junior Cook (ts)
Pepper Adams (bs)
Slide Hampton (tb)
Barry Harris (p.arr.)
Bob Cranshaw (b)
Lenny McBrowne (ds)

Produced by Don Schritten
Richard Alderson : Recording Engineer
Recorded in NYC, April 20, 1967

Luminescence
Barry Harris
Ojc
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グラミーに連続ノミネートされたアダムスにレコーディングの機会を与えたのは新興Palo Altoだったが・・

2015-01-14 | PEPPER ADAMS
Urban Dream / Pepper Adams

昨年、西海岸ベイエリアを中心に活動していた、ジャズの研究者、教育者でもあったHerb Wong氏が亡くなった。

Herb Wong, leading Bay Area jazz expert, dies at 88

彼はもともと米軍放送でDJをやっていたそうだが、除隊後は地元サンフランシスコでFM局を作り、好きなジャズを世に広める活動をしていた。ジャズアルバムのライナーノーツにも彼の名前を見かけることがある。
さらに、地元で開催されるモンタレージャズフェスティバルの運営にも貢献し、80年代には自らもプロデュースに参加したアルバムを作るため、Palo Altoレーベルを創設し100枚近くのアルバムをリリースした。

このレーベルが立ち上がった時、そのカタログは無名のビッグバンドなどが中心であったが、次第に当時人気のあったリッチーコールのアルバムなども作られるようになって注目された。その中にペッパーアダムスのリーダーアルバムも一枚あった。これがアダムスにとっては、Museに残した2枚のアルバムの続編になる18枚目のリーダーアルバムとなった。

Museでの最初のアルバム”Reflectory"が1980年のグラミー賞にノミネートされたという話は前回述べた。アダムスの手記によると、このアルバムとヘレンメリルのアルバムの2枚がダブルでノミネートされたように記してあったが、よくよく調べてみるとメリルとのアルバムChasin’ The Bird sings Gershwinは翌1981年のノミネート。それも、メリルのベストソロ女性ボーカルだけでなく、このメリルのバックを務めたアダムスのバリトンのプレーがベストソリストとしもノミネートされたダブルノミネートであった。数あるジャズアルバムの中から、このメリルと共演した演奏がベストプレーと位置付けられたのが、より意味のある事だったと思う。

ついでに加えるとMuseの2枚目のアルバムThe Masterも1982年2月に行われた第24回のグラミー賞でジャズのベストソリストの候補としてノミネートされた。アダムスはこれで、3年連続でのノミネートということになる。ソリストとして脂が乗って来たという事が世の中でも認められていた事になる。

このPalo Altoのアルバムは1981年の9月の録音。ソリストとして評価を得つつあったアダムスは前年1980年3月The Masterを録音した以降、あれだけ多かったスタジオでの仕事は完全に休止していた。リーダーアルバムだけでなく、サイドメンとしての録音も見当たらない。ソリストとしてのライブ活動に注力して事になる。さらに記録を見ると、その間の活動の場は、アメリカに留まらずヨーロッパでの活動が多い。そのため、家族どもどもヨーロッパに活動拠点を作ったほどだ。

Palo Altoを設立したHerb Wongは、そのような活動をしていたアダムスに目を付けたということになる。グラミーで毎年ベストソリストにノミネートされ、ダウンビートでも第一に輝くアダムスであったが、それを知ったファンがアダムスの最新の演奏を聴こうにも機会が殆どない状況だった。それ知れば、そのリーダーアルバムを作ろうと思うのは当然の成り行きである。

録音は、ヨーロッパから戻ったアダムスを待ち受けるように9月30日ニューヨークで行われた。スタジオもブルーノートの録音では通い慣れたルディーヴァンゲルダーのスタジオ。そしてメンバーは、ベースのジョージムラツ、ドラムのビリーハートはいつものメンバー。一つ異なったのはピアノであった。前の二作では、ローランドハナ、トミーフラナガンといった気心の通じ合う2人であったが、このアルバムのピアノはジミーロウルズが起用された。一時ニューヨークにもいたロウルズであったが、この時は西海岸に戻っていたという。このロウルズの起用について理由は分からないが、Wongの意向か、このアルバムの直接のプロデューサーであったBob Porterの意向と思われる。

アダムスとロウルズというと、実はアダムスのリーダーアルバムでも過去に共演歴がある。西海岸にデビューした直後の2枚目のリーダーアルバムCritic’s Choiceで起用されたピアノがこのジミーロウルズであった。このアルバムは、ダウンビートの批評家の選んだ新人賞を受賞した記念アルバムともいえるアルバムだが、実は録音自体はその受賞発表の直前であった。タイミングが丁度ピッタリ合ったということになる。
この時もメルルイスやリーキャッツマンなどはケントンオーケストラから行動を共にしていたメンバーであったが、ピアノのルーロウルズとは初顔合わせだったという。
何か因縁を感じるが、そのロウルズの起用理由に興味が湧く所だ。

このセッションは、アダムスにとっては前作に続いてアダムスをフィーチャーしたワンホーンアルバムであり、彼のソリストとしての活動をアピールするレコーディングとしては願ったりかなったりの機会であり、タイミングであったはずだ。

しかし、このレコーディングに関しては、アダムスは前のMuseの2枚と較べると満足のいくものではなかったとコメントを残している。
その第一の理由が選曲。Wong達からはスタンダード曲での録音を要望されたようだ。一方のアダムスは前作がそうであったように、自分のオリジナル曲中心のアルバムが希望であった。結局、アダムスのオリジナルが2曲、他の作品が4曲で折り合いがついた。

そして、もう一つがロウルズの位置づけ。このようにレコーディングの中身にすったもんだしている状況が西海岸にいるロウルズには正確に伝わらなかった。結局アダムスとは何の事前の打ち合わせもできず、譜面や情報もないままにニューヨークへ来ることになった。

気難し屋であり細部の段取りに拘るアダムスにとっては、イライラが募った結果のレコーディングが始まった。リハーサルもそこそこにいきなりレコーディングに臨み、短時間で録音を終えた。それはプロの仕事と言えばそれまでだが。結果的には、やはりロウルズのピアノはソロも短く中途半端である。これには付き合わされたロウルズも不本意であったようだ。

