A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

ペッパーアダムスの最後のコンボでの演奏もギターの新人と一緒に・・・

2015-10-10 | PEPPER ADAMS
Echoes / Joshua Breakstone


最近若い人の演奏でもスイングスタイルやバップオリエンテッドなど古いスタイルの演奏を聴く事が多い。
ジャズは過去のアルバムが何度もリリースされ、新たなジャズファンがそれを耳にしてジャズの魅力を知ることになる。古いオリジナルの音源が時代を経てこれだけ繰り返し聴かれるという音楽は他にはあまりないだろう。
その中でも、やはりバップからハードバップの時代のジャズにはジャズの魅力が詰まっている。どんなに新しいスタイルが登場し、変化していっても、ジャズの王道として生き続けるような気がする。
過去、フリーやフュージョンなど幾多の新しいスタイルが生まれても、その中でバップオリエンテッドな演奏をするミュージシャンは必ず存在し、彼らのアルバムも存在してきた。80年代の半ば、フュージョン全盛期でも同じであった。

このバップの伝統を伝承するには、その道に長けた伝道師も必要であった。先日亡くなったフィルウッズもその一人だと思う。中でもバリーハリスという長老がまだ健在だがその代表格であろう。

80年代の新人ギタリストというと当然ロックやフュージョン系の演奏を得意とする者が多かった。1955年生まれのジョシュア・ブレイクトーンがジャズと出会ったのは14歳の時。ギターの練習を始めたが、最初仲間内でプレーするのはもっぱらロックであったという。
しかし、バークレーで本格的に学び、その後ニューヨークでジャズを演奏するようになった。その時、一番教えを受けたのは近くに住むバリーハリスであったそうだ。
そして、ハリスと一緒にアルバムも作った。そして、自然と彼のギターはジミーレイニーのようなスタイルになっていったという。

このブレイクストーンが1986年に、新生コンテンポラリーレーベルでリーダーアルバムを作った。実は、このアルバムにペッパーアダムスが参加している。結果的にこれが、アダムスの最後のコンボでのレコーディングとなった。

アダムスは前年の1985年にガンの宣告を受けたが、治療を続けながら演奏活動は続けていた。体調は必ずしも芳しくなく、一カ月近く自宅で療養する事もあった。しかし、病を押してヨーロッパツアーも行っている。この年のクリスマスホリデイは自宅で休養し、年が明けた86年1月はギグに出掛けたのもほんの数日であった。

そして、翌2月はアダムスにとって最後の大仕事が続いた。
まずは、このブレイクストーンのレコーディングのためのリハーサルがスタートする。前年の最後のリーダーアルバム"The Adams Effect"以来、久々のレコーディングであった。

2月17日はサドメルのオーケストラが誕生して記念すべき20周年であった。本拠地ビレッジバンガードではこれを祝って4日間のスペシャルプログラムが組まれ、OB達も数多く集まった。
リーダーのサドジョーンズはデンマークで病床に伏せていたが、ペッパーアダムスはこのイベントの初日に参加し、ボディアンドソウルでフィーチャードソリストとして元気な姿をサドメルファンの前に見せてくれた。

このイベント出演を終え、19日にこのアルバムが録音された。そして、23日にはモントリオールを訪れ、アダムスのラストレコーディングであるダニー・クリスチャンセンのビッグバンドの録音に臨んだ。病気を感じさせない過密スケジュールであった。

その後も、アダムスは体力の続く限りgigやジャズフェスティバルへ参加したが、7月5日のモントリオールジャズフェスティバルへの出演がファンの前での最後の演奏となった。しかし一人で階段も登れず、車椅子に座っての演奏であったという。体力的にも限界であったが、これをサポートしたのもクリスチャンセンであった。

さて、このアルバムであるが、どのような経緯でアダムスが参加したのかは分からない。しかし、このアルバム作りがバリーハリスの肝いりという事であれば、同郷の旧友ハリスの要請だったのかも知れない。

アルバムに選ばれた曲にもハリスの曲がある。Even StevenはハリスのアルバムLuminescence! で演奏された曲、このアルバムにはアダムスも参加していた。そして、バウエルの曲、Oblivionは実はアダムスが1957年初のリーダーアルバムを作った時に演奏したかった曲だそうだ。スタンダード曲もあるが、選曲もバリバリのバップオリエンテッドだ。

モダンジャズのギターの始祖はチャーリークリスチャン。演奏スタイルも、ブレイクストーンのギターはケニーバレル、タルファーロー、ジミーレイニーといったその後継者を受け継ぐ正統派のスタイルだ。
しかし彼は若い頃はギターはあまり聴かなかったという。初アルバムを作った後に、ジミーレイニーに似ていると言われ始めてレイニーのレコードを聴いたという。リーモーガンでジャズに目覚め、プロになってからもアードファーマーを聴きこんだというように、彼のスタイルの源泉はホーンプレーヤーのようだ。

そういえば、ペッパーアダムスがニューヨークに出てきた直後のデビュー作Detroit Menは、ケニーバレルのギターを加えたクインテット編成であった。それから30年経ち、奇しくもアダムスのコンボでのラストレコーディングとなったこのアルバムも同じギターを加えたクインテット編成だ。

色々グループで、数多くのミュージシャンとプレーし、コンボからビッグバンドまで何でもこなしたアダムスであったが、アダムスのプレースタイルの基本は洗練されたバップオリエンテッドな演奏であったようだ。


1. Oblivion        Bud Powell   6:16
2. It's Easy to Remember Rogers-Hart   11:00
3. My Heart Stood Still  Rogers-Hart  5:56
4. Even Steven       Barry Harris  7:07
5. To Monk with Love   Barry Harris  6:22
6. Bird Song       Thad Jones  7:15

Joaua Breakstone (g)
Pepper Adams (bs)
Kenny Barron (p)
Dennis Irwin (b)
Keith Copeland (ds)

Produced by Joshua Breakstone
Engineer : David Baker

Recorded at Eras Studio, New York City, February 19,1986


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面倒をみた新人のレコーディングの手伝いのつもりがいつの間にかリーダーに・・・

2015-09-26 | PEPPER ADAMS
Generations / Pepper Adams & Frank Foster

世間ではフォルクスワーゲンのエンジンの制御ソフトの不正処理が話題だ。これは単なる設定ミスや事故といったレベルの話ではないので深刻だ。要はクリーンディーゼル&低燃費を謳っていた技術が未完成だったので、検査だけをパスするように誤魔化していたという事になる。

車に限らず、その性能を測定するためにベンチマークテストというものはよく行われる。テストの仕様に向けてパフォーマンスをチューニングしていくので、一般的な使用環境ではその性能が出ないのは世の常である。車では燃費性能がいい例だろう。だが、燃費の場合は、実際の燃費というのもカタログスペックの良し悪しに比例するものだし、ドライバーが燃費の悪い乗り方をすれば当然悪くなる。これは、利用者にとって納得できるものだろう。

しかし、今回は、検査の時だけに排気ガスの処理装置がフルに稼働し、それ以外はほとんど機能しない設定に。その理由も、エンジン性能を維持するため、処理装置の寿命を延ばすためというメーカー都合。本来の目的の排気ガスの浄化はどこに行ってしまったのだろう。車では一部のマニアが車検を通すために一時的にパーツを交換するということもあるようだが、それはあくまでも自己責任の範囲、今回はメーカーが自分の能力不足を隠す為というのだから問題外だ。ユーザーの理解など得られるはずがない。

今の世の中、色々な分野で規制やルールが厳しくなっているが、このような事が明らかになると果たして本当に規制が守られている商品が世に出ているかどうか怪しいものだ。一時、食品の産地や原材料の偽装が次々に問題になった。今回の問題も、単に、ディーゼル、フォルクスワーゲン、そして自動車業界だけの話で終わらないのではないかと思う。

その原因というと、やはり、現在の売上至上主義、さらには何を差し置いても自社の利益が最優先という、行き過ぎた市場経済、そして企業競争に帰結すると思う。先日の東芝の不正経理と、経営者のとった行動の背景は同じだ。

昔からコマーシャリズムという言葉は、「何か良い物を壊す」という悪い意味を帯びていたが、今回の件は、壊すどころか生活者の生活を脅かすとんでもないモンスター商品を生み出したことになる。マス商品、メガショップ、グローバル市場の悪い側面の行く末を予感させる。
ネット社会の普及によって、何も大きくなくても良いもの、いい店は生きていける時代になった。もう一息頑張って欲しい。

ジャズの世界でも、コマーシャリズムというのは良い意味では使われていない。特に実直なストレートな演奏を好む日本のジャズファンにとっては、コマーシャリズムに毒されたアルバムは、演奏するミュージシャン自体が否定されることもあった。
ジャズレーベルというのは一部のメジャーレーベル以外は、皆マイナーレーベルといってもいいが、その中でもそこそこ有名になると、どうしても「売るための」アルバム作りが行われるものだ。

ペッパーアダムスの晩年は、メジャーレーベルとは無縁であったし、売るためのアルバム作りというのにも縁が無かった。

ここに一枚のアルバムがある。

レーベルはMuse。マイナーではあるが70年代以降のハードバップ系ではそこそこ名の通ったレーベルで、カタログには500枚くらいがリストされている。

リーダーはというと、ペッパーアダムスとフランクフォスターの名が並ぶ。ペッパーアダムスのリーダーアルバムの一枚と思われがちだが、アダムスの研究家ゲイリーカーナーの定義ではアダムスのアルバムには入らない。

ジャケット写真を見ると2人の顔写真があるが、黒くマスクが掛けられていいるようで誰の顔なのか分からない。右側はフォスターのようだが、左側は輪郭からアダムスには見えない。では誰なのか?そして何故このようにしたのか?

