年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

藤岡屋日記 第29 珍話 嘉永3年1850

2021年03月17日 | 福神漬
高野長英の嘉永3年の死の直前の江戸潜伏を助けた、4名が嘉永3年12月27日に遠山左衛門尉(南町奉行・遠山の金さん)によって、御白州で判決を申し渡された。流罪の4名のうち、水野大監物家来松下寿酔は裁判の途中で獄中で病死していて(藤岡屋日記)、存命ならば遠島という裁きだった。内田弥太郎の親族だった宮野信四郎は新島村史資料編②流人史に記述があって、流罪の判決後嘉永4年4月に江戸から流人船で伊豆七島の新島に付き、明治元年12月23日に御赦免となっている。
水野大堅物 家来 寿酔倅 松下健次 遠島
 鈴木春山に依頼され、父寿酔に相談の上、ひで外一人に相談の上、匿った。不届きにつき遠島。
御賄新組 清吉祖母 ひで
 逃亡者と知りながら、寿酔に頼まれ、伊之助外一人店へのため、隠し起き、届け出せず,不届きにつき、遠島を申し付ける。 
 作家の吉村昭の本(長英逃亡)では、最後の江戸潜伏の中心的役割を果たした、内田弥太郎が連座を免れたのは奇跡だったと小説では書かれていた。多くの高野長英の研究本とか小説で長英逃亡を助けて流罪となった人はお家断絶と書かれているが少なくとも宮野家は断絶では無い様だ。この件は福神漬の資料調査から調べると奇跡でもなく、当時の幕閣首脳部の苦心の御裁きだった気がする。老中の阿部伊勢守、南町奉行遠山左衛門尉、留守居役筒井政憲の間で嘉永3年の年末の行動から推測できる。
 内田弥太郎を処分しなかった理由の文獻は残っていないが当時はこの3人で天保の改革で株仲間が禁止され、その禁止による不都合なことから、一部の株仲間の復活を打ち合せていたし、異国船が日本各地で目撃され、水や燃料・野菜を求めて上陸したり、沖合で秘かに武士以外の人たちと交流が噂されていた。そのため日本に近づかないように、再度異国船打ち払い令の復活の是非を検討している時期でもあった。
 築地市場の移転問題で、古い築地の商慣行は何処から来ているかと調べるとやはり株仲間再興の時からと考えていた方が良いと思っていた。今の令和の時代で江戸時代の名残のある制度は相撲の茶屋制度と築地・豊洲市場の仲卸制度かも知れない。豊洲へ移転しても新しい取引規則の慣行や規則が生まれているようだ。(マスクの着用・ごみの分別等)


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