全体にちぐはぐ感もあり、アダムスのソロだけがひたすら突っ走っている感じもする。スリーリトルワーズではいきなりアダムスが速いテンポで始める、こんなはずではという気持ちで他のメンバーがベースソロをきかっけにテンポを戻すが、アダムスが再びソロをとるとテンポはまた倍速にといった感じだ。
しかし、このライブでのセッションのような感じがいいという意見もあり、ジャズという物は本人の想いとは別に様々な評価を受けるので結果何が良かったかは??前作でもドラムのテンポが遅すぎたのが結果オーライになっている曲があった。聴き手が満足すればそれはそれでよしという事かもしれない。

このアルバムもプレーヤーとプロデューサーの関係が結果に残ってしまったが、プロデューサーの役割としては、あくまでもミュージシャンの意向を反映させるレコーディングをセットするタイプ、反対に自分の想いをミュージシャンに演じさせようとするタイプがあるようだ。前者の代表格がアルフレッドライオンであり、後者はどうも評論家や研究家がアルバムを作ると陥りやすいケースのような気がする。
あとは商売最優先で、売れるアルバムづくりに徹するタイプもいるが・・このアルバムは縁が無いようだ。

1. Dexter Rides Again              Dexter Gordon 6:27
2. Dreams, Urban                Pepper Adams 4:44
3. Three Little Words         Bert Kalmar / Harry Ruby 7:18
4. Time Is on My Hands Harold Adamson / Mack Gordon / Vincent Youmans 6:55
5. Pent Up House                 Sonny Rollins 7:04
6. Trentino                    Pepper Adams 6:51

Pepper Adams (bs)
Jimmy Rowles (p)
George Mraz (b)
Billy Hart (ds)

Produced by Herb Wong & Bob Porter
Recording Engineer ; Rudy Van Gelder
Recorded at Van Gelder Studio, Englewood, Cliffs, NJ, September 30, 1981

Urban Dreams
Pepper Adams
Quicksilver
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ベテランブルース歌手の復活は、名プロデューサーとアレンジャーのお蔭・・

2015-01-11 | PEPPER ADAMS
Every Day I Have The Blues / Jimmy Rushing

ジャズを聴く時の楽しみのひとつは演奏する曲のバリエーションの豊富さだ。POPS系は常に新しいオリジナルが求められるし、クラシックは過去の作曲家の作品の再演だし・・。
ジャズの場合は、もちろんオリジナル曲も楽しみだが、昔から演奏されているスタンダードでも、演奏者の解釈で全く違う曲想にも変わってしまうのも楽しみ。ビッグバンド好きとしては、何もアドリブだけではなく、アレンジも妙による変化も含めて。
もう一つはブルースの存在だ。ジャズとブルースは切っても切れない関係。アルバムでもライブでも、ブルースの曲が登場すると何故かジャズを聴いているという感じがして嬉しくなるものだ。

巨漢のブルース歌手ジミーラッシング。ベイシーオーケストラの専属歌手として有名になった。ベイシーの専属歌手というとジョーウイリアムスが有名だが、これはお馴染みベイシーの第2期の黄金時代の話。初期のベイシーというと、このジミーラッシングになる。
1936年からベイシーがオーケストラを解散する1950年まで専属歌手を務めた。当時の歌はあまり多くは聴いた事が無いが、有名なデッカ時代の録音だけでも、多くの曲で彼の歌を聴ける。

元々ブルース歌手として活躍していたのでブルースはお手の物だが、このベイシーオーケストラではスタンダード曲も歌っている。ベイシーと共にニューヨークに出てくるとラッシングのブルースも泥臭いブルースから、都会的なブルースに更に変っていった。
ベイシーを辞めた後も、他のバンドに加わってゲスト出演したり、ベイシーオーケストラ出身のメンバーや、ズートシムスやアルコーンのグループと一緒に行動し、歌手生活を続けていた。

1967年1月、久々に自らのリーダーアルバムのレコーディングを行った。プロデューサーはボブシール。あのインパルスレーベルの黄金期のプロデューサーだが、そのシールが同じABC傘下にブルースに特化した別レーベルBlueswayを立上げ、そこでこのアルバムEvery Day I Have The Bluesが誕生した。

ここでは、もちろん全曲ブルース、ブルース歌手のラッシングとしてのリステージアルバムとなった。この時ラッシングは66歳、声の衰えはあるものの元気に歌いきっているが、流石シールのプロデュース、ラッシングを支えるバッキングも色々と考えられたものとなっている。

まずは、バックのアレンジを担当したのがオリバーネルソン。その頃のネルソンは本体のインパルスの自分のアルバムだけでなく数々のアルバムのアレンジャーとして大忙しであった。
ネルソンは、有名なアルバム「ブルースの真実」そしてその続編を残したように、「ブルース」に関して何か自分自身の想い入れもあったようだ。アンサンブルにはブルース特有のコテコテサウンドではなくスマートなネルソン節を感じる。リズムに、ジャズ畑のジョージデュビビエ、グラディーテイトを起用している効果も大きい。ピアノのハンクジョーンズは多くの曲でピアノではなくオルガンを弾いているがこれも珍しい。

ブルースは誰か掛け合いの相方がいた方がいい。今回の相手は最初のベイシーオーケストラ時代のメンバーでもあったトロンボーンのディッキーウェルズ。トランペットのクラークテリーもお仲間だった。そしてブルースには欠かせないギターだが、これは奏者不明となっている。

1月9日にこのメンバーで8曲の録音が行われた。そして翌日の10日に追加で一曲Evil Bluesの録音が行われたが、メンバーが一部入れ替わる。ギターがケニーバレルに、オルガンにシャーリースコット。それにペッパーアダムスが新たに加わる。

ペッパーアダムスのメモには、当日の事は「オリバーネルソンのセッション、そして録音場所の住所だけ」が記されていたという。ネルソンから急にお呼びが掛かったのかもしれないが、何故この曲だけが別扱いになったのか、そしてアダムスが参加したのかの真相は分からない。確かにアンサンブルは厚みが増したが。

このCDには、インパルスから再リリースされたものだが、もう一枚のアルバムLivin' The Bluesが一緒にカップリングされている。
こちらも同じブルースウェイのアルバム。翌年1968年の録音だが、こちらの相方はテナーのバディーテイトが務める。テイトも昔の仲間、そしてテイトの音色も呼吸もピッタリ合ってラッシングを支える。このアルバムのアレンジャーは明記されていないが、同じような編成でもネルソンのサウンドとは異なる。