共演しているメンバーを見ると、サックスのジェイムス・ディーン以下、リズム隊も無名のメンバー達だ。2人のベテランが新人達を従えての演奏のように感じる。



1曲目を聴くと、4管でのテーマのアンサンブルに続き、フォスターのテナー、そしてアダムスのバリトンのソロはいつものように豪快に続く。アルトは可もなく不可もなく、ソロのフレーズ作りは少し癖があり、あまり流暢とはいえない。リズム隊は、ドラムを筆頭に小気味よいリズム感だが、こちらも平凡といえば平凡だ。
フォスターは、曲によってソプラノに持ち替え、アダムスが参加しない曲も。B面に移ると、ウェストコーストジャズ風のアンサンブルワークで少し曲想が変る。かと思えば、クラリネットとピアノのデュオによる演奏も登場。

改めて、このアルバムは誰のプロデュースと思ってジャケットを見ると、ジェイムス・ディーンの名前が。読み進むと、アダムスとフォスターの紹介から始まるが、どうもこのアルバムの主役はプロデュースをした、ジェイムス・ディーンという事が分かる。

フランクフォスターの後日談によると、フォスターもアダムスもディーンのレコーディングへのゲスト参加で、これはあくまでもディーンのアルバムと思っていたようだ。

ジェイムス・ディーンとアダムスとの出会いは1969年。まさにサドメルとデュークピアソンのレギュラーメンバーで日々活躍していたアダムスが、ある日NavyのBig Bandのサックスセクションのクリニックを行った時、このネイビーのバンドにいたのがディーンであった。そしてアダムスの紹介で、フォスターに弟子入りしたというのがディーンと2人との出会いであった。

という訳で、このアルバムはニューヨークでフォスターの指導のもと、プロとしてそこそこ活動できるようになったディーンの初のリーダーアルバムというのが正解で、あくまでも2人は応援参加であった。
実際に内容は、タイトル曲のGenerationはビッグバンドのアレンジで知られるようになったのをコンボ用に自ら仕立て直し、クラリネットのアーティーショーやテナーのズートシムに捧げた曲を提供するなど、初アルバム作りに力が入っていたようだ。

このような形でリリースされたことにディーンはクレームを付けたようだが、Museの会社としての判断は、所詮無名の新人のリーダーアルバムでは売り物にならないということであったようだ。
中身の偽装は無くても、売るためには看板を掛け替えなければならないとうのは、商売をするには仕方がないかも。このアルバムもディーンのリーダーアルバムでは果たして何人が手にすることになったか分からない。

アダムスにとっては、1984年の怪我から復帰後すぐの録音。前回紹介したギターのPeter Leitchのレコーディングが11月17日。19日にはこのディーンのセッションのリハーサルが行われている。その後Hod O'Brienのセッションのリハーサル・本番を経て、1月25日にこの録音を終えると、すぐにロンドンに旅立っている。3月にスウェーデンでがんの宣告を受ける1カ月半前の演奏だ。

1. Generation
2. Dance of Infidels
3. Stable Mates
4. Titter Pipers
5. Moon In Question
6. Milestone
7. Inventory

James L. Dean (as,ts,cl)
Frank Foster (ts,ss)
Pepper Adams (bs) 
Vinnie Cutro (tp)  #1
Noreen Grey (p)
Earl Sauls (b)
Glenn Davis (ds)

Produced by James L. Dean
Engineer : Rudy Van Gelder
Recorded at Van Gelder Studio,Englewood, N,J. on January 25, 1985


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アダムスのお蔭で、アメリカに来て初のリーダーアルバムも無事に・・・

2015-09-18 | PEPPER ADAMS
Exhilaration / Peter Leitch


ペッパーアダムスの晩年(1984年から1986年)というのは人生の中で最悪の時期だったかもしれない。

この頃、世間はフュージョンブームにのって人気バンドのアルバムは飛ぶように売れ、ベテラン達も数多く行われたジャズフェスティバルで復活していた。同郷の仲間で一時コンビを組んだドナルドバードはこの流れに乗って、いわゆるアメリカンドリームを確実に手にしていた。

しかし、一匹狼のソリストとして活動を続けたアダムスは、この世間の動向とは無縁であった。ソリストとして活動はアメリカ国内だけではその活動が限られるせいか、よくヨーロッパを訪れていた。何も、名声やお金だけが人生のすべてではないと割り切り、ソリストとして一緒にいい演奏をできる友人達の間を巡りながら、そこで日頃の憂さ晴らしをしていたようにも感じる。

しかし、此の時期はその活動すら満足にできない期間であった。

84年は脚の怪我でほぼ1年近くを棒に振ってしまった。10月になってやっとプレーを再開し、レコーディングも始めることができた。年が明けて85年はヨーロッパでのツアーもできるまでに回復した。しかし、3月11日渡欧中のスウェーデンで体調を崩し、現地で診断の結果、肺がんであることを宣告される。それから亡くなる翌年の86年9月10日までは今度はガンと闘いながらの最後の活動を続けることとなってしまった。

脚の怪我では歩く事もできず、外に出掛けることもできず部屋に閉籠ることが多かった。そんなアダムスの元を訪れたミュージシャン仲間の一人に、ギタリストのピーターライチがいた。
ライチはカナダ出身、ニューヨークに出てきて間もなかった、彼が頼りにしたのがアダムスであった。アダムスは隣国のモントリオールにもよく訪れていた。そういえば、アダムスの参加したラストアルバムもカナダでの録音であった。ライチとは、ニューヨークに来る前にアダムスのモントリオール訪問がきっかけで知り合ったのであろう。

ある時、アダムスはライチからアルバム作りで相談を受けた。母国カナダではアルバムを作った事があったが、アメリカでは初のリーダーアルバムであった。色々相談事や心配事もあったと思う。結局、相談相手であったアダムスもレコーディングに参加することになり、自宅で2人きりでの練習も始まった。

最初ライチはすべてセロニアスモンクの曲でアルバムを作ろうと考えていた。レーベルが決まりプロデューサーやメンバーも決まり詳細が詰まってきた。結局、レコーディングする曲はモンクの曲以外にライチのオリジナルなども加わった。
そしてスタジオはルディーバンゲルダースタジオに。アダムスにとっては若い頃から通い慣れた場所、しかしライチにとってはいきなりの晴れ舞台。高校球児がいきなり甲子園に登板するようなものであったのであろう、必要以上に神経質になったという。

そのような新人を最後まで支えたのが怪我も癒えたアダムスであった。しかし、アダムス自身の体調もけっして良さそうには見えなかったという。進行していたガンの影響がこの頃すでに体を蝕んでいたのかもしれない。

長い準備期間を経て、録音が行われたのが11月17日。このアルバムがアダムスにとっても長い療養明けの初録音となった。リーダーはあくまでもライチだが、アダムスとの共作といってもいいアルバムだ。

メンバーは、ドラムはアダムスとは付き合いが長く一緒にアルバムも作っているビリーハート。ピアノとベースは当時ニューヨークで活動をしていた中堅の2人が加わる。アダムスにとっても初顔合わせだったようだが、相性はよかったようだ。此の後、彼らと一緒にプレーするようにもなる。

モンクの曲を中心にという構成も良かったのかもしれない、伝統的なストレートアヘッドなプレーが繰り広げられる。ライチの演奏も、多少線が細い感じを受けるが、その後の活動の起点となるようなプレーだ。

タイトルのExhilaration。浮き浮きした気分にさせるという意味らしい。このセッションが塞ぎ込んでいたアダムスを気分よくさせたのか、この録音の直後、12月にはアダムスは久々に昔からの仲間のケニーバレルと、そしてアルコーンと一緒にクラブ出演した。ギター奏者とはあまり一緒に演奏する機会が少なかったが、このアルバム作りをきっかけに久々にライブでもギターと一緒にプレーしたくなったのかもしれない。

1. Exhilaration          Peter Leitch 7:16
2. Round Midnight            T. Monk 6:59
3. Thinkle Tinkle            T. Monk 6:50
4. Slung, in the Far East      Peter Leitch 6:21
5. How Deep Is The Ocean?        Berlin 7:00
6. Played Twice            T. Monk 8:30

Peter Leitch (g)
Pepper Adams (bs)
John Hicks (p)
Ray Drummond (b)
Billy Hart (ds)

Arranged by Peter Leitch
Produced by Robert Sunenblich & Mark Feldman
Recording Engineer : Rudy Van Gelder
Recorded at Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, N.J. on November 17, 1984


Exhilaration
クリエーター情報なし
Reservoir
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ただでさえ特異な演奏は、ストリングスをバックに、そしてアレンジでも異彩ぶりを・・・

2015-07-22 | PEPPER ADAMS
Left & Right / Roland Kirk

1968年7月13日、サドメルが初めて日本に来日したが、来日直前の6月18日にサドメルのオーケストラは歌手のルースブラウンとの共演アルバムを録音した。ここではトランペットのマービンスタムがダニームーアに替わり、テナーのジョーファレルがセルドンパウエルに替わる。このメンバーがそのまま来日メンバーとなる。

その日、ペッパーアダムスはローランドカークのレコーディングセッションにも参加する。記録によると18日だが、アダムスのメモでは19日、夜を徹しての録音だったのかもしれない。
このカークのセッションは前日17日から行われていた。その日はカークのプレーをメインにした短めの曲でウォーミングアップ。アルバムでは4曲目のIXLoveからクインシーのクインテッセンスまでの3曲となる。基本はストリングスを加えたバラード集だが、Hot Chaだけが少し雰囲気が違うジャンプブルースだ。このストリングスのアレンジがギルフラーだが、カークが次から次へと楽器を繰り出し、カーク節のオンパレードとなる。ソリストとしてのローランドカークの本領発揮だ。

翌日はバラード集の残り2曲を録り終えると、今度はがらりと道具仕立ても変る。
今度はカークのプレーヤーとしてではなく作編曲家としての側面をクローズアップするが、これは19分を超える組曲風の大作だ。いくつかのパートに分かれているが、こちらはミンガスのグループを彷彿とされるソロとアンサンブルを交錯させたグループサウンドが特徴的。アリスコルトレーンのハープも加えてアンサンブルとカークだけでなく参加プレーヤーのソロが交錯する。アダムスももちろん登場。

ペッパーアダムスとローランドカークの接点は、それまでの活動歴を見てもあまり密だったようには思えない。しかし、ミンガスグループでこの手の演奏には慣れていたアダムスは、アンサンブルでもソロでもカークの意に沿った演奏をしているように感じる。アダムスとしても、このような集団インプロビゼーションを求めるセッションも得意であったようだ。

このローランドカークは、2つの楽器を同時に吹くというその独特な演奏スタイルから、ジャズを聴き始めた時、すぐにその名前は覚えた。しかし、ある種のゲテモノ趣味に思えた演奏を積極的に聴くことは無かった。持っているアルバムもドミノ位だった
しかしカークのキャリア辿ると、色々な楽器を演奏するだけでなく、作編曲にも長け、独自の音楽観を持っている天才肌のミュージシャンの一人だということが分かる。彼も盲目のミュージシャンの一人だが、ハンディキャップを背負うと反対に健常者には持ちえない才能が生まれてくるのかもしれない。

この録音の直後にニューポートの舞台にも立ち、そのライブも残されている。それが当時のカークのグループの普段の演奏であろう。その演奏と較べるとこのアルバムでは、バラード関してはストレートな演奏、そしてアンサンブルではアレンジを含めたグループサウンドと表現方法は多彩だ。

このアルバムのタイトルはLeft & Right、天才カークの頭の中は右脳も左脳も凡人のそれを超えた物であったようだ。

1. Black Mystery Has Been Revealed              - 1:17
2. Expansions
  : Kirkquest
   Kingus
   Mingus
   Celestialness
   A Dream of Beauty Reincarnated
   Frisco Vibrations
   Classical Jazzical
   El Kirk"                  Roland Kirk - 19:37
3. Lady's Blues                 Roland Kirk - 3:46
4. IX Love                   Charles Mingus - 3:40
5. Hot Cha                    Willie Woods - 3:23
6. Quintessence"                 Quincy Jones - 4:11
7. I Waited for You"          Gil Fuller, Dizzy Gillespie) - 2:54
8. A Flower is a Lovesome Thing        Billy Strayhorn) - 3:55

