植物によるがん治療のお手伝い 聡哲鍼灸院日記

植物で心身を癒す施術の日々。そこから感じたこと、学んだことなど。。。

『ダライ・ラマ自伝』

2007年06月25日 00時22分30秒 | 癌・病気の意味
『ダライ・ラマ自伝』(ダライ・ラマ著、山際素男訳、文春文庫)を読み終えた。
 中国によるチベット圧制の様子がよく分かる。事実とすれば大変なことである。

 それにもかかわらずダライ・ラマが赦しの心で接しようとするところに救いを感じる。私もそれに倣いたい。以下、心に残った文章をあげる。

「この苦しみは無知によって引き起こされており、人は己の幸せと満足を得んがため他者に苦痛を与えているのだと固く信じている。しかし真の幸せは心の平安と充足感から生まれるものであり、それは愛他主義、愛情と慈悲心を培い、そして怒り、自己本位、貪欲といったものを次々と根絶してゆくことによって獲得できるものなのだ。

 ある人々には、これは無邪気すぎるように聞こえるかもしれないが、その人に言いたい。どんな世界から私達が生まれてこようと、根本的に我々は同じ人間なのだ、と。私たちはすべては幸せを求め、苦痛を避けたいと思っている。我々の基本的要求と関心は同じなのだ。さらに、私たちはすべては自由を欲し、個人として己の運命を決定する権利を求めているのだ。これが人間性というものである。(中略)

 と同時に、今日われわれが直面している諸問題、武力衝突、自然破壊、貧困、飢えその他諸々は、ほとんど人間が作り出しているのだということを忘れてはならない。それらはきっと解決しうる。だがそれは人間的努力、相互理解、兄弟姉妹感を育てることによってのみ可能なのだ。これを成し遂げるには、善意と自覚に立ってお互いに対する、そしてわれわれが共有する地球への普遍的責任感を深めてゆかねばならない」

→そう思う。そのためには人は“輪廻転生する魂である”と認識することが助けになるのではないか?というのはもし自分が再生するとはっきり自覚すれば、将来自分が生まれていく環境が今より悪化している所には行きたくないと思うだろうから。

 “孫子のために”というよりも“自分のために”なるというふうに腑に落ちれば、小林正観氏の言う“究極の損得勘定”じゃないけど、この星を住みやすくするという行為により熱意がこもるのではないか?

「愛と慈悲の心を育ててゆく上で、私にとっては仏教が役立っているが、愛や慈悲といった資質は、宗教があってもなくても誰にでも深めてゆけるものだと確信している。そして私はさらに、すべての宗教はみな同じ目標、善なるものを培い、すべての人間に幸せをもたらす、という共通の目標を追求していると信じている。方法こそ違っているように見えても目標は同じなのだ。

 私達の生活に、科学がますます大きな影響を及ぼすにつれ、宗教と精神性もまた私達の人間性を考えさせるうえでいっそう大きな役割りを担ってきている。両者の間に矛盾は無い。どちらも互いへの貴重な洞察をもたらしてくれる。科学と仏陀の教えはともに、すべてのものの基本的合一性をわたしたちに告げているのだ」

→鈴木秀子先生が臨死体験された時に「この世で大事なことは愛することと知ることですと諭されました」と書いていた。(『A・NO・YO』(新潮45、江原啓之編集、新潮社)
知ること=科学=左脳=顕在、愛すること=精神性=右脳=潜在… それと繋がるなぁ。

そして私の今生での名は“聡哲”。“聡”は智慧、科学、知ること…、“哲”は愛情、精神性…を意味し、両者の統合、橋渡しが僕の役割りの一つと考えていることもあり、このへんのダライ・ラマの話には深く共感する。

また、別のところで「人間には物質面、精神面両方の発展が必要である」旨の発言があり、この点も今更ながら再認識させられた。人は“物質”も魂の成長の道具として使えばいいのだ、と。ややもすると自分の中に“物”を軽んじる傾向があるから。

さらに「わたしは半マルキシスト的人間だといったが、もし実際に選挙で一票を投じるとすれば環境保護に熱心な党に入れたい。最近の世界における最も建設的進展の一つは自然の大切さへのいっそうの自覚である。そこには宗教とか神聖さなどといったものは介在しない。われわれの惑星を大切にするのは、我が家を大事にするのと同じだ」という文章に触れてとても嬉しかったな。

コメント (2)
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