そして、もう一つの特筆すべきはピアノのデイブフリッシュバーク。自分はコンコルドのアルバムや、CTIのカエルのアルバムしか知らなかったが、実は白人ブルース弾きのピアニストとしてラッシングもお気に入りだったそうだ。今ではプレーヤーとしてより、作曲家、作詞家としての方が有名だが、この人も才能豊かで何が本業か分からない人だ。

このレコーディングセッションに一曲だけに参加したアダムスの、サドメルでの活動が本格化しビレッジバンガードでのレギュラーライブ以外での演奏も多い中でのスタジオワークの一コマである。ボビーハケットのバックのオーケストラの仕事があるかと思えば、こんなセッションもあった。スタジオミュージシャンとして大変なことでもあり、楽しい点でもあっただろう。

このアルバムも、アダムスのお蔭で聴く事になったが、LP2枚分ブルース漬けとなるのも初体験。だが、ブルースは何故か聴き続けても苦にならないし、結果的に楽しめたアルバムだ。

1. Berkeley Campus Blues    Bob Thiele / George David Weiss 3:06
2. Keep the Faith, Baby         Shirley Scott / Rick Ward 2:48
3. You Can't Run Around       Count Basie / Jimmy Rushing 4:04
4. Blues in the Dark         Count Basie / Jimmy Rushing 3:45
5. Baby, Don't Tell on Me  Count Basie / Jimmy Rushing / Lester Young 2:40
6. Every Day I Have the Blues             Memphis Slim 2:52
7. I Left My Baby     Count Basie / Andy Gibson / Jimmy Rushing 4:28
8. Undecided Blues                 Jimmy Rushing 5:18
9. Evil Blues   Count Basie / Harry "Sweets" Edison / Jimmy Rushing 2:58
10. Sent for You Yesterday (And Here You Come Today) Count Basie / Eddie Durham / 4:14
11. Bad Loser                   Rose Marie McCoy 4:20
12. Sonny Boy Blues            Bob Thiele / George David Weiss 4:47
13. We Remember Prez                    Dicky Wells 4:57
14. Cryin' Blues             Bob Thiele / George David Weiss 4:40
15. Take Me Back, Baby             Count Basie / Tab Smith 6:13
16. Tell Me I'm Not Too Late              Rose Marie McCoy 7:38


Jimmy Rushing (vol)

#1〜9
Dicky Wells (tb)
Clark Terry (tp)
Bob Ashton (ts)
Pepper Adams (bs) #9
Hank Jones (p,org)
Shirley Scott (org) #9
Unknow    (g)
Kenny Burrell (g) #9
George Duvivier (b)
Grady Tate (ds)
Oliver Nelson (arr.)

Recorded at Capital Studio, New York, January 9 & 10,, 1967

#10〜16
Buddy Tate (ts)
Dicky Wells (tb)
Wally Richardson (g)
Hugh McCracken (g)
Dave Frishberg (p)
Bob Bushnell (eb)
Joseph "Kaiser" Marshall (ds)

Recorded at Capital Studio, New York, 1968
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昔懐かしい曲の演奏も、好アレンジとバックの好演に支えられると・・・

2015-01-07 | PEPPER ADAMS
Creole Cookin’ / Bobby Hackett

ボビーハケットは、最初はビックスバイダーベックに憧れるシカゴ派のコルネット奏者だった。いわゆるオースティンハイスクールギャングの面々よりは一回り若い。エディーコンドンなどとプレーした後は、グレンミラーなどオーケストラでの演奏が中心になる。そして、戦後はジャズというよりはムードトランペットの世界で一躍有名になった。
昔、トラッド、スイング系を良く聴いていた時には彼の名前は良く耳にしていたが、ジャズ奏者としての演奏は1955年のコーストコンサート以降は聴いた事が無かった。

最近はアルバムを持ってはいなくとも簡単に演奏を聴く事ができる。そして、YouTubeを見ると音楽に併せてハケットの色々な写真や映像を目にすることができた。晩年でも決してジャズを忘れていた訳ではなかったし、アメリカでの人気の程を窺い知ることができる。その中で1962年の映像が目に留まった。テレビ番組の映像だとは思うが、ピアノがデイブマッケンナ、トロンボーンがアービーグリーンだ。こんなメンバーともやっていたのかと。楽しいディキシーの演奏だ。



ここでクラリネットを吹いているのが、先日紹介したライオネルハンプトンの音楽生活50周年の記念コンサートで、ベニーグッドマン役を務めたボブウィルバーである。スイング系のクラリネット、ソプラノサックス奏者として、コンコルドレーベルの初期にはケニーダーバンとのコンビでアルバムを残しているが、好きなアルバムであった。

1967年にこのボブウィルバーがアレンジャーとしてボビーハケットの為にアルバムを作った。この当時、ハケットはトニーベネットのツアーに一緒に参加していたという。60年代の後半というと、メジャーレーベルでは大編成のオーケストラをバックにしたアルバムが多く作られた時代であるが、この手のアルバムは、アレンジ次第で面白くもつまらなくもなるものだ。

プロデューサーのボブモーガンとウィルバーが用意したのはディキシーの名曲ばかり。ハケットがまだ駆け出しの頃、バイダーベックを目指して日々演奏していた曲だ。これらのニューオリンズジャズの原点ともいえる名曲をハケットとウィルバーが今風に料理したので、タイトルのクリオールクッキンという名前も付いたのであろう。

素材が素材だけに、ハケットのプレーはムードトランペットというよりはスインギーなメリハリのついたプレーとなっている。それを支えるウィルバーのアレンジが素晴らしい。ディキシースタイルを単に大編成にしたというのでもなく、かといって良くあるスイングオーケストラ風にしたのでもなく、自分の好みのモダンスイングなサウンドに仕上げている。なかなかいい感じだ。やはり、この手のアルバムはアレンジャーの腕とセンス次第で良くも悪くもなる。

もちろんハケットのソロが前面に出ているが、ボブブルックマイヤーのトロンボーンのデュエットやウィルバーのソプラノサックスのソロも印象的だ。その昔、ニューオリンズジャズが、シカゴに来て泥臭さが抜けて白人好みになってシカゴジャズになったのと同様、今回の料理はニューヨークモダンに仕上がったともいえる。

このバックのオーケストラのメンバーに、ボブブルックマイヤーだけでなく、ジョーファレル、ジェリーダジオン、そしてペッパーアダムスなど、当時のサドメルのオーケストラの面々が参加している。アダムスにとっては、デュークピアソンに付き合って、ブルーノートのアルバムへの参加が多かった中で、少し毛色の違ったレコーディングであった。