Roland Kirk (ts, manzello, stritch, clarinet, flute, organ, narrator)
Jim Buffington, Julius Watkins (French horn)
Frank Wess (woodwinds)
Ron Burton (p)
Vernon Martin (b)
Roy Haynes (ds)
Warren Smith (percussion, vocals) unidentified strings, Gil Fuller (arranger)

Recorded in NYC, June 17, 1968

Roland Kirk (ts, manzello, stritch, clarinet, flute, thumb piano, celeste)
Richard Williams (tp)
Dick Griffith, Benny Powell (tb)
Daniel Jones (bassoon)
Pepper Adams (bs)
Alice Coltrane (harp)
Ron Burton (p)
Vernon Martin (b)
Jimmy Hopps (ds)
Gerald Brown, Warren Smith (percussion)
Recorded in NYC, June 18, 1968

Produced by Joel Dorn
Engineer : Buruce Tergesen


レフト・アンド・ライト
クリエーター情報なし
ワーナーミュージック・ジャパン
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世の中変化が多く目移りする時こそ、王道を行く演奏が光る・・・

2015-06-17 | PEPPER ADAMS


Bull’s Eye’s / Barry Harris

ディーディーブリッジウォーターはジャズの伝統をスタンダード曲と過去の巨匠達の歌唱力の中に探し求めたようだが、ジャズの伝統というとビバップもその要素の一つだろう。
時代と共に変遷を遂げてきたジャズだが、このビバップはいつの時代にもそれを探求するミュージシャンは存在し続けている。今でも、ビーバップオリエンテッドな演奏をするグループは世界中にいくつも存在する。日本でも、澤田一範や村田浩のグループなどが有名だが、そのプレーを聴くと、やはりビバップでありハードバックがモダンジャズサウンドの原点という感じがする。

1968年、この頃はジャズの変革期であった。前年に亡くなったコルトレーンの後を継ぐのは誰か?モーダルなプレーを極めようと、新人もベテランも入り混じって群雄割拠していた時代だ。さらに前衛的な演奏があるかと思えば、ジャズロック風の演奏も流行だし、メジャーレーベルではコマーシャリズムに乗ったアルバムも多く作られた時代だ。

たまたまペッパーアダムスの足跡を追ってこの時代のアルバムを聴き返すこととなったが、このアルバムはこの時代の演奏だから貴重ともいえる。もし、10年前の録音であれば周りで聴かれる演奏と大きく違ったものではなかった。しかし、この1968年ではこの正統派のハードバップのサウンドは珍しかった。
この年のアダムスのレコーディングを時系列で聴いても、サドメルに参加し、ジミースミスジョージベンソンのバックのオーケストラに参加する日々が続き、いきなり正統派ハードバップの演奏というのは珍しく、他には見当たらない。

アダムスはこのバリーハリスとは同じデトロイト出身の仲という事もあり、前作の“Luminescence!”にも参加していた。ハリスにとってはプレスティッジでの初アルバムであったが、プロデューサーのドンシュリッテンは次のアルバムをすぐにでも作りたかったようだ。毎月のようにハリスにお伺いを立てるが、答えは「まだだけどじきに」であった。シュリッテンの辛抱強い誘いに応えて、前作から1年以上経ってやっとハリスがその気になって作られたアルバムがこのアルバムとなる。

前作とメンバーはがらりと変わり、トランペットにケニードーハム、テナーにはいつもはアルトを吹くチャールスマクファーソンが加わる。ベースには、デトロイト仲間のポールチェンバース、ドラムにはビリーヒギンス。前作よりは何となくしっくりくる感じだが、実際に演奏の方もこちらの方がいいと思う。

作編曲も得意なハリスなので基本はオリジナル曲だが、唯一モンクの曲オフマイナーを加えている。この曲はトリオでの演奏だが、モンクを意識したのかオリジナルでもOff Monkというモンクに因んだ曲をやっている。ピアノのプレーぶりも自然にモンク調になる。バドパウエルの影響を引き継ぐハリスだが、バップの伝承者としては、モンクの影響も当然受けていての不思議ではない。

この頃のアダムスはアルバムでは裏方が多く、ソロがあっても不完全燃焼であったが、久々にアダムスらしい豪快で流暢なプレーが聴ける。タンゴのリズムでラテン調の少し変わった感じのBarengoでもアダムスのソロはいい感じだ

この、アルバム録音の2か月後にアダムスはサドメルに加わって初来日することになる。比較的単調なサイクルで仕事をこなしていたアダムスだが、色々変化が始まる1968年6月であった。



1. Bull's Eye 7:08
2. Clockwise 4:46
3. Off Monk 9:52
4. Barengo 7:10
5. Off Minor (Thelonious Monk) 4:40
6. Oh So Basal 8:51

Barry Harris (p)
Kenny Dorham (tp) ( 1, 3, 4 & 6)
Charles McPherson (ts) (1, 3, 4 & 6)
Pepper Adams (bs) (1, 3, 4 & 6)
Paul Chambers (b)
Billy Higgins (ds)

Produced by Don Schlitten
Recording Engineer : Richard Alderson
Recorded in New York on June 4, 1968

Bull's Eye!
クリエーター情報なし
Ojc
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ソウルフルなテナーで、ジャズマニア以外のファンの獲得を目指して・・・

2015-05-22 | PEPPER ADAMS
Blue Odessey / Houston Person

1968年3月、ペッパーアダムスはサドメルとデュークピアソンの2つのビッグバンドのそれぞれ週1回のライブのレギュラーメンバーとして活動していた。一人gigに加わるということもあまりなく、他はレコーディングのセッションプレーヤーとしてお呼びが掛かれば参加するといった日々であった。時はまさにテレビの時代を迎えて、CM用のジングル制作に加わる事も多くなっていた。スタジオワークが多くなった頃である。

2月にはジョージベンソンのセッションに参加したが、3月に入るとプレスティッジのドンシュリッテンからお呼びがかかる。前回はバリーハリスのセッションで、ここでは久々にハードバップの演奏を行ったのだが・・・。

今回の主役は、テナーのヒューストンパーソン。
ブルーノートで活躍していたスタンレータレンタインに通じるソウルテナーで、60年代前半はオルガンのジョニーハモンドのグループの一員で演奏していた。いわゆるソウルフルなオルガンジャズの合うテナーである。プレスティッジでリーダーアルバムを出し、売り出し中の新顔であった。

前作はピアノトリオにヴァイブを加えて、純粋ジャズファンのみならず一応、R&BやPopsファンにも受け入れられるアルバムをまずは作った。そして、今回はアダムス以外にカーティスフラーを加えた3管編成。シダーウォルトン、ボブクランショーといった面々は前作と同じ。シュリッテンの好みから言えば、そのままバリバリのハードバップの演奏も可能ではあったが・・・。

ここはやはり、ソウルフルなテナーを活かし、各レーベルが狙っていたジャズロック風ソウルジャズが一つのターゲットであったのだろう。プレーヤーで言えばスタンレータレンタインルードナルドソンの対抗馬であった。

アレンジはピアノのシダーウォルトン。最初の曲のBlue Odesseyはまさに「サイドワインダー」が火をつけたジャズロック路線。この手の曲はブルーノートを始めとしてどこのレーベルでも定番でまずは一曲披露といった感じだ。ホーンセクションはリズムの景気付けのバックアンサンブルだけで登場。

2曲目のHoly Landはテーマこそファンキーな感じだが、ソロに入ると4ビートでハードバップ路線の延長。短いながらアダムやフラーのソロも登場。
続いて、スローな泣きのテナーを披露。そして、カリプソのリズムにとってロリンズ風のテナーへと・・・。

まさにこの時代を象徴するような、新旧取り混ぜた色々なスタイルのごった煮感は免れないが、まさに時代の変わり目であったのだろう。パーソンの良さをどう表現するかの試行錯誤だったのかもしれない。アレンジを担当したウォルトンも苦労したであろう。

この、ヒューストン、実は自分はほとんど聴いた事が無かった。手持ちアルバムも探したが一枚も無かった。最近のアルバムはソウルテナーというより、テナーの王道といった感じのプレーをしているようだ。ちょっと聴いた感じは悪くない。最近のアルバムで聴いてみたいものもある。

結局、このパーソンを始めとして、スタンレータレンタイン、アルトではルードナルドソンといったように、サックスをサックスらしく吹くプレーヤーは皆長く活躍している。ビジネス的には彼らのプレーが広く受け入れられたということだ。どうやら自分は彼らソウルテナーからの流れのプレーヤーは聴かず嫌いが多いのかもしれない。
 
1. Blue Odessey                Ceder Walton 7:42
2. Holy Land                 Ceder Walton 6:45
3. I Love You, Yes I Do    Eddie Seiler / Guy Wood / Henry Glover / Sally Nix 3:34
4. Funky London                 Gal Massey 4:53
5. Please Send Me Someone To Love           Percy Mayfield 7;14
6. Starburst                         Ellen Starr 6:09

Houston Person (ts)
Pepper Adams (bs)
Curtis Fuller (tb)
Cedar Walton (p)
Bob Cranshaw (b)
Frankie Jones (ds)

Produced by Don Schlitten
Engineer : Richard Alderson
Recorded on March 12 1968

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プロデューサーと看板スターを引き抜かれた後、すぐに補強した新人は・・・

2015-05-05 | PEPPER ADAMS
Giblet Gravy / George Benson

プロのスポーツチームが優勝するには、優秀な選手と、彼らの能力を最大限に引き出すことができ、勝つための術を身に付けた監督が必要だ。

音楽の世界では、プロデューサーとミュージシャンの関係になるが、ジャズの世界ではその昔はプロデューサーといってもプレーヤーの好きなように自由に演奏をさせるか、反対に自分の好みに合わせてプレーヤーに演奏させるか、極端にはこの2パターンで商売は2の次であった。要は勝つことを求められない監督のようなもので、レーベルといっても楽しく、いいプレーをするための同好会のようなものだった。

事実、いいアルバムを作りながら倒産の憂き目にあうレーベルは沢山あった。ブルーノートやプレスティッジといった老舗のレーベルといえども、必ずしも商売優先で売れるアルバムを作ることが目的ではなかった。ブルーノートのサイドワインダーのように、反対に思わぬヒットアルバムが生まれたが故に、それまでのようなアルバム作りができなくなったというのが現実であった。
その中で、商売の才覚のあったプロデューサーは、多くの人を集めるコンサートを企画するイベントプロデューサーとしても活躍していった。

ジャズが一般化すると、メジャーレーベルもジャズのラインナップを充実させるためにジャズの専門レーベルを傘下に収め、売れるアルバム作りに精を出すことになる。そのためのプロデューサーも必要とした。その結果、その功罪と程度は別として、コマーシャリズムに取り込まれたジャズが増えるということになる。

クリードテイラーというプロデューサーがいる。プロデューサーとして頭角を現したのがベツレヘムレコード、そしてabcでも着実に実績を上げ、インパルスレーベルを誕生させる。さあこれからという時にそれをボブシールに任せて、今度はノーマングランツが手放したVerveに移籍する。

