山南ノート4【劇団夢桟敷】

山南ノート4冊目(2008.10.3~)
劇団夢桟敷の活動や個人のことなどのメモとして公開中。

ブラジル公演日記【1】

2009-02-21 23:53:35 | ブラジル公演2009.2
 あれもこれも書き残しておきたい。そう思えるブラジル公演でありました。

 序
 
 2008年1月にユニットを結成し、その年の4月「ボクノフルサト。」熊本公演は、ブラジルでの公演が実現するとは夢にも思っていなかった。
 ブラジル移民百周年を記念しての演劇公演ではあったが、制作予算の目途はなく、「小劇場」ならではの手作り感覚で立ち上げたユニット劇団である。
 行政主導の企画ではなく、自発的企画である。当然、援助金などは出ないと思い込んだ。だが、公演会場である熊本市国際交流会館の自主文化事業として扱われ、結果、「公」と協力関係ができた。
 「ブラジル移民100周年記念事業・熊本」の実行委員会に所属していた力も働いていた。 
 
 3年前にユネスコの活動や高校生国際ボランティアで奔走されていた榊定信先生から「ブラジル移民劇」をやらないか、と誘われた時は、「面倒なことには巻き込まれたくない!」と逃げ惑っていたのが実情です。
 榊先生が2年前に亡くなり、一昨年の5月に清田さん(日本みどりの会)から「移民劇」の話を持ちかけられ、衝撃のタイミングで弔い公演を決意。お世話になった故人との因縁は私のみならず作者の田中瞳さん(通称、みんみん)にも言えた。
 
 集まって来たのは学生たちだった。大丈夫だろうか?ホンネを言うと演劇の基本的な考えも経験もない者たちに不安もあった。
 劇団夢桟敷のメンバーも総出で立ち向かうしかない。だが、座長=夢現は脚本を読んでから出演を決める、と慎重な構え。裏返せば脚本がダメだったら出演は拒否の構えである。夢桟敷を説得するのに時間はかかった。
 ユニットの気楽さ「縛られない自由さ」に疑問を持っている者もいた。

 脚本の構成に徹夜することもあった。乗る気でない夢現が常に立ち会っていた。初演出の田中幸太も異が痛くなるほど、稽古場に違和感を覚えていた時期もあった。
 学生サークルのノリにうんざりしていた。私は田中幸太に渇を入れるばかり。稽古終了後は彼と酒を飲むことが多くなり、ある意味、演出者としての結束が固まっていった。
 稽古場ではギクシャクとした空気が流れる。夢桟敷派とのギャップだろうか。辛い涙を流した女性もあった。女は扱い難いとも思った。「男になれ!」。・・・学芸会のようにも見えて気持ち悪くなる日々が続いた。ユニットとは言え、劇団なんだよ。心の底から学校演劇(教育演劇)を打ち消していた。「小劇場」を経験させたかった。演劇は自由の不自由さとの戦いでもある。舞台に立つ意味から出発する。初歩的なことを繰り返していたのである。
 年頃の男女。くっついたり離れたり・・・。君たちは何をしに来ているのだ。そんな空気がよどんでいた。

 (中略。・・・問題点を記しておきたいのは、劇作りは人間の有様が集団として現れ易いことと、容易ではないことを提起しておきたいからだった。表面的なきれいごとでオブラートに包み込むと、逆に無残である。)

 熊本公演を見られたブラジルからのお客さんにニッケイ新聞社の高木ラウル社長と移住者協会会長の小山さんからブラジル公演の話を持ちかけられる。日本みどりの会からも後押しされる。だが、お金はない。20名で行くとなると制作予算は如何ほどになるか、私にとって天文学的な数字が頭の中を過ぎっていた。

 昨年(2008年)8月末~9月10日までブラジル公演下見にみんみんと二人で出かける。サンパウロを拠点にラウル社長と小山会長にお世話になりながら、弓場農場劇場、プロミッソン市(上塚周平の開拓した植民地。移民の父と言われる熊本県城南町出身の人物)、ピラールドスール日本語学校などを訪問する。サンパウロ州2000kmの旅。
 
 上塚周平の墓参りに行った時、ブラジル公演の必然を感じた。この劇はブラジルで公演して価値が見えると思った。特に墓守をしている安永ファミリーに出会えたことがブラジル公演を身近に感じた。
 現実として迫られる。お墓を目の前にして涙が流れた。上塚先生の背後には無数の名もなき移民の苦難や死が感じられた。言葉では言い表せないものである。
 幼い頃に「事務所のおじさん=上塚周平先生」と接している安永のおじいちゃんには是非見てもらいたい、と思った。おじいちゃんも個人ではなく、移民の多くのものを背負っておられる。
 ブラジルの日系の人々から重く、おおらかに、大きな笑顔に私たちは包み込まれる。

 ブラジル公演を実現しよう!・・・半端な集団ではダメだ。何もかも見抜かれる鋭い視線とやさしさがブラジルにはある。ストレートな文化がここにある。

 大幅に脚本を改訂しての構成劇となる。
 熊本県からの経済的な援助(くまもとファンド21)もあり、劇団員たちの自己負担金を合わせて、必要経費の半分くらいは目途が立っていた。企業からの協賛金は厳しい状況ではあったが、個人からの寄付金が予想以上に集まる。感謝の念。

 各会場の担当者も決定し、能力に応じて集団的な力も見えてきた。
 若者には若者でしかやれないことがある。そう信じながら稽古と制作作業が続いた。・・・ブレーキのかかる稽古は少なくなった。
 私はマナミーこと東田さんをマークした。彼女を女優にしたかったのである。最年少の彼女の表情が乏しかったからである。・・・変わった。彼女が進化するのを見て周りも変わった。
 集団は一筋縄ではないが、確実に進化したと思った。

 ☆

 さて、旅日記である。
 日本では冬。ブラジルで解凍されることとなる。夏なのだ。
 解凍の公演日記につづく。
 不定期・不連続の旅公演を綴ります。

 (注)写真については後日、編集して新たなページで公開予定です。

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