後に、このアルバムのアレンジをしたボブウィルバーが語っている。「このアルバムはハケットの希望もあって、慣れ親しんだ曲ばかりだがすべて今までとは違ったチャレンジをしている。それを実現できたのも、それを理解して演奏してくれるプレーヤーがいたから。ペッパーアダムスは自分の意を組んでくれるバリトン奏者だ」と。

サドメルのメンバー達が一発勝負の"Hawaii”を録音した一週間にこの録音はスタートしたが、5月まで録り直しを含めて4回に分けてじっくり時間をかけて録音されたアルバムだ。

1. High Society
2. Tin Roof Blues
3. When The Saints Go Marching In
4. Basin Street Blues
5. Fidgety Feet
6. Royal Garden Blues
7. Muskrat Ramble
8. Original Dixieland One Step
9. New Orleans
10. Lazy Mood
11. Do You Know What It Means To Miss New Orleans
12. To Miss New Orleans

Bobby Hackett (cornet)
Rusty Dedrick, Jimmy Maxwell (tp)
Bob Brookmeyer, Lou McGarity, Cutty Cutshall (tb)
Bob Wilber (cl, ss, arr)
Jerry Dodgion (as)
Zoot Sims (ts)
Pepper Adams (bs)
Dave McKenna (p)
Wayne Wright (g)
Buddy Jones (b)
Morey Feld (ds)

Produced by Bob Morgan
Engineer : Val Valentin
Recorded on January 30, February 2, March 13, May 2, 1967, NYC
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昔お世話になった先輩の50周年のお祝いとなると、駆けつけなければならないのが世の常だが・・・

2015-01-06 | PEPPER ADAMS
Lionel Hampton 50 th Anniversary Concert live From Carnegie Hall

昔からジャズの本場アメリカといえども、レギュラーグループを組んでレコーディングができ、クラブ出演やツアーができるグループというのはほんの一握りしかなかった。ペッパーアダムスも、そのような生活を過ごしたのはドナルドバードとのクインテットを組んだ時だけ。アルバムこそブルーノートから何枚か続けて出たが、2人のクインテットでのツアーはせいぜい一回、クラブ出演というのも数える程というのが現実であった。

ソリストとして独立したペッパーアダムスが、何とか納得のいくアルバム”Reflectory”を作り、続編ともいえる”The Master”を1年半後に制作する間、このグループで活動ができたかというと、ざっと記録を見た限りでは形跡はない。所詮レコーディングでしか聴く事の出来なかったグループであり、演奏という事になる。残念ながらレギュラーグループの結成というまでには至らなかったのが現実である。

この間、活動の場所はアメリカよりもヨーロッパが多いが、その中でひとつ断り切れないともいえる仕事があった。それがライオネルハンプトンオーケストラでの演奏だった。ソリストとしての独立のためサドメルを辞めたが、結局ハンプトンオーケストラに加わっての演奏が多かったというのも皮肉である。

Reflectoryの録音が6月14日。その後何本かのレコーディングセッションに参加するが、6月28日からはライオネルハンプトンオーケストラのリハーサルが始まった。3日間かけてじっくり行われたが、今回はニューポートジャズフェスティバルに向けてのオーケストラの再編であった。
ハンプトンはニューポートには此の頃何年か続けて参加していたが、この年1978年のニューポートはハンプトンのミュージシャン生活50周年を祝う特別プログラムが用意された。ニューヨーク市も7月1日をハンプトンデイとし、巨人の功績と70歳になっても現役で活躍している健在ぶりを称えたという。さらにその後、ヨーロッパツアーも予定されており、ハンプトンとしてもいつもより力の入ったリハーサルとなった。

集まったメンバーもアーネットコブやチャビージャクソン、ドックチーサムなど往年のメンバーも加わって1940年代のハンプトンオーケストラの再現を試みた。
ペッパーアダムスはドナルドバードとコンビを解消した直後、ハンプトンのオーケストラに加わって全米をツアーしていた時期がありハンプトンとの関係は深く、長老に交じってこのオールスターメンバーに加わった。

この7月1日のニューポートの舞台はカーネギーホールに設けられた。この年のニューポートはビッグバンドだけで9つのバンドが参加したが、これらのバンドの会場は、この年初めて開催されたサラトガでの会場であったので、他のバンドとは全く別扱いであった。

このコンサートの模様が録音され残されている。以前紹介したLionel Hampton All Stars Band at Newport ‘78も同じソースだが、こちらのCDにはLP未収録曲を含めてほぼ全貌が収められている。

このステージでは、オーケストラだけでなく、ピアノのテディウィルソンを招いて、ボブウィルバーのクラリネットを加えてハンプトンがいたベニーグッドマンのコンボの再現も行われた。このウィルソンとの共演もこのコンサートでのハイライトの一つであった。
前のアルバムでは未収録であったが、このCDではアバロンなどでこの小編成の演奏もたっぷりと楽しむことができる。

このオーケストラに参加したベースのチャビージャクソンが後に語る所によると、入念にリハーサルを行い、ステージでのセットリストも決めてステージに上がるが、ハンプトンは興がのると勝手に違う曲を始めてしまうそうだ。ハンプトンのライブ物では題名の無いブルースがよくあるが、それもそのひとつだろう。
バックの面々はこれを聴き分けてフォローするのが大変だが、それがプロの仕事、特にベースは両手がふさがっているので余計に・・・と。

確かに、メンバーは大変だが、考えようによってはジャズにおける臨機応変の楽しさ、それだけ楽しいステージに盛り上げることができるというのと裏腹の様に思う。
このようなお祝いを兼ねた記念コンサートのような時には失敗ができないだけに、このようなアドリブでのステージ進行はやりたくともできないのが普通であるが、それをやってしまうのがハンプトンの素晴らしさであり、メンバーのチームワークだろう。

余談だが、翌日サラトガで行われた9つのビッグバンドが次々に登場するステージに、ハウスバンドとしてディックハイマンが音楽監督を務めたニューヨーク・ジャズレパートリー・カンパニー・オーケストラなるバンドも登場した。オープニングを務め、バンドチェンジの間のいわゆる幕間繋ぎの演奏をするためであったが、何とディックハイマンが当日の譜面を自宅に忘れたという。会場のサラトガからは取りに帰れる距離ではないので、オープニングは、即興でピアノのイントロからアンサンブルを作っていったそうだ。先日三木敏悟がインナーギャラクシーで見せてくれた技だ。