そこで、スタンゲッツのボサノバアルバムを大ヒットさせ、売れるアルバム作りを実践した。まずは、ビルエバンス、ウェスモンゴメリー、ジミースミス、オスカーピーターソンなど有名ミュージシャンを次々と傘下に収める。勝つためには、昔の巨人のように、他球団のエース級を皆引き抜いたとうことだろう。他にも中堅、新人を問わず起用し、リリースされたアルバムは膨大だ。

売るためのアルバムにするため、大物同士の顔合わせ、あるいは大編成をバックにしたり、いわゆるヒット曲を素材に使ったり、手を替え品を替え売れるアルバム作りに邁進する。
確かにジャズファンの底辺は広がったが、反対にそれらのアルバムは硬派のジャズファンからはあまり支持を受けなくなった。

そのクリードテイラーが、1967年に今度は突然新興レーベルA&Mに移籍する。常勝監督がいきなりチームを去って、新興のチームに行くようなものだ。その時、Verveからウェスモンゴメリーを一緒に連れて行った。そして作ったアルバムがA Day In The Life。ドンセベスキーのストリングスを入れたバックで、思惑通りヒット作となり新たなCTIサウンドが誕生した。

ウェスを引き抜かれたVerveは、売れるギターアルバムを提供するにはウェスに代わるギタリストが必要だった。そこで、白羽の矢を立てたのがCBSからデビューしていたジョージベンソン。早速、ウェスモンゴメリーの穴埋めとなるアルバム制作を行った。

1968年2月。日本ではちょうど学生運動が活発な頃、安田講堂の騒乱が起った時だ。
テイラーの後を引き継いだプロデューサーのEsmond Edwardsは、どんなアルバムに仕上げるのか色々悩んだであろう。ウェス路線を続けるのか、それともベンソンの独自新路線を作り出すか?

出した結論は、大編成をバックにし、曲によってはバックコーラスも加え、ポピュラーな曲でウェスモンゴメリーの路線を踏襲した演奏と、ピアノトリオをバックにしたストレートアヘッドな演奏の2本立て。一枚のアルバムにこの2つのセッションが収められている。CBS時代のベンソンはオルガンを加えたソウルジャズの演奏スタイルであった。その良さも引き継ぎながら、まずはこのイメージから新しいスタイルへの脱却も必要だった。

トリオのメンバーはハービーハンコックのピアノ、ベースがロンカーター、そしてドラムがビリーコブハム。ハンコック&カーターのコンビは、ウェスモンゴメリーのA Day In The Lifeにも参加しているので、奇しくも同じコンビでウェスと張り合うという図式となった。
ベンソンはこの録音に先立ち古巣のCBSでマイルスデイビスのレコーディングに参加した直後であった。

ハンコックとカーターとはここで一緒だったが、そこはマイルスの世界での演奏。果たして、このアルバムで2人はどんなプレーをするか興味が湧くが・・・?。ベンソンのスタイルに合わせたのか、Low Dawn And Dirtyのハンコックの妙にブルージーなプレーが印象的だ。CD盤で追加された、Billy's Bounceの 演奏がベンソンもバックもベストプレーだろう。



このバックのアンサンブルのアレンジはトムマッキントッシュが行っているが、このアンサンブルは、トランペット3本に、バストロとバリサクという変則編成。ソロを際立たせるアクセント以上ではなかった。このメンバーにはペッパーアダムスが参加しているが、ジミースミスのアルバムに続いてのVerveの録音への参加になる。この頃の録音はオーバーダビングが増えてきたようにアダムスのメモには記されている。明記はされていないが、これももしかしたらそうかもしれない。

今では当たり前になったソロとバックを分けた録音もこの頃から一般的になったのも。自分のソロも無く、ソロとは別にバックだけ録音されるとなると、一体誰のアルバムに参加したのかの記憶も曖昧になのは止むを得ないものだ。

A&Mに移籍したウェスは3枚のアルバムを残して、この年1968年の6月に急逝してしまう。クリードテイラーはその後、A&Mで成功を収め、さらにそこからCTIレーベルとして独立する。ベンソンはVerveに続けて何枚かのアルバムを残し、今度はクリードテイラーの元でウェスの後継ともいえるアルバムを作る。

皆それぞれの人生での一場面であるが、ジョージベンソンにとってはこのアルバムがその後の大躍進のきっかけになったのは間違いない。

1. Along Comes Mary                  2:58
2. Sunny                       2:35
3. What's New?                    5:24
4. Giblet Gravy                    4:42
5. Walk On By                    3:21
6. Thunder Walk                   4:38
7. Sack Of Woe                    3:03
8. Groovin'                      2:40
9. Low Down And Dirty                8:28
10. Billie's Boounce
11. What's New? (alt. Take)
12. What's New? (alt Take)

George Benson (g)
Carl Lynch, Eric Gale (g)
Ernie Royal, Snookie Young, Jimmy Owens (tp,flh)
Alan Raph (btb)
Pepper Adams (bs)
Herbie Hancock (p)
Bob Cranshaw (b) (#2,4,5)
Ron Carter (b)
Billy Cobham (ds)
Johnny Pacheco (Congas, Tambourine)
Albertine Robinson, Eileen Gilbert, Lois Winter (vocals)

Arranged By Tom McIntosh
Producede by Esmond Edwards
Engineer – Val Valentin



Giblet Gravy
クリエーター情報なし
Polygram Records
コメント (9)
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ペッパーアダムスには珍しいジャズフェスティバルのステージでの演奏は・・・

2015-04-26 | PEPPER ADAMS
California Cooking / Pepper Adams

ローリンドアルメイダのアルバムで相方を務めたベースのボブ・マグナソン。コンコルドのアルバムには良く登場するが、図太いサウンドで自分の好きなタイプだ。
このマグナソンの経歴を辿ると、バディーリッチのオーケストラへの参加が本格的なデビューのようだ。1969年のアルバムBody & Soulにその名前があるサラボーンとミシェルルグランとのアルバムに参加したのがきっかけか、サラボーンのバックをしばらくの間務める。
その後はスタジオワークが多いが、その合間にgigもこなし、コンコルドのアルバムにも参加したことになる。ローリンドアルメイダのアルバム作りに参加したのが1983年4月であったが、その直前にニューヨークからの遠来の客の相手を務めることになった。

ペッパーアダムスのアルバムはとりあえずアダムスの研究家Gary Carnerが定めたリーダーアルバムは未発表を除く18枚はすべて紹介したが、他にもアダムスのリーダーアルバムといえるアルバムは何枚かある。このアルバムもその一枚だと思うのだが・・・。
このアルバムは、ロス在住のプロデューサー、妙中俊哉が設立したレーベルInterplayからリリースされたアルバム。地元コスタ・メサで開かれたオレンジカントリージャズフェスティバルでのライブ録音だ。

実は、このオレンジカントリージャズフェスティバルは、イギリス出身のプロデューサーフレッドノースワージーが手掛けたジャズティバル。ノースワージーといえば、幻のレーベルだったJazzline、Jazztimeの設立に関わった人物。その中にペッパーアダムスが参加したトロンボーンのウイリーウィルソンのアルバムがあった。このノースワージーはアダムスに惚れ込んだのか、後にフリーのプロデューサーとしてアダムスのリーダーアルバムEncounterの制作にも携わる。そのノースワージーがジャズフェスティバルをやるとなると、ペッパーアダムスにも協力依頼をするのは不思議ではないが・・・。

ニューヨークを拠点としていたアダムスにとっては遠いカリフォルニアでのイベントであったが、ノースワージーには恩義があるのか全面的な協力をすることになった。
その頃アダムスは、普段のクラブでの演奏以外に学生バンドへのゲスト出演や、それに合わせてクリニックをやることも多くなっていた。
この時もプレー以外にフェスティバルの一環として行われたハイスクールバンドのコンテストの審査委員を務めるなど、フェスティバルの開催中が大忙しであった。

メインイベントの日には、自分のグル―プの演奏に先立ち、地元のカレッジバンドにゲスト出演し、終わってからはビルベイリーのビッグバンドにもゲスト出演し、アダムスはステージ上でも出ずっぱりであった。

メインのアダムスのグループの演奏は、レギュラーグループを持っていなかったので、このフェスティバルに合わせて臨時編成グループで臨んだ。フェスティバルのステージ上での単なるジャムセッションというのをアダムスはあまり好まなかった。忙しい中ではあったが、選ばれたメンバーで一応リハーサルをして本番に臨んだ。

選ばれたメンバーは、まずトランペットにはテッドカーソン。アダムスとカーソンはニューヨークでも良く演奏する中であり、直前の一月にも一緒にプレーをしたばかりであった。たまたまこのカーソンもこのフェスティバルに参加していたのでアダムスのグループへも参加となった。

リズムセクションはノースワージーが手配をした。まず、同じイギリス出身ということもあったのか、ピアノには地元で活動していたビクターフェルドマンを選んだ。フェルドマンといえば50年代にはピアノとヴァイブで活躍し、一時はマイルスのバンドへの誘いもあったという。しかし、この誘いを断りロスに留まりスタジオワークが多くなると、ピアノよりパーカッションとして活動することが多くなっていた。フェルドマンにとっても久々のピアノプレー、それもストレートアヘッドなジャズのステージであった。アダムスとは初めてではないと思うが、少なくとも直近は一緒にプレーをする機会はなかったはずだ。

そしてベースにはボブ・マグナソンが加わった。
遠来の客の相手というのはこのペッパーアダムスであった。
ドラムのカールバーネットとのコンビとは、アダムスは、以前一緒にレコーディングをしたこともあるので、これも初顔合わせではなかった。

演奏した曲は、フェルドマンのピアノをフィーチャーしたLast Resort,テッドカーソンをフィーチャーしたサーマータイム、そしてアダムスのオリジナルを3曲、そしてジャムセッションの曲としてはカーソンと相談してオレオが選ばれ、ここではメンバー達の大ブローという構成になった。メンバー全員でちょうど一時間のステージの持ち時間に上手く収まるようなプログラム構成とはなった。

しかし、リハーサルを重ねる時間が無かったのか、フェスティバルという会場に合わせた選曲・構成に敢えてしたのかは定かでではないが、結局ペッパーアダムスクインテットいうには少しルーズなグループであった。全体のコンビネーションも今一つしっくり感が少ない。
いつものリーダーアルバムのレコーディングとは異なり、アダムスの自己主張は弱く、皆が勝手に演奏している雰囲気だ。
しかし、仕掛け人のノースワージーとしては、この演奏はぜひ残して置きたかったのだろう。ノースワージーが自ら録音を行い、妙中氏との連係プレーで晴れてアルバムとしてリリースされた。

時間がない中で、アダムスのカリフォルニアでの即席料理は素材が良かったのだが、残念ながら味わいのあるものに仕上がってはいない。それがアダムスのリーダーアルバムの一枚に加えられない理由かもしれない。

もう一つ注文を付ければ、ノースワージー自ら手掛けたライブの録音のレベルが今一つ。マグナソンのベースも大音量で響き渡るだけで良さもが出ていない。いつものコンコルドのフィルエドワーズが録音を手掛けていたら、もっと良い印象を受けるかもしれない。アルメイダのアルバムでの録音に好印象を持った直後だけに余計に落差を感じる。

