山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

ブラジル公演日記【6】

2009-02-26 23:28:06 | ブラジル公演2009.2
 サンパウロ市(聖市)へ。ブラジル最大都市。人口1,100万人。第4ステージ、最終公演の地である。
 今回のブラジル公演を主催してくれたニッケイ新聞社もここにあり、ホテルはバンリホテル、公演会場はブラジル日本文化福祉協会、いずれもリベルダーデ(東洋人・日本人街)が拠点となる。

 2月14日(土)

 ブラジルではサマータイム最後の日。つまり今日は一日25時間とのこと。明日より一時間遅れて時計を回さなければならない。初体験である。
 AM9:00にピラールの日本語学校を出発。走って生徒さんたちがバスを追っかけてくれる。まさか、サンパウロ市まで走ってくるのではないだろうか。それだけのパワーがあった。まるで映画のワンシーンのよう。いつまでもバスの中で手を振り続ける劇団員たち。

 午後2時頃、リベルダーデにあるブラジル日本文化福祉協会に到着する。幹線道路は6車線もある大きな道路であるが、この街は大型バス一台通るのにやっとの狭い道である。神業のように会場に横づける。ニッケイ新聞社のラウル社長と山根さんが迎えに来てくれる。
 劇団の荷物と個人の荷物を振り分け、近くにあるバンリホテルへチェックインする。ラウルさんより近くのブラジルバイキング料理レストランに案内してもらう。ここは重さで料金が設定される。みんな冷奴と間違えてチーズに醤油を垂らして食べる。うん?表情が固まる。
 
 移住者協会会長の小山さんの店(スポーツ店)を訪問する。軽い脳梗塞で暫く入院していたそうだ。お土産はジョニクロ。本人は飲めない。残酷だ。下見に来た際に本人様よりご指定の品物。
 「サンパウロ市の人々は舞台を見る目が肥えている。油断するなよ。」と言われる。熊本でも随分、言われた。ブーイングも容赦ないところだ。バッシングがあると立ち直れないらしい。ブロードウェーでもそうだが、ここにはその筋の評判屋が存在する。

 会場は文協の小ホールである。音響・照明の設備がない。通常は業者さんを雇って設置するそうだが、私たちは手作りの器具を持ち込んだ。日本の「小劇場」らしいニュアンスを持って来たかったからだ。
 座長たちで窓の遮光作業に取り掛かった。これには相当に手間取るだろうと思っていたが、意外と合理的に運ぶ。照明が暗い。明日は電球を仕入れて、もっと明るくしようと思っていたが、ニッケイ新聞社のビデオ記録を担当して下さる方から、ビデオの照明500W2本を両サイドから照らすことにより、問題解決となる。
 いずれにしても天井からの吊りが不可能なため、簡易スタンドと転がし(フットライト)をメインに照明を設置する。明かりをいれると私好みの「アングラ」舞台になる。

 夜はホテル隣の和風レストランにて交流食事界をセッッティングしてもらった。入場整理券300枚は全て完売。見に来れない方からの問い合わせもたくさんあるようである。気を引き締めて飲む。すっかりピンガが染みてしまった。

 2月15日(日)

 午前中は仕込み作業とリハーサル1本。上手からの出ハケ(入退場)に問題が生じ、下手からの出ハケ中心に変える。臨機応変にも慣れて来た。
 12時頃よりお客さんが集まり始めた。サマータイムのまま来られたお客さんもいる。早めにに来られたお客さんの中に国際交流基金ブラジル支部の西田さんもいた。今回のブラジル公演に際して心配をかけたお一人である。国際交流基金からの助成金をもらえなかったことで随分、心を痛められた方。実績のない無名な集団である。熊本県からの助成金を頂けただけでも奇跡だと思っている。

 さて本番。午後2時スタート。最終公演である。第4ステージ。
 着物の着付けがおかしい。日本文化の伝承に誤解が生じるのではないか?・・・船(笠戸丸)の中での実際にあった人質事件を宴会芸にしてしまったところは茶化しすぎではないか、等の批判的な意見もあった。全くストレートな感想が頂けて嬉しくもある。
 史実にどこまで迫ることができるか、について。演劇の虚構性と史実を織り交ぜる劇である。一歩間違うと危険なことになる。そこを見抜いて批判は出たのであろう。が、反面、その奇抜さを支持して下さった方もおられた。
 「熊本から出てきて、どんな田舎芝居をやるのだろうかと心配していましたが、斬新的で都会的。今の日本の新しい演劇を感じられた。」と絶賛する方もいた。
 劇団1980や維新派とも交流もありアートディレクターのクスノさんである。初期の天井桟敷(寺山修司の主宰した劇団)にも在籍されたこともある方でJAシーザーさんとも親交が深い方。サンパウロには色々な方がいる。

 終演はラウル社長にも舞台に上がってもらった。ブラジル公演を実現できた大きな力になってくれた方である。劇団笠戸丸の親分である。安永ファミリーと共にどのくらい心配したことだろう。計り知れない。
 お客さんとの熱い握手と涙の別れの連続である。一生忘れることはできないだろう。これでブラジル公演が最後のステージだと思うと、これまでの緊張感が溶けてなくなりそうである。
 今日は一日中、雨。足元の悪い中、ご来場頂いたお客様に感謝申し上げます。
 
 どの会場も満席だった。劇を見られる前から、どんな思いで足を運ばれたのか。私たちが遠い国へやって来たと思っていることとは反対に、ここで身近な日本を感じることになった。私たちは情報としての日系社会ではなく、ナマの日系社会を体験してきたのだとつくづく思う。人とのつながりである。

 夜は熊本県人会館にて交流会をしてもらう。まさに、ブラジルに来て地元を味わう。不思議だ。ここには熊本がある。
 「お帰りなさい。」と言われた。
 3世、4世の時代になって来て、日本の地方の名のつく県人会も意識が薄められてきていると聞いた。だからこその県人会だとも思う。
 ここにきて、ナショナリズムに燃えそうにもなった。インターナショナルって何だったけ。時々、忘れそうになるのである。

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