残りの曲は、他のバンドの演奏中に新たに譜面を次々と書き起こして何とか乗り切ったそうだ。実は、このビッグバンドの主要メンバーはハンプトンオーケストラに参加していたメンバー達、ペッパーアダムスもその一人であった。この状況に較べれば曲順の変更などはプロにとっては驚くには当たらないという事になる。

アダムスは、このオーケストラではフライングホームでソロパートがあるが、他はひたすら盛り立て役、ソリストとしての出番はない。このカーネギーホールでのコンサートだけでなく、その後のヨーロッパツアーにも同行するので、2カ月のヨーロッパツアーからニューヨークに戻るのは8月末になる。

1. On The Sunny Side Of The Street
2. Hamp's The Champ
3. Slow Blues
4. Stompin' at The Savoy
5. Flyin' Home
6. Hamp's Boogie Woogie
7. Tea For Two
8. I'm Confessin'
9. Nearness Of You
10. Misty
11. Avalon
12. More Than You Know
13. Runnin' wild

Lionel Hampton (vib,p,con)
Cat Anderson, Doc Cheatham, Jimmie Maxwell, Joe Newman (tp,flh)
John Gordon, Benny Powell, Eddie Bert, (tb)
Charles McPherson, Earle Warren (as)
Arnett Cobb , Paul Moen(ts)
Pepper Adams (bs)
Bob Wilber (cl)
Ray Bryant (p)
Billy Mackel (g)
Chubby Jackson (b)
Panama Francis (ds)
Teddy Willson (p)
Producer Teo Macero

Recorded July 1, 1978, Newport Jazz Festival at Carnegie Hall, New York
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バラードプレーの極めはWith Stringsで・・・

2014-12-31 | PEPPER ADAMS

Gary Smulyan with Strings


先日紹介した長部正太のアルバムでもう一つ紹介し忘れたことがある。
印象的な火消し法被姿の錦絵をデザインしたジャケットだ。タイトルのHappy Coatと絡めたのも洒落っ気があるが、そのデザインの秀逸さが光る。怪しげな日本風のデザインというのは沢山あるが、本物らしさを感じさせるのは数少ない。というのも、このジャケットデザインは火消し錦絵を書く岡田親氏の作品。このデザインの良さもアルバムの価値を高めている。いい演奏には、良いジャケットデザインが似合う。ジャズのアルバムの鉄則だ。

この岡田氏の展覧会も時々行われているようだが、気に掛けていないと見逃してしまう。

このような伝統に根差した職人技というものは、何の世界でも是非根絶やしにせず伝承していきたいものだ。そして、伝統を引き継いだ弟子が親方を超えた時に新たな世界がまた広がる。

さて、ペッパーアダムスの後継者というとゲイリースマリヤン。直接手ほどきしたことは無かったようだが、アダムスの良い所を確実に引き継いで多方面で活躍してきた。そのスマリヤンももうすぐ還暦を迎える。次の後継者が気になる年回りになった。

スマリヤンは、サドメルの後継オーケストラであるメルルイスオーケストラ,そしてVJOでアダムスの後釜として長年その任を果たし、さらにミンガスビッグバンドにも加わり、着実にアダムスの軌跡を辿ってきた。そして、アダムスのなし得なかった事をクリアすることで、師を超えることになるにだが・・・。

アダムスの、アルバムを聴き返してみると、アップテンポの切れ味の良いバリトンがどうしても印象に残るが、実はアダムスのバラードプレーというのも捨てたものではない。Museに残した2枚のアルバムでも、ソフィスティケイテッドレディーやチェルシーブリッジのバラードプレーは秀逸だ。

アダムスは、デトロイトからニューヨークに来てすぐにスタンケントンオーケストラに加わった。この駆け出しの頃、ケントンオーケストラですぐに「マイファニーヴァレンタイン」でアダムスのソロがフィーチャーされていた。この時のスコアはケントンがパーカーのバックを務めた時のビルホルマンのアレンジを使用したそうだ。
この時(26歳)すでに、アダムスはバラードプレーでも実に枯れた味わい深いプレーをしていた。
ライブでの録音が残されているが、ケントンに紹介されプレーを始めるが実に堂々としたプレーだ。此の頃からマリガンには負けていなかったと思う。



そして、アダムスのバラード物のアルバムはというと、これは残念ながら作られることは無かった。一方で、ライバルのマリガンはナイトライツというアルバムを残している。今でも人気のあるアルバムだ。

バラードというとウィズストリングス物だが、ジャズの世界ではパーカーのwith stringsが何といっても有名である
60年代になると、メジャーレーベルでは有名プレーヤーによるこの手のアルバムは結構数多く作られた。しかし、お金のかかるこのようなアルバムはアダムスには尚更無縁だった。

しかし、スマリヤンは、彼のバリトンを大フィーチャーしたWith Sringsアルバムを作ることができた。バリトンのストリングス物はハーリーカーネイのアルバムがあるようだ。しかし、それ以降は作られたことは無いという。スマリヤンは先輩達がなし得なかった、このバリトンの音の美しさを伝えるアルバムを作りたかったそうだ。念願かなってこのアルバムができたが、弟子が、師匠の壁を乗り越えて夢を実現したという事になる。

ストリングスを含むアレンジを担当したのは、ボブベルデン。スマリヤンがウディーハーマンの所に居た時に一緒にプレーをしたメンバーでテナーとアレンジを担当していた。その後は、めきめきとアレンジで頭角を現し、ジョーヘンダーソンやマッコイタイナーのビッグバンドでもアレンジを担当していた。

オーケストラをバックにすると、そうしてもプレーもバックに負けないようにソロにも力が入ってくる。曲によってはオーケストラが張り切りすぎるとマイナスになることもある。特にバラード物では。ウェスモンゴメリーのアルバムなどでは、カルテットの演奏を引き立たせるために、後でオーケストラのバックをオーバーダビングする手法もとられた。

特にストリングス物は、ソロを引き立たせる役に徹した方が、いい結果がでる。という点では、このベルデンのアレンジは、時に存在感を感じさせなくなるようなこともあり、なかなか勘所をついていい感じだ。このストリングスをバックにアダムスのバラードアルバムがあったらと思うのは、自分だけか?