1. Valse Celtique                 Pepper Adams 13:31
2. Summertime  George Gershwin / Ira Gershwin / DuBose Heyward 9:57
3. Last Resor                   Victor Feldman 7:01
4. Now in Our Lives                Pepper Adams 10:27
5. Oleo                      Sonny Rollins 9:33
6. Doctor Deep                 Pepper Adamms 11:29

Pepper Adams (bs)
Ted Curson (tp)
Victor Feldman (p)
Bob Magnusson (b)
Carl Burnette (ds)

Produced by Toshiya Taenaka
Engineer : Fred Norsworthy

Recorded live at Orange Country Jazz Festival. Costa Mesa, California on March 26, 1983




カリフォルニア・クッキン
クリエーター情報なし
アブソードミュージックジャパン
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オルガンの演奏の雰囲気をそのまま歌声で・・・

2015-04-19 | PEPPER ADAMS
Stay Loose / Jimmy Smith Sings Again

最近は時間の感覚が鈍くなっている。ついこの前の出来事と思っても、実は5年前の事だったりするのは日常茶飯事。それに比べて学生時代の事は一年一年を明確に覚えている。
1968年自分は浪人時代で、ジャズ喫茶通いをしていた頃。学生運動の一番激しかった時で、新宿駅の騒乱があり、東大紛争のあおりで翌年の東大の入試がなくなった年だ。

ペッパーアダムスが参加したアルバムの紹介もこの1968年に入る。この年のペッパーアダムスは、サドメルとデュークピアソンのビッグバンドの両方にレギュラー参加し、毎週のライブだけでなくリハーサルが続く毎日でスタートした。
1968年といえば、この年の夏にはサドメルに加わって来日もした年だ。
レコーディングはコンボでの演奏より、相変わらずバックのオーケストラやアンサンブルに加わる事が多かった。この頃はそれだけビッグバンドやラージアンサンブルをハックにしたアルバムが多かったということになる。

MGMに売却されメジャーレーベルとなったVerveは、他のレーベルと較べてもお金の掛け方が違っていた。リリースされたアルバムの数も膨大であったが、ジャケットはダブルジャケットとなり、アレンジャーにもバックのオーケストラのメンバーにも一流メンバーを起用していた。当然のように出来上がったサウンドはゴージャスな物が多い。結果的にそれが好き嫌いに分かれるが、コンボ好きの硬派のジャズファンからは見向きもされないことが多い。

ペッパーアダムスもデュークピアソンとの付き合いが長かったせいもあり、ピアソンがプロデュースしていたブルーノートのセッションへの参加が多かった。しかし、サドメルに加わるとオーケストラの他のメンバーに誘われたのか、彼らと一緒に他のレーベルの録音への参加も増えてきた。そして、Verveのセッションへの参加も。
この年のアダムスの最初のレコーディングもそのようなものであった。

当時のVerveはピータソン、ゲッツ、エバンス、モンゴメリーなど大物ミュージシャンが集まっていたが、オルガンのジミースミスもその一人であった。ブルーノートで何枚もアルバムを出し、ジャズオルガンでは断トツの一人者であった。そんなジミースミスがブルーノートからVerveに正式に移籍したのが1963年、Verveに移籍してからも立て続けにヒットアルバムを出していた。
代表的なアルバムのThe catを始めとして、スミスのアルバムもオーケストラをバックにしたアルバムが多くなった。オルガンというとギターとテナーとの相性がいいように感じるが、このオーケストラのダイナミックなアンサンブルとオルガンの親和性もいいと思う。
今回のアダムスのレコーディングは、このジミースミスのバックであった。

このアルバムの特徴はというと、まずはジミースミスの歌が聴けるということ。タイトル曲Stay Looseを含むオーケストラをバックにした4曲がスミスの歌とオルガンをフィーチャーしたものだ。スミスの歌というのはオルガン同様、ソウルフルなファンキーな歌だ。鍵盤のノリがそのまま歌声になったようなもの。普段歌を歌わないミュージシャンが歌を披露するとイメージとは違ったり、楽器と較べるとノリが悪い事がある。しかし、スミスの歌はイメージ通り、オルガンの演奏でも唸り声が響き渡る。



残りの3曲が、ブルーノートでアルバムを立て続けに出していたスタンレータレンタインをゲストに加えたコンボでの演奏になる。
オルガンとの相性がいいビッグバンドのバックと、テナーとのコンビの両方の編成を用意し、スミスの歌までつけた欲張り企画だ。
この頃のVerveは、このアルバムのジャケットデザインにも驚かされるが、メンバーも演奏も色々なアルバムが入り乱れ何でも有だった。

1. I'm Gonna Move To The Outskirts Of Town *
2. Stay Loose *
3. If You Ain't Got It *
4. One For Members
5. Is You Is Or Is You Ain't My Baby *
6. Chain Of Fools
7. Grabbin' Hold

(*) 1,2,3,5
Joe Newman, Ernie Royal, Snooky Young (tp)
Garnett Brown, Jimmy Cleveland, Alan Raph (tb)
Pepper Adams (bs)
Joe Farrell (ts)
Hubert Laws (fl)
Jerome Richardson (as)
Jimmy Smith (organ, vocals)
Carl Lynch (g)
Jimmy Tyrell (b)
Grady Tate (ds)
Johnny Pacheco (per)
Eileen Gilbert, Melba Moorman, Carline Ray (vocals -1)
Tom McIntosh (arranger, conductor)

4,6,7
Jimmy Smith (organ)
Stanley Turrentine (ts)
Phil Upchurch (g)
Jimmy Merritt (b)
Grady Tate (ds)
Eileen Gilbert, Melba Moorman, Carline Ray (vocals -2,4,5)

Produced by Esmond Edwards
Recorded at A&R Studio in NYC, on January 29, 1968

Stay Loose (Dig)
クリエーター情報なし
Verve
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大編成になるとアルバムの出来・不出来はアレンジャーの腕比べになりがちだが・・・

2015-04-07 | PEPPER ADAMS
Heads Up! / Blue Mitchell

有名ミュージシャンのグループに加わってアルバムに参加すると、リーダーでなくとも自然とその名前は知られるようになる。そしてある時、自分のリーダーアルバムを出す段になっても、その実績があるが故に初リーダーアルバムとは思えないような堂々とした演奏のアルバムが誕生する。

ブルーノートに残したホレスシルバークインテットのアルバムの数々にグループの一員として参加していたのがトランペットのブルーミッチェルだ。あまり目立つ存在ではなかったが、ホレスシルバーのバンドを辞めてからも、ブルーノートの録音の多くに参加した。
サイドメンとしての参加も多かったが、リーダーアルバムとして新人チックコリア、アルフォスターを従え”Things To Do”も誕生した。しかし、さあこれからといったタイミングでブルーノートのアルバム制作方針に路線変更が起こってしまった。

この頃、ブルーノートではジャズロック風のアルバムや大編成のアンサンブルをバックにしたアルバムが増えてきた。このミッチェルも例外ではなく次の”Boss Horn”ではオクテット編成でのアルバムとなった
ミッチェル自身のトランペットはハードバッパーだと思うが、大きな編成になってアンサンブルワークの中に加わり、8ビートやコリアの多少モーダルな感じの曲もやるようになると、トランペット自体は反対に優等生的な演奏に収まってきてしまった。なかなか強烈な個性が無いと大編成を従えたアルバムでは荷が重くなる。

そして、翌年、このアルバム”Head Up!”を作ることになる。引き続き同じ路線で、編成はさらに大掛かりになり、もう一本トランペットも加わり総勢で9人編成となった。しかし、ソロをとるのは、あくまでもミッチェルとシルバークインテット時代からの相方であるジュニアクックが中心となる。

アレンジが益々大事になるが、このアルバムでは4人のアレンジャーの腕比べとなった。前のアルバムでもアレンジを担当していたデュークピアソン。他にはジミーヒース、メルバリストン。さらに自分は知らなかったがドンピケットというアレンジャーが勢揃いした。それぞれ、メインストリームからブーガルーまで多彩なアレンジが提供されたのだが。

このブルーミッチェルはこの頃ブルーノートでは他のアルバムにもサイドメンとしての参加することが多かった。このようなオクテット、ノネット編成というのはソリストに余程個性がないとリーダーアルバムとはいってもソロがアンサンブルに埋没してしまう。そして、アレンジャーにとってはソロを引き立たせるアレンジができるかどうかがカギとなるのだが。残念ながらこのアルバムは、ミッチェルをフィーチャーしているというよりは、どうもアレンジの違いを聴き較べるアルバムになってしまったようだ。中では、デュークピアソンのアレンジによるジェリーダジオンのフルートのリードで始まるカリプソ風のThe People in Nassauに新しい風を感じる。ちょうど日本ではナベサダのボサノバが流行っていた頃だ。

というアルバムなので、余程のミッチェルファンか、あるいはアレンジ物が好きな人でないと手にすることはないアルバムだろう。

そしてこのアルバムには、自分の目当てのペッパーアダムスも参加している。ちょうどサドメルができて一年半近く経った時。サドメルに加えてデュークピアソンのビッグバンドでも定期的なライブが始まった頃で忙しくなった真っ只中、積極的にスタジオワークもこなしていた時期の録音だ。
1967年10月、ちょうどドナルドバードとの再会レコーディングを終えた後のセッション参加であったが、ここではアンサンブルワークだけで、特にソロの出番は無かった。アダムスに限らず他のメンバーではピアノのマッコイタイナーと、ジェリーダジオンのフルートだけがソロでも登場する。

その後のミッチェルは西海岸でスタジオワークが多くなる。初期のコンコルドのアルバムにも良く参加していた。ビッグバンドにも良く加わっていたし、ハロルドランドとコンビを組んだこともあった。が、ソリストとして名を馳せるにはプレーが上手だけでは駄目で、何か聴き手の感性に訴えるサムシングが必要なのかもしれない。

1. Heads Up! Feet Down!                 Jimmy Heath
2. Togetherness                      Jimmy Heath
3. The Folks Who Live on the Hill     Oscar Hammerstein II / Jerome Kern
4. Good Humour Man                    Blue Mitchell
5. Len Sirrah                       Melba Liston
6. The People in Nassau                  Blue Mitchell

Blue Mitchell (tp)
Burt Collins (tp)
Julian Priester (tb)
Jerry Dodgion (as fl)
Junior Cook (ts)
Pepper Adams (bs)
McCoy Tyner (p)
Gene Taylor (b)
Al Foster (ds)

Jimmy Heath (arr)
Duke Pearson (arr)
Don Pickett (arr)
Melba Liston (arr)
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliff, New Jersey on November 17, 1967


ヘッズ・アップ+2
ブルー・ミッチェル
ユニバーサルミュージック
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怪我からの復帰祝いは、昔からの友人のリーダーアルバムのお祝いを兼ねて・・・

2015-03-10 | PEPPER ADAMS
Opalessence / Hod O’Brien Quintet featuring Tom Harell and Pepper Adams

自らバップ時代を知っていて、そのスタイルを守るピアニストの代表格はバリーハリス。まだ元気に現役を続けている。そして、少し年は若いがバリバリの現役にホッドオブライエンがいる。50年代にオスカーペティフォード、アートファーマーなどとの共演歴があるが、一時ジャズ界から引退し、コンピューター関連の仕事をしていたという。

そのオブライエンがジャズ界に本格的に復帰したのは80年代に入ってから。長いブランクであった。
したがって、最近のジャズ事情に詳しい方であれば良く知っているかもしれないが、自分のように古いジャズファンで最近の事情に疎い人間にとっては、それは誰?良く知らないピアニストということになる。

リーダーアルバムを作ったのも80年代以降、復帰後の50歳を過ぎてから人気が出て、最近では「年老いて益々盛ん」なピアニストのようだ。参加するアルバムが増えてきたのも90年代以降なので、このアルバムが初めてのリーダーアルバムといっても良いくらいの遅咲きだ。

自分にとってこのアルバムは?というと、例によってペッパーアダムスが参加しているので買い求めたもの。このオブライエンが目的であった訳ではない。
トムハレルが参加しているのと、ジャケットのちょっとマイケルジャクション似の風貌と名前から、実は勝手にヨーロッパ系の新人位に思い込んでいた。その割には、新しいスタイルには惑わされることなく、伝統的なスタイルのピアノをきちんと弾くなとは思っていたのだが。

先日、アルトの大森明のライブに行って、新しいアルバム「マンハッタン組曲」を紹介されたので、ジャケットを眺めるとニューヨーク録音。ピアノは「伝説のピアニスト、ホッドオブライエン」とあった。どこかで聴いた事があるなと気になって確認したら、このアルバムのオブライエンであった。これで初めて繋がったという次第。



そして、ライナーノーツを見ると大体アルバム事情も呑み込め、位置づけもクリアになった。

おおまかには、
アルバムタイトルにもなっている、一曲目のOpalessenceは50年代に作ってオスカーペティフォードのお気に入りになった曲。名前の頭のO.P.はオスカーペティフォードの略。
ペッパーアダムスとはアダムスがデトロイトからニューヨークに出てきた56年から知っている仲で、デトロイト出身のミュージシャン(フラナガン、バレル、ハリスなど)がいつも集まっていた所にオブライエンも通っていた。
チェットベイカーが好きでよくアダムスと一緒にプレーをしたこともあり、今回はその流れでトランペットにトムハレルを起用した。
ベースのレイドラモンド、ドラムのケニーワシントンとプレーするのは、このセッションが初めて。フィーリングがピッタリ合った2人だったので、その後も一緒にプレーすることが多くそのままレギュラートリオになった。
一曲だけ参加している、ボーカルのステファニーナカジヤンは数年まえに知り合って伴奏をしたが、意気投合しお互いパートナー同士になった。

ということになる。

一方のペッパーアダムスにとって、このアルバムは?というと、
先日詳しく書いたように、84年は怪我で一年を棒に振った年。9月過ぎからボチボチ活動開始。車椅子や杖の無い生活ができようになったのは、85年の1月、この録音の直後になってから。
丁度、この現場復帰の最中の録音となる。リーダーアルバムではないが、この間に録音に参加した何枚かのアルバムでは演奏はもちろん、何かにチャレンジしようという気合を感じるアルバムが多いが、これもその一枚だ。まだガンの宣告を受ける前、怪我から復帰して今まで通り吹ける嬉しさが満ち溢れている。

この年明け早々のレコーディングセッションに向けて、年末にリハーサルが何度も行われた。アダムスの参加するアルバムは、大きな編成以外は比較的一発勝負が多いが、これは例外だった。アダムスがというより、初顔合わせのメンバーが多く、リーダーアルバムへの想いが募るオブライエンの意向が強かったのかもしれない。

オブライエン、ハレル、そしてアダムスの曲が多い。演奏はいたってオーソドックス。バップの伝承者であるオブライエンが、50年代からタイムスリップしたようなピアノの本領発揮。アダムスはいいピアニストに恵まれている。
良く聴くアルバムでも、棚卸をしてみないと知ったかぶりをしていても知らないことが多いものだ。

1. Opalessence              Hod O'Brien 9:58
2. Touchstone               T. Harrell 7:05
3. Bits and Pieces            Hod O'Brien 7:06
4. Joy Road               Hod O'Brien 7:05
5. A Handful of Dust           Hod O'Brien 7:07
6. The Blues Walk            Hod O'Brien 8:58
7. Detour Ahead  Lou Carter / Herb Ellis / John Freigo 8:55
8. Joy Road                 P Adams 7:51

Hod O'Brien (p)
Pepper Adams (bs)
Tom Harrell (tp,fluegelhorn)
Ray Drummond (b)
Kenny Washington (ds)
Stephanie Nakasian (vol)
Engineer : Rudy Van Gelder
Produced by Gerry Teekens

Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, N.J. on January 2, 1985

OPALESSENCE
クリエーター情報なし
CRISS CROSS
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ダウンビート誌で前代未聞の5星半の評点を得たアルバムのセッションは・・・?

2015-02-28 | PEPPER ADAMS
Dizzy Gillespie Live At The Village Vanguard

ペッパーアダムスが久しぶりにドナルドバードとレコーディングを行ったのは1967年9月29日と10月5日の2回に分けて行われたが、その間の10月1日、日曜日の午後にビレッジバンガードでジャムセッションが行われた。そのジャムセッションを企画したのはソリッドステートレーベルの創設者のソニーレスターであった。

ジャズの世界でジャムセッションは50年代までは良く行われ、レギュラーの仕事が終わった後、早朝まで行われていたという。仲間同士の鍛錬の場であり、新人達にとっては修行の場でもあった。しかし、この録音が行われた1960年代の後半になると、ジャムセッションは下火となっていたという。

その一つの理由が、ミュージシャンユニオンの力が強くなり、”No Money, No Play”が組合の方針として掲げられ、無報酬での演奏が難しくなったからといわれている。これで、ファンにとっては、聴きたくてもステージ上でのジャムセッションを目にする(耳にできる)機会が少なくなったという訳だ。ミュージシャン達にとっても、ジャムセッションは決してお金のためだけではない楽しみと意義があったはずだが、その機会が減るという事は、自分の演奏を成長させる機会が減るという事になっていた。

そんな時代に、珍しくベテランから新人まで、普段一緒に演奏する機会が少ないメンバーが一同に集まっが、ソニーレスターが立ち上げたソリッドステートレーベルでアルバムを作ったミュージシャン達が中心だった。
ドラムのメルルイス、ベースのリチャードデイビス、ペッパーアダムス、ガーネットブラウンなど、サドメルのメンバーも多く参加した。
そして、若手代表でチックコリア、大事なセッションリーダーはディジーガレスピー御大が務めた。エリントンオーケストラで有名なレイナンスもバイオリンで加わった。
メンバーを見ただけで楽しそうなジャムセッションになりそうな気がする。

この模様を録音して、ソリッドステートからJazz For A Sunday Afternoon Vo.1 Vol.2というタイトルでリリースされた。そのための、公開ライブのようなジャムセッションだったという訳である。




1968年8月8日のダウンビートでこのアルバムが紹介され、評点は5星半。もちろん、5星が満点なので、この五つ星半は初めてのことであった。それだけ、レビュアーの評価が高かったということになる。

丁度この頃は自分のジャズ喫茶通いが始まった頃。このアルバムを初めて聴いた時は、サドメルのメンバーはいるし、アルバムのデザインも聴いた雰囲気もすっかり気に入って、このシリーズは愛聴盤になった。
このセッションは、レスターは当初からシリーズ化を目論んでいたようだが、結局レーベル自体が長続きせず、Vol.4で終わってしまったのが残念だ。

Vol1.と2,の好評に応えて、当日の残りの未収録曲をDizzy Gillespie At The Village Vanguardというアルバムで続けてリリースした。ところが、ディジーズブルース以外は、すでにVol.1.2.に収められていた曲であったという、期待外れのアルバムであった。

日本盤のジャケットはこんな感じであった、



これは、その演奏。



結局、当日録音されていたのは、既にリリースされていた2枚のアルバムの6曲に、別テイクも無く、あと一曲だけだったという事が実態であったというのも、今になってディスコグラフィーを確認すると明らかだ。

このソリッドステートレーベルは、早々にブルーノート(リバティー)に売却されていたが、CD時代になって、マイケルカスクーナがこの録音の再発を手掛けた。

今回は、全7曲を当日のステージでの演奏順に並べ替えて。ライブ物はやはりその順序がいいと思う。そして、3曲はLPではソロやアンサンブルがカットされていた部分があったが、これを元の演奏のまま収め完全な形でのリリースとなった。
すると、必然的に最初の2曲だけがエルビンが参加し、後はメルルイスに替わったことも、一部ではレイナンスが参加していて、2部はガーネットブラウンという事も明確になる。
そして、ガレスピーのアルバムで最後に出された曲は、曲名自体も間違いであったというお粗末な結果も修正された完全盤となった。

そして再発に際しては、タイトルは当初のJazz for A Sunday Afternoonではなく、Dizzy Gillespie At The Village Vanguard featuring Chick Corea & Elvin Jonesとなった。一般受けするにはこのタイトルの方が良いと思ったのだろう。

ディジーガレスピーのアルバムは、ガレスピーの基本的に誘れれば断らないという性格なのか、超大作からつまらないアルバムまで千差万別ある。編成もコンボからビッグバンドまで幅広く、当たり外れが多いが、このアルバムは何といっても、ダウンビートで前代未聞の5星半を得たアルバム。ガレスピーも演奏だけでなく、このジャムセッションの雰囲気を味わえる好アルバムだ。特に、このCDでのカスクーナによる再発アルバムは、Jazz for A Sunday AfernoonのVol.1,Vol.2のオリジナルLPでカットされた部分を含む完全盤だ。

内容を正しく表せば、「Sunday Afternoon Jam Session At The Village Vanguard, Session Leaded by Dizzy Gillespie」ということになる。

そして、このセッションを成功させたのは、実はガレスピーに加えてペッパーアダムスの存在のような気がする。
ヘッドアレンジ風のイントロからテーマ設定、そして他のソロのオブリガード、さらに自らの豪快のソローパートすべてに登場する。気配り上手のアダムスが、マイペースのガレスピーを実に上手く補佐している。

この頃のアダムスは、ライブ活動はサドメルとデュークピアソンのビッグバンドが中心。そして、レコーディングは直前、直後のドナルドバードとのセッションを除けば、ソロはあってもバックのアンサンブルが多かった。
アダムスにとっても、久しぶりのジャムセッションの場であったのかもしれない。
アダムスのライブの生き生きとしたプレーを聴けるのも、このアルバムが魅力を増している。

1, Birks’ Works     17:57
2. Lullaby Of The Leaves      13:30
3. Lover Come Back To Me     19:15
4, Blues For Max          9:10
5. Tour De Force          11:51
6. On The trail           16:43
7. Sweet Georgia Brown       16;19