1. The Bad and the Beautiful      David Raksin 2:49
2. Lush Life             Billy Strayhorn 3:43
3. Thanks for You   B. Hanighen / Marvin Wright 4:20
4. It Happens Quietly     Kaye / Dankwarth 6:25
5. Don't Follow the Crowd          B.Lee 5:25
6. (We've Got A) Sure Thing J. Burke / J. Van Heusen 6:02
7. Beware My Hear            Sam Coslow 4:58
8. The Moment of Truth     T.Satterwhite / Frank Scott 6:12
9. Yesterday's Gardenias N. Cogane / S. Mysels / D. Robertson 6:36
10. Two for the Seesa           André Previn 5:56

Gary Smulyan (bs)
Mike Kedonne (p)
Peter Washington (b)
Kenny Washington (ds)
Mark Feldman, Laura Seaton, Jon Kass, Regna Carter, Genovia Cummins (violin)
Ron Lawrence (viola)
Erik Friedlander, Tomas Ulrich, Clay Ruede (cello)

Arranged & Conducted by Bob Belden
Produced by Gerry Teekens
Engineer : Max Bolleman

Recorded at RPM Studio, New York on December 23, 1996


GARY SMULYAN WITH STRINGS
Gary Smulyan
CRISS CROSS
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ペッパーアダムスを相手に単なるガーシュインソングブックにならないところがヘレンメリルの凄い所・・・

2014-12-31 | PEPPER ADAMS


Chasin’ The Bird sings Gershwin / Helen Merrill

日本で一番人気があるジャズボーカリストは?というと、ひょっとするとヘレンメリルかもしれない。いわゆる本格派御三家(エラ、サラ、マクレー)と比較すると、あのハスキーでたよりない歌い方だが、それがかえって良いのかもしれない。
彼女は有名なクリフォードプラウンとのアルバムがそうであるように、有名ジャズプレーヤーとの共演アルバムも多い。いずれも、彼女の歌のバックを務めているというよりも、歌と一緒にプレーをしているといった感じだ。彼女の歌が楽器的なのかも。

今年も来日して、トランペットプレーヤーを日替わりで替えるという面白い企画のライブ予定があったが、残念ながら病気でキャンセルとなってしまった。ベニーゴルソン同様、クリフォードブラウンとの共演を私事として語れるミュジシャンも数少なくなったが、彼女もその一人だ。1930年生まれ(ペッパーアダムスと同い年であった)なので、今年で84歳。まだまだ、元気に活躍してもらいたいものだ。

彼女は、1960年代に結婚して日本に長く住んでいた時期がある。それもあって大の日本贔屓である。その後、ニューヨークで復帰をしたが、日本のトリオレーベルがアルバム制作を行っていた。その頃、60年代から70年代にかけての彼女のアルバムは、ピアニストのディックカッツと組んだものが多い。単なるボーカルアルバムというより、彼女も演奏者の一人としてのジャズアルバムを作るのには、このカッツが良き相談者であったのだろう。
このアルバムもその中の一枚となる。

このアルバムのテーマは、「メリルsingsガーシュイン」であるが、単なるガーシュインソングブックとはなっていない点がこのアルバムを特徴だ。それは、このアルバムタイトルの’Chasin’ The Bird”の意味するところでもある。

パーカーやガレスピーなどがビバップの全盛期にバップの名曲を多く生み出したが、それらはスタンダード曲といわれるミュージカルなどのヒット曲のコード進行に新たな曲を作ったものが多い。

このアルバムでは、メリルが歌うガーシュインの原曲に、バックがそれを元曲にしたジャズの有名曲をバックで演奏するというチャレンジをしている。この大役を務めたのがペッパーアダムスであった。パーカーの好んだ曲というとアルトサックスが良さそうだが、ハスキーなメリルの歌にはアダムスのバリトンの低音が良く似合う。それに、加えてバップスタイルでゴリゴリ吹くとなるというとアダムスはこの企画には適任あった。この試みの2曲以外でもアダムスの出番は多く、ソロで他の曲のメロディーを引用することも多い。

このアルバムの制作にあたっては録音の前に、録音当日以外にもリハーサルが一か月前から何日も行われてた。かなり曲の構成にも配慮すべき点が多かったということだろう。
肝心のアダムスは、実は1月の始めからにヨーロッパに出掛けていた。2月6日この録音の為にニューヨークに戻り、3月9日の最後の録音が終わると、またヨーロッパに旅立った。

実は、このアルバムが先日紹介したアダムスのアルバム”Reflectory”がグラミー賞にノミネートされた翌年ノミネートされたヘレンメリルのアルバムだった。
アダムスのこのアルバムへの関わり方も、単なるバックのバンドに加わったというのではなく、完全にメリルの共演者であった。アダムスはこのアルバムがノミネートされた時、メリルのボーカルと共に自分のプレーも選ばれた二重の喜びを感じていただろう。

残念ながらこのアルバムも、最終選考ではエラのアルバムに敗れ、アダムスのプレーも Bill Evans - I Will Say Goodbyeに敗れたが、メリルのファンが多い日本であったら、多分このアルバムが選ばれていただろう。メリルの特徴が生かされ、バックとのコラボレーションも上手く計算され、それが上手く噛み合ったジャズボーカルアルバムだと思う。



1. It Ain’t Necessarily So
2. Embraceable You (Cuasimodo)
3. I Can’t Be Bothered Now
4. Summertime
5. I Got Rhythm (Casin’ The Bird)
6. I Love You, Porgy
7. My One And Only Love
8. Someone To Watch Over Me

Helen Merrill (vol)
Pepper Adams (bs)
Dick Katz (p)
Joe Puma (g)
Rufus Reid (b)
Mel Lewis (ds)

Produced by Spicewood Enterprises
Musical Direction by Helen Merrill & Dick Katz
Recording Engineer : Paul Goodman
Recorded at RCA Studio, NYC, March 6 & 9 1979

チェイジン・ザ・バード(HQCD)
Helen Merrill
SOLID
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ペッパーアダムスがマリガンを抜いた日・・・

2014-12-27 | PEPPER ADAMS
The Master …. / Pepper Adams

バリトンサックスをソロ楽器として有名にし、最も偉大なソリストといえばやはりジェリーマリガンであろう。ペッパーアダムスよりは3歳年上なので、同年代といえる。

アダムスは地元のデトロイトで長年バリトンのプレーに磨きをかけ、ニューヨークに出てきたのは26歳の時であった。すぐにケントンオーケストラにオスカーペティフォードに推薦され加入し、全国区のプレーヤーとしての活動がスタートした。