Dizzy Gillespie (tp)
Pepper Adams (bs)
Garnet Brown (tb)
Ray Nance (Violin)
Chick Corea (p)
Richard Davis (b)
Elvin Jones (ds) #1,2
Mel Lewis (ds) other Tracks

Recorded live at The Village Vanguard, New York
Prpduced by Sonny Lester

Live at the Village Vanguard
Dizzy Gillepie
Emd/Blue Note
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ドナルドバードにとって分水嶺となった一枚のアルバム・・・

2015-02-22 | PEPPER ADAMS
The Creeper / Donald Byrd

何事にもおいても変化を迎える時はその予兆があり、それに続いて大きな変化が生じるものだ。後になって思い返してみれば、あの時がその予兆だったのかということは分かるが、その渦中にいる時は、日常のちょっとした変化として見過ごされてしまう。

このアルバムは、例のカスクーナの発掘によって後に世に出たアルバムである。したがって、その当時はファンとしてはそのアルバムの存在すら知ることのできないセッションであった。
自分が、このアルバムを手にしたのはペッパーアダムスが参加しているアルバムだから、特にドナルドバードを追いかけていたわけでない。ペッパーアダムスを主体にこのアルバムを聴けば、アダムスの日々続く色々なレコーディング活動の中の一つにすぎない。ソロの出番が多いことを考えれば、バックのアンサンブルワークだけの仕事に較べると、旧友とのセッションでもあり、アダムス本人は自分も主役の一人と感じていたかもしれない。しかし、このセッションでの演奏が、自分自身の大きな節目になるとは思わなかったであろう。

ところが、このアルバムのリーダー、ドナルドバードにとっては、このアルバムが結果的に一つの区切りのアルバムとなった。
このアルバムのライナーノーツに、カスクーナ自身がドナルドバードについてかなり詳しく書いているが、そこにも、「これはバード自身にとっても分水嶺をなす重要なアルバムだ」と記されている」。

ペッパーアダムスの活動の軌跡を追っていると、このドナルドバードは各年代で頻繁に登場する。そもそも同じデトロイト出身で、同じような活動をしていたという事もあり、当然アダムスとバードとの接点は多い。いや、一緒にコンビを組んだこともあるので、お互い単なる知り合いという以上に2人は非常に密な関係であった。

ニューヨークにデビューしてから10年、同じような道を歩みながら2人のジャズ界におけるポジションはこの時すでに大きく違っていた。2人とも音楽に対して真剣に向き合うスタンスは同じでも、この違いは2人のキャラクター、人生観の違いもあったのかもしれない。

ドナルドバードはニューヨークデビューしてすぐに有名ミュージシャンのアルバム録音に数多く参加し、その勢いで名門ジャズメッセンジャーズにもすぐに加入する。その勢いのまま、ブルーノートで自らのリーダーアルバムを立て続けに出すシンデレラボーイとなった。新人から、一気に檜舞台を歩き続ける存在となり、衆目の注目するところとなった。

当然のように、有名人に仕掛けられる甘い誘惑も多かった。若くしてこのようにちやほやされると、生活も乱れてくるのが世の常だが、このバードの場合は、このような誘いを絶って自堕落な生活に陥ることはなかった。
反対に、約束を守り、必ず時間通りにメンバーを引き連れて現れるバードは、クラブオーナーやプロモーターからも絶大な信頼を得ていたという。

さらに、忙しい演奏活動の合間を縫ってニューヨークでも勉学に勤しんだ。まずは本業の音楽はマンハッタン音楽院で作曲を、さらにコロンビア大学の博士課程に進み、その研究範囲は歴史から法律までに及んだという。さらに作曲はパリでクラッシクについても学んだ。
なるべくして、リーダー、そして教育者としての素養が身に付いていった。企業であれば、幹部候補生が現場の仕事を重ねつつ幹部教育を受け、次期経営者候補に育っていくのと同じだったと思う。

一方のアダムスはというと、仕事の一つ一つの完成度を高めるのに注力していた。自分がサブの立場であれば、自分の役割を確実にこなし、自分がリーダーの時は必要以上に段取りを重視し。周囲への気配りを忘れず、細部の拘りを持って仕事をしていた。

そして、オフの時は文学を愛読し、ツアーに出ると地元の美術館廻りを楽しみにしていた。基本的には職人肌、芸術家肌の現場人間であった。企業でいえば専門職、管理職志向のバードとは必然的に進む道が違っていった。

カスクーナは、1966年のダウンビートにバードのインタビュー記事があったと紹介している。「考える事、計画を立てることは大事だ。僕らは、ミュージシャンである前に一人の人間であり、一人の人間として他人と付き合っていかなければならない。この業界では、ミュージシャンだから好き勝手をしても許されると考える人もいる。遅刻の常習者や、反社会的な行為をする人もいる。けれども、行動は自ら起こさねば。他人が導いてくれるわけではない。未来は自分の手で掴むものだ。」と。
このコメントで、バードはプレー以外でもかなり計算づくで人生設計していたことが分かる。

さらに、バードは続ける、「クインシージョーンズ、オリバーネルソン、ラロシフリン達は皆自分達の出身母体に背を向けることなく、日々の活動の中からさらに多くの事を学び、世間に目と耳をオープンにしている。それに必要なのは音楽の教育(広い素養)と、人との関わりで自分を売り込んでいく技術だ。彼らは、皆それらを身に付けている」と。

これで、バードが目指していたことが読み取れる。決して偉大なプレーヤーになろうとは思っていなかったのだ。
この後、アルバムもしばらく途絶える。充電期間なのか、変身に要した時間なのか・・・?
事実、3年後に演奏スタイルはがらりと変わる。いわゆるエレクトリックバードの世界だ。さらに、その後は、次第にプレー自体が減ってきた。反対に、プロデュース、大学で教鞭をとることが多くなっていった。最後は、黒人の歴史と黒人の音楽の研究に没頭し、書物、写真、譜面、音源などの資料は自宅に入りきらないほどだったようだ。
それがバードの望んだ音楽人生であったのだ。

反対に、ペッパーアダムスは、これから10年以上サドメルのレギューラーに在籍し、その後はソリストに専念した。まさにバリトンサックスプレーヤーとしての職人芸を極めることになる。

このバードの人生観を知り、その後のキャリアを見渡すと、このアルバムはプレーヤーとして主体的に活動してきた最後のアルバムと言ってもいいだろう。その後も演奏は続けたが、バード全体の音楽観の中では、トランペットのプレーはほんの一部であった。

このアルバムのもう一つの特徴は、ピアノのチックコリアとベースのミロスラフヴィトウスの参加であろう。2人との丁度売り出し中の新人であった。

このアルバムでバードは自分のオリジナル曲以外に、チックの曲も2曲演奏している。自分の曲はファンキーに、そしてコリアの曲は完全にコリアの世界だ。そして、スタンダードともいえるシェルブールの雨傘では、実にリリカルにストレートなバラードプレーを聴かせてくれる。アダムスとレッドはお休みだが、コリアのピアノとバードのプレーが秀逸だ。



このアルバムの後、バードを除く他のメンバーはメインストリームジャズの世界を歩み続ける。しかし、バードは、コリアやヴィトウスと一緒に別の新しい道に踏み入る。

コリアは70年にマイルスのバンドに加わり、その後サークルを経てリターンツーフォーエバーへ、ヴィトウスはウェザーリポートへ参加、そしてバードはブラックバードで大変身へ。
新しい道を選んだ3人はそれぞれ一世を風靡する活躍をする。

バードだけでなく、このセッションに参加したそれぞれのメンバーにとってもこのアルバムが分水嶺だったように思う。バードにとっては、新しい試みがある訳でなく、チャンジングな演奏でもなく、今までの演奏に一区切りをつけたようなアルバムだ。

1. Samba Yantra               Chick Corea 9:33
2. I Will Wait For You   Norman Gimbel / Michel Legrand 9:02
3. Blues Medium Rare            Donald Byrd 6:02
4. The Creeper              Sylvester Kyner 4:38
5, Chico-San                 Chick Corea 6:42
6. Early Sunday Morning           Donald Byrd 6:15
7. Blues Well Done              Donald Byrd 6:19

Donald Byrd (tp)
Sonny Red (as)
Pepper Adams (bs)
Chick Corea (p)
Miroslav Vitous (b)
Mickey Rocker (ds)

Produced by Alfred Lion, Frank Wolff, Duke Pearson
Produced for released by Michael Cuscuna
Recorded at Van Gelder Studios, Englewood Cliff, New Jersey on October 5, 1967
Recording Engineer : Rudy Van Gelder

ザ・クリーパー
ドナルド・バード,ソニー・レッド,ペッパー・アダムス,チック・コリア,ミロスラフ・ヴィトウス,ミッキー・ローカー
ユニバーサルミュージック
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ライブで一段とパワーアップしたデュークピアソンビッグバンドの録音が発掘された・・

2015-02-20 | PEPPER ADAMS
Baltimore 1969 / Duke Pearson Big Band

ペッパーアダムスのChronologyを見ると1967年2月に、
Feb 24-26: New York: The Duke Pearson Big Band opens at the Half Note.
との記録がある。多分、これが、デュークピアソンが新たに立ち上げたビッグバンドの初舞台である。

アダムスは‘67年の年明けはレコーディングが続いていたが、一方でライブの活動はサドメルでの活動の他に、久しぶりにドナルドバードとセクステットでファイブスポットへも出演していた。
このピアソンビッグバンドの立上げはちょうど先日紹介したスタンレータレンタインのアルバムの録音の一週間後であった。タレンタインのセッションにも2人揃って参加していたが、今度はこのピアソンのビッグバンドにも2人で参加していた。久々に二人一緒に揃って活動をしていたことになる。

60年代の後半はビッグバンドが復活の兆しを見せていた。ベイシー、エリントン、ハーマン、ケントンの老舗オーケストラは、レギュラー活動を続けていたし、バディーリッチ、ドンエリスといった新しいバンドも立ち上がった。さらに、サドメルやサンラといった実験的なオーケストラも活動を開始した。いわゆるモダンビッグバンドが元気を出し始めた頃である。

ブルーノートで日々アレンジをこなしていたデュークピアソンも、このような世間の動きを横目で見ながら、ソロのバックのアレンジだけを書き続けていることにやる気も段々失せ、忸怩たる思いでこのビッグバンドを立ち上げたのかもしれない。

発起人はドナルドバードと一緒だったともいわれているが、いつも一緒にやる事が多かったボブクランショーとミッキーロッカーでまずはリズム隊を固め、他のセクションのメンバーのリクルートを始めた。メンバー集めは、バートコリンズ、ガーネットブラウン、そしてジェリーダジオンにそれぞれのセクションの取りまとめを依頼した。
結果はいずれも名手揃いだが、アダムスを始めとしてサドメルのメンバーからも何人かが加わった。

当時のニューヨークは、スタジオやテレビの仕事が多くあり、腕の立つメンバーを集めるには困らなかったが、反対に皆忙しすぎて全員が会える日を選ぶのに苦労したようだ。結局、リハーサルはサドメルの活動日とのバッティングを避け、スタジオワークの休みが多い土曜日と決まって練習がスタートする。



レパートリーはすべてピアソン自身のアレンジによる、アレンジャー主導のビッグバンドとなった。彼が前に地元でのコンサートの為に書いた古い譜面や、新しくビッグコンボで取り上げた曲のアレンジを大編成に手直ししたものまで、新旧取り混ぜてオリジナルスコアが用意された。

昔のスイングタイルを踏襲したのでもなく、かといって奇抜さや前衛性を狙った訳でもなく、当時数多く手掛けていた、ソリストのバック用の大型コンボでのアレンジを拡張した感じだ。したがって、各曲ともソロパートが多い。

立上げ後は、定期的にライブ活動を続け、自らがプロデュースを行っていたブルーノートから67年12月、68年12月と2枚のアルバム”Introducing””How Now Here This”を作った。ブルーノートのビッグバンド物は珍しいが、自らがプロデューサーを兼ねていたので無事にどちらもリリースに漕ぎつけた。

しかし、定期的に行われていたライブ活動の様子は、その実態を日本に居ては全く知ることはできなかった。サドメルの実態が、ライブアルバムがリリースされて初めて知ったのと同じ状況であった。

さて、このアルバムは1969年4月27日、ボルチモアでのライブであり、比較的最近(2013年)になってからリリースされた。という意味では、想像するしかなかったビアソンのビッグバンドのライブの様子が初めて世に出たものだ。
このライブの時点で、立上げからすでに2年が経っていたが、オリジナルメンバーが多く残っている。バンド全体の完成度も高まった状態でのライブの演奏なので、それだけで期待が持てる。
まず、録音場所だが、ボルチモアのFamous Ballroom。普段はダンスパーティーなどでも使われ所だろう、しかしこの日はLeft Bank Jazz Societyのコンサートという事で、聴くためだけの地元の熱心なジャズファンが多く集まった。



アルバムに収められているのは全部で8曲だが、どの曲もソロがたっぷりと長めの演奏なので中身は濃い。

最初のHi-Flyはランディウェストンの名曲。ビッグバンド編成前にコンサート用に書いた曲だそうだが、スインギーなストレートな曲。いきなりフォスターとタバキンのソロが圧巻で良い感じだ。
New GirlはピアソンのNonetのアルバムHoneybunsが初演だが、ビッグバンドのアルバムにも収められている曲、軽快なモダンサウンドだ。コリンズからタバキンへのソロの流れもスムース。
Eldoradoはバードのアルバムでやった曲。ここでもバードをフィーチャーしている。

ペッパーアダムスのソロが随所で繰り広げられるが、In The Still of The nightでほぼ一曲休みなく続くソロは圧巻。ピアソンのアルバムでは聴けなかった曲で、サドメルでも聴けなかったようなアダムス大フィーチャーの曲だ。

一転次はチックコリアの曲が2曲、がらりとモダンなモーダルサウンドになる。
最初のTones for Joan's Bonesではピアソンの長いソロが聴けるが、この曲は最初ブルーミッチェルのBossで最初に演奏した曲、ピアソンも気に入ったのかアルバムにも収められている。ビッグバンド編成だけに前作よりもアレンジが濃い。

次のStraight Up and Downがロッカーのドラムを中心にリズム隊が大活躍、その上でソロを交わすのはバードとアダムス、お客も自然と熱がこもってくるのが伝わる。
Ready When You Are C.Bは、その名の通り。典型的なベイシーサウンド。ビッグバンドはやはりこのような曲を一曲入れないと締まらない。
Night Songはスタンレータレンタインの1967年の録音でやった曲。フルバンド用にスコアを書き換え、テナーのソロはここではルータバキンだが、実に味にある演奏だ。

というように、普段ソリストをクローズアップするアレンジを多く手掛けていたが、ビッグバンドになっても基本的に変わりはないように思う。伝統的なビッグバンドでは良くある、アンサンブルをフィーチャーしたサックスのソリやアンサンブルのコールアンドレスポンスは、ピアソンのアレンジには無縁だ。あくまでもソリストありきで全体が組み立てられている。

このような自由度の高い演奏は、ライブで曲の時間的な制約が少ない場だとより魅力が増す。
このライブアルバムが世に出たことでピアソンのビッグバンドの魅力が一段と増した。他のライブ録音が発掘されることを願う。

1.  Hi-Fly                  Randy Weston 12:41
2.  New Girl             Duke Pearson 8:18
3.  Eldorado                Mitchell Farber 7:10
4.  In the Still of the Night          Cole Porter 9:17
5.  Tones for Joan's Bones          Chick Corea 9:57
6.  Straight Up and Down          Chick Corea 13:08
7.  Ready When You Are C.B.        Duke Pearson 7:17
8.  Night Song (Theme from Golden Boy)    Charles Strouse 11:35

The Duke Pearson Big Band
Donald Byrd  (flh, tp)
Jim Bossy  (tp,flh)
Joe Shepley  (flh,tp)
Burt Collins  (flh,tp)
Joe Forst  (tb)
Eddie Bert  (tb)
Julian Priester  (tb)
Kenny Rupp  (btb)
Jerry Dodgion  (as,fl)
Al Gibbons  (as,fl)
Frank Foster (ts)
Lew Tabackin  (ts)
Pepper Adams  (bs)
Duke Pearson  (p)
Bob Cranshaw  (b,eb)
Mickey Roker  (ds)

Produced by David A. Sunenblick & Robert E. Sunenblick
Arranged by Duke Pearson
Original Recordings Vernon Welsh
Recorded live at Famous Ballroom. Baltimore, Maryland on April 27,1969

Baltimore 1969
Duke Pearson Big Bnad
Uptown Jazz
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残り物を集めたバラエティセットは中には当たりも・・・

2015-02-10 | PEPPER ADAMS
New Time Shuffle / Stanley Turrentine

昔のアルバムがCDで再発される時にLP時代に未収録であった曲が追加されることは多い。別テイクをやたら数多く収めるのは時には如何な物か?と思うが、未発表曲が収められるのはファンとしては嬉しいものだ。

セッション全体がお蔵入りしていた場合は、新アルバムとしてのリリースとなる。ブルーノートやヴァーブなどメジャーレーベルでその数が多い場合は、それらのアルバム全体がシリーズ化された事もあった。
未発表セッションが特に多かったブルーノートの発掘は、残り物とはいえない素晴らしい演奏も多く当時大きく話題になったものだ。

それを手掛けたのが、プロデューサーのマイケル・マスクーナ。最初は新アルバム制作のプロデュースも行っていたが、1975年〜81年にかけてはブルーノートの発掘に注力していた。
その後は、モザイクレーベルを自ら設立し、こちらでもミュージシャン別にテーマを決めてボックスセットでの再発を行っている、業界の発掘王ともいえるリイシュープロデューサーだ。

このアルバムも、カスクーナのプロデュースによって未発表セッションが世に出たものである。スタンレータレンタインは当時から人気があったせいか、セッションそのものの回数も多く、未発表曲が人一倍多かった。
アレンジャーとして参加したデュークピアソンも再リリースを手伝ったが、タレンタインの場合はあまりに数が多く一度ベスト物を出した。CDになってさらに未発表曲が追加され、結果的に、このアルバムは1967年2月17日と6月23日の両日録音されたすべての曲が収録されている。
売れ残りを色々組み合わせたが、最後に残ったものを全部束にして売り出したといえばそれまでだが。

自分の場合は、特にスタンレータレンタインの熱烈ファンという訳ではない。
ペッパーアダムスのセッションを追いかけて最近入手したという事情に加え、この所、デュークピアソンがアレンジしたアルバムを多く聴いたせいもあり、それほど期待もせずに一曲目を聴く。

いきなり場末のキャバレーのバンドの歌のバックのような出だしで、タレンタインのテナーも変り映えはしない。やはり残り物だけの事はあるなと思い3曲続けて聴く。クランショのベースもエレベでR&Bバンドの感じ、ジョーザビヌルのタイトル曲も今一つ。

4曲目から少し雰囲気が変る。ここから6曲が、アダムスも加わった2月17日のセッション。同じ、ピアソンのアレンジだが少し雰囲気が違う。メンバーも違うが、アダムスを含むサックスの3人は当時のサドメルのオーケストラの3人だ。アンサンブルの厚いサウンドが心地よい。アレンジでもフルートやクラリネットに持ち替えてサドジョーンズ風の雰囲気が出ている所も。ボサノバではバッキーピザレリのギターが効果的だ。トランペットにドナルドバードも加わり短いソロも。アダムスは特にソロは無い。

バードとアダムスとは前年久々に再会してコンビを組んでライブを行ったが、この一連のピアソンのセッションでも良く一緒になっていた。また、2人で一緒にやろうかという雰囲気にもなったのか、久しぶりの録音は10月に実現する。これもお蔵入りしていたが。

結果的には、どんな曲でもこなすタレンタインに、色々なスタイルのアレンジを提供した、まとまりのないアルバムとなっている。反対に一枚で色々楽しめるという事にもなるが、スタンレータレンタインのプレーだけは、バックのメンバーが変っても、アレンジの雰囲気が変ってもマイペースだ。

ピアソンもこのようなバックのアレンジが続くのにはいささか閉口していたのだろう。思いっきりアレンジに腕を振るったビッグバンドを編成し、この録音の1週間後にはハーフノートでライブをスタートさせていた。

ペッパーアダムスは、サドメルのレギュラー活動に加え、このピアソンのビッグバンドにもレギュラーとして参加するようになった。このピアソンのビッグバンドの録音は12月に行われる。

皆、サイドメンとして参加をしながら、メンバー同士では色々と次の策を練っていた。

1. Return Of The Prodigal Son
2. Ain't No Mountain High Enough
3. New Time Shuffle
4. Blues For Del
5. Manha De Carnaval
6. Here's That Rainy Day
7. What Now, My Love
8. Night Song
9. Samba Do Aviao
10. She's A Carioca
11. Flying Jumbo (Prez Delight)
12. Bonita

<#1〜#3 & #10〜12>
Joe Shepley, Marvin Stamm (tp, flh)
Garnett Brown, Julian Priester (tb)
Al Gibbons (as, fl, bcl)
Stanley Turrentine (ts)
Joe Farrell (ts, fl)
Mario Rivera (bs)
McCoy Tyner (p)
Bob Cranshaw (b)
Ray Lucas (ds)
Duke Pearson (arranger)

Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, NJ, June 23, 1967

<#4〜#9>
Donald Byrd (tp)
Julian Priester (tb)
Jerry Dodgion (as, fl)
Stanley Turrentine (ts)
Joe Farrell (ts, fl)
Pepper Adams (bs, cl)
Kenny Barron (p)
Bucky Pizzarelli (g)
Ron Carter (b)
Mickey Roker (ds)

Duke Pearson (arranger)
Recorded at Rudy Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, NJ, February 17, 1967

Produced by Alfred Lion
Produced for release by Michael Cuscuna


ニュー・タイム・シャッフル+6
クリエーター情報なし
ユニバーサルミュージック
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