一方のマリガンのデビューは早かった。それはプレーヤーとしてではなくアレンジャーとしてであった。17歳の時、ラジオ局のバンドにアレンジを書きアレンジャーとしてデビューを飾る。ニューヨークで本格的に仕事を始めたのは20歳の時、ジーンクルーパーオーケストラのアレンジを担当し、自らはそこではアルトを吹いていた。そして、同じ役割をクロードソーンヒルオーケストラでも務めていた。

そもそも演奏はピアノからスタートしたが、管楽器はクラリネットから始め様々なサックスを何でも演奏したという。

マリガンのバリトンが聴けるアルバムは、あのマイルスデイビスの「クールの誕生」であった。しかし、ここでもマリガンはバリトンを吹いているものの、アレンジャーとしての役割がより大きかった。

バリトン奏者として本格的なデビューは、これも有名なチェットベイカーとのピアノレスカルテット。以降、バンドの編成、コンビの相手は代わっても、バリトンのソリストのナンバーワンとして不動の地位を守り続けていた。

相方、裏方が多かったペッパーアダムスと、若くして実力、人気共に王座の地位を得て、それを守り続けたマリガンの位置付けは、アダムスがやっと納得がいくアルバムを作れた1978年になっても変っていなかった。

アダムスが、アルバム“Reflectory”を録音してから1年半経った1980年1月、アダムスの元に嬉しい連絡があった。このアルバムでのアダムスの演奏が、グラミー賞のBest Jazz Instrumental Performance as a Soloistにノミネートされたという知らせであった。翌年'79年に録音された、アダムスがバックを務めたヘレンメリルのアルバムChasin' the Bird / GershwinがBest Jazz Vocal Performanceにノミネートされる。さらに、ここでバックを務めたアダムスのプレーも受賞対象に選ばれる。サドメル在籍時代オーケストラがグラミー候補になったことはあったが、それはあくまでもメンバーの一員として。ベストソリストというのは、まさにアダムスのプレーそのものに対しての評価であった。

しかし、2月27日の最終選考で選ばれたのは、
Oscar Peterson - Jousts
惜しくも受賞を逃した。

その結果を聴いた直後の3月11日、アダムスは再びリーダーアルバムの録音に臨んだ。

それが、このアルバム”The Master”であった。

アダムスの大写しになった顔写真がジャケットを飾っているが、アダムスの何となく柔和で嬉しそうな表情が良く撮れている。エフェメラのジャケットも大写しのアダムスであったが、こちらは何かひょうきんなイメージを受けてしまう。

このアルバムも、アダムスのワンホーン。自身によって「前作を上回るベスト」と太鼓判が押されたアルバムだ。

メンバーは、ベースのジョージムラツは前作と同じ。彼らは本当に仲がいい。ミュンヘンのライブにしても。一足先にヨーロッパ入りしていたムラツが声を掛けてくれたから実現したセッションだった。

ピアノはローランドハナからトミーフラナガンに替わる。ハナも親友であったが、フラナガンとの付き合いは更に古い。お互いがティーンネイジャーであった頃から、地元デトロイトで一緒にやっていた仲だ。
いわゆるガキの頃からの付き合いだが、此の頃のフラナガンは、バップピアニストとしての昔からのテクニックに、エラの伴奏を務めたことによるバッキングの上手さが加わっていた。このようなワンホーン編成で、主役の引き立て役としては適役であった。

そして、ドラムも前のアルバムで一緒だった気心の知れたビリーハートに声を掛けた。前作が良かっただけに当然の選択であった。しかし、生憎ハートに先約があり、代わりにリロイウィリアムが加わった。
彼とは、一緒にプレーをした事もあったが、それほど深い付き合いではなかった。派手さは無いがツボを得たドラミングはこのセッションでアダムスの描いたイメージにはピッタリであった。

しかし、レコーディンの最中にいつも一緒にやっていない故のアクシデントが生じた。

バラードプレーのチェルシーブリッジで、アダムスのカウントでスタートしたがアダムスの指示よりはるかに遅いテンポで始まってしまった。そのままプレーは続き、アダムスは終わるや否や、開口一番「時間が掛かりすぎていないか?」と。

すべて事前の段取りをきちんとやるアダムスにとって、このプレーは納得がいかず、すぐに次のテイクの準備に入る。すると、プレーバックを聴いていたプロデューサーから、「ちょっと聴いてみないか?」と。2人でプレーを聴き返すと、アダムスも黙って納得、則OKとなった。これがジャズの意外性の良い所だろう。

他の曲も順調に進む。ナイフのように切れ味の良いプレーはアダムスの売りだが、ここでは、問題のチェルシーブリッジ、ラバーズオブゼアタイムのバラードプレーも絶品だ。此の頃良く演奏した、ボサノバのリズムのボサレグロも軽快に飛ばす。
最後のマイシャイニングアワーがアップテンポだが、フラナガンがソロで先行し、ドラムとのバースでアダムスがソロを引き継ぐが、ここでは本来の切れ味の良さを存分に聴かせてくれる。
けっしてラウドではなく、悪乗りしている訳でもない。ダーティーなトーンもない。それは、ブルースやファンキーな曲を選ばなかった選曲にも因ったのだろう。

やはり、ビッグバンドや大きな編成でのソロとなると、出番が来るとここぞとばかり吹きまくることもあったが、ワンホーンだと曲の中でも、そしてアルバムの中でも、演奏の起承転結が実に上手い。テクニックだけでなく、アダムスの本来の歌心が存分に表現されている。アダムスが絶賛しているように、演奏に加えて良くなるバリトンの音が上手に録られていることもプラスに働いているように思う。

サドメルを辞めた理由をインタビューに答えて、「いつの間にか自分はビッグバンドのアダムスと思われてしまったが、自分はあくまでもソリストだと思っている。プレーをする上でも、Artの部分とSkillの部分があるが、ビッグバンドではどうしてもSkillが重視されてくる。ソリストとしてArtの部分を出したいからだ。」と言っていた。

やっと、前作とこのアルバムで望みが一歩前進したように思う。その結果が、グラミー賞のノミネートにも表れたのであった。

雑誌ダウンビートでは批評家の投票が毎年行われている。アダムスは本格デビューした1956年に新人賞をとっている。以降バリトンサックスの部門では首位ジェリーマリガンをいつも目標にプレーを続けてきた。1978年の投票では、マリガンに一票差まで迫っていた。

そして、1979年、1980年とついに連続してマリガンを押さえて首位となった。やっと実力が評価された。そしてその首位の座は亡くなるまで他に譲る事は無かった。
一方で、人気投票でもある読者投票の方も、一歩遅れて1982年にはマリガンを押さえて首位となる。地道な努力を続けたアダムスがマリガンを超えた時であった。その時、アダムスは名実ともにThe Masterとなった。

その原動力となったのは、Museに残した、”Reflectory”と、この“The Master"の2枚のアルバムだと思う。



1. Enchilada Baby             Pepper Adams 5:41
2. Chelsea Bridge             Billy Strayhorn 8:58
3. Bossallegro                Pepper Adams 6:03
4. Rue Serpente               Pepper Adams 8:10
5. Lovers of Their Time           Pepper Adams 6:07
6. My Shining Hour      Harold Arlen / Johnny Mercer 7:32

Pepper Adams (bs)
Tommy Flanagan (p)
George Mraz (b)
Leroy Williams (ds)

Produced by Mitch Farbar
Engineer : James Mason
Recorded at Downtown Sound Studio NYC, March 11, 1980
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ソリストとして再出発したアダムス、ワンホーンでの初のスタジオ録音は?・・・

2014-12-22 | PEPPER ADAMS
Reflectory / Pepper Adams

1978年1月、ペッパーアダムスにとっては久々のミンガスのグループへの参加で活動を開始した。23日にレコーディングを終えると、一日休んだ後、シカゴに飛んでチェットベイカーとのギグ、そしてガレスピーと一緒にデビットアラムのギグと続く。

チェットベイカーとのコンビは不自然に感じるかもしれないが、50年代の後半レコーディングに参加した以外でもよく一緒にライブでのプレーをしていた。20年以上も続く長い付き合いであった。

2月はオフで旅行に行ったり、他のギグを楽しんだりしていたが、3月に新しいシルバーのバリトンを購入した。楽器を替えるのは久々だが、当座は長年使用した愛機のバックアップとなったようだ。

4月になると、サンフランシスコにいる古くからの友人Murabuto兄弟の元を訪れ、そのまましばらく西海岸で活動する。サドメル時代は、長期間のツアー、レギュラーのビレッジバンガードへの出演と、自分の自由な時間がとれなかった反動か、自由な時間を満喫していた。

6月になると、精力的にレコーディングを再開する。
まずは手始めに、14日自らのリーダーアルバムの制作をMuseレーベルで行う。
アメリカで自分のリーダーアルバムを制作するのは、”Encounter”以来実に7年ぶり。アダムスにとって16枚目のリーダーアルバムとなるのが、この“Reflectory”である。

ピアノトリオを従えたアダムスのワンホーンアルバム。
実は、アダムスのワンホーンアルバムというのは珍しい。多分最初のワンホーンアルバムは'73年にロンドンで録音された”EPHEMERA"。サドメルでのヨーロッパツアー中に録音されたものだ。サドメルのリズムセクションのメンバーが加わっている。

このセッションはせっかく設けられたレコーディングの機会であったが、録音環境はスタジオ、機器、スタッフともに非常にプアーなものであったらしい。ピアノは調律されていないチープな物で、録音を担当したエンジニアはウッドべースをそれまで見た事も無いという有様であったそうだ。

その後、サドメルを辞める前に、これもヨーロッパ、ミュンヘンでライブの模様を収めた録音がある。これもサドメルのヨーロッパツアー開始前に急遽決まったライブであった。いずれも、腰を据えて作られたアルバムというものではなかった。

‘77年にサドメルを辞めた直後の2枚のライブアルバム、”Pepper Adams Live”, ”In Europe”はワンホーンである。人生の後半を本格的なソリストになりたくてサドメルを辞めたアダムスであったが、本心はあまり他人のことを気にせず自らの想いをストレートに表現できるワンホーンでの演奏に憧れていたのかもしれない。それまで、コンビを組んだドナルドバードとの双頭コンボでは辛酸を舐めさせられたので。

そして、このアルバムの制作となる。アダムスのとっては自分がリーダーとなる初のワンホーンのスタジオ録音であった。という点では、やっと夢が実現、アダムス自身の期待も高まっていたと思う。

メンバーは、サドメル時代の仲間であった、ローランドハナとジョージムラツ、7年前の「エフェメラ」と同じである。それにこの3人とは良くプレーをしたビリーハートが加わる。
メンバーもお互い気心の知れた同士、すべては快調にスタートする。

スタジオでのアダムスの仕切りは完璧であったそうだ。単に譜面を書くというだけではなく、各人の演奏に細かな指示があったが、実際にプレーをすると不思議と皆のクリエイティビティー損なうことなくその通りに収まっていったと、ドラムで参加したビリーハートがそのような主旨のコメントを残している。

サックスの音を綺麗に録音するというのは簡単なようで難しい。アダムスはレコーディングの結果に対して演奏の良し悪しだけでなく、録音に関しても色々コメントを残している。アルバム的にはいいアルバムという評価を得ていても、録音に関してアダムスにボロクソに言われたアルバムも多くある。アダムスは自分の想いを実現できる録音の機会の願っていたのに加えて、自分の豪快であるが、ある意味繊細でもあるバリトンの音を綺麗に録ってくれるエンジニアも求めていたようだ。

そして、この録音ではそのエンジニアにも出会えたようだ。
アダムスは自分のコメントとして、「このアルバムのエンジニアElvin Cambellを最も自分の音を上手く録ってくれた」と評価している。彼の録り方は、一本を楽器に非常に近く、そして一本はかなり頭上高く離れて設置し、2つの音を上手くミックスする方法だという。

このアルバムで、アダムスのソリストとしての活動を祝うアルバムがやっと作られたように思う。




1. Reflectory           Pepper Adams 7:00
2. Sophisticated Lady       Duke Ellington 5:37
3. Etude Diabolique        Pepper Adams 7:16
4. Claudette's Way         Pepper Adams 6:11
5. I Cary Your Heart        Pepper Adams 6:53
6. That's All      Alan Brandt / Bob Haymes 6:32

Pepper Adams (bs)
Roland Hanna (p)
George Mraz (b)
Billy Hart (ds)

Produced by Mitch Farber
Recording Engineer : Elvin Campbell
Recorded at CI Recording, NYC, June 14, 1978

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