明治28年10月の終わりに、台湾で戊辰戦争で逆賊扱いさてた反官軍の頭と一時なった輪王寺宮が維新後に投降し、謹慎後に北白川宮能久親王となり、日清戦争の終わりに台湾の掃蕩戦に従事し、戦病死した。この人を九段下の昭和館図書館で検索すると、戦前の教科書・修身という所に名前が出て来る。
尋常小學修身書 巻一~巻六 文部省
4巻の所に能久親王(よしひさしんのう)がある。多分4年生の教科書と思われる。
明治28年5月台湾の賊軍御征伐をなさるため、かの地にお渡りとなりました。お着きになってもお休みになるような家がないので、砂の上に幕を張り、粗末な椅子を置いて、御座所としました。
また御自身は、サツマイモを蒸し焼きを差し上げました。それからだんだん軍をお進めになりましたが、兵士とともに大そう御難儀となされ御病気におなりになっても、少しもおいといなされず、お指図なさいました。
賊はたいてい平らぎましたが、南の方にまだいくらかの賊がいましてその方にお進みました。そのうち又御病気に御罹りになさいました。軍医は(おとどまりになって御病気をしばしお鎮めるように)と申し上げましたが、親王は『我が身のために国の事をおろそかにすることは出来ぬ。息のある限り続ける。』と仰せられ、お進みなされました。親王は窮屈なかごに乘ってお進みなさいました。親王はかように国のためお尽くしになりましたが、御病気が重くなって、間もなく御隠れになりました。
おいといという言葉は休むということか。
御隠れ 亡くなったこと
北白川宮能久親王は戊辰戦争時の彰義隊に担がれた輪王寺宮で仙台で投降し、京都で蟄居の後、北白川家を継いだ。今から思うと明治政府にとって厄介な行動をする人物で、その評伝の書き方が戦前では難しかったと思う。今の歴史家が時期によって北白川宮の史実をゆがめていたり、森鴎外の様にドイツ留学中にドイツ人女性と婚約騒動も意図的に消されたり、一時新居を造っている時、寛永寺に一時滞在したことをさりげなく記述している。その行動は一時逆臣となった人生でさらに明治陸軍の上司に有栖川宮熾仁親王がいて、明治28年1月に有栖川宮が死去するまで、北白川宮(大阪第四師団長)を監視していたと感じる。日清戦争中で有栖川宮に代わって、上官となったのが小松宮彰仁親王で明治維新の鳥羽伏見の戦いの日(明治元年〈1868〉1月4日)仁和寺いた宮が還俗し、明治天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を授けられ、新政府軍として東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。錦の御旗の前に、旧幕府軍は大阪へ敗走したのです。伏見宮邦家親王の第9皇子が北白川宮で、兄となる第8皇子が 小松宮でした。従って上野の動物園前の銅像が小松宮より北白川宮の方が銅像の位置として歴史的にはふさわしいいのだが小松宮の台東区教育委員会の説明板も設置位置の経緯不明となっている。
有栖川宮熾仁親王が17歳のときに皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。禁門の変ののち失脚。王政復古後は新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督に就任して、江戸城を無血開城させました。
この時の幕府(和宮)上野寛永寺の輪王寺宮との交渉状況は公武合体の遺恨の様に感じます。
また台湾での北白川宮の死去時の情報隠しで、多くの死の謎が生まれました。当時の朝日新聞を読むと10月28日にはまだ重病中で、日本へ治療のため船で向かったという記事があります。実際は台湾で死去時の情報隠しで、横須賀に到着した時に死去ということのようです。
修身の教科書から、国の戦争では皇族も兵士も同じ扱いをするという意図を感じる。実際は日清戦争(広義の)では朝鮮半島・中国での戦闘と戦病死者数より台湾征討戦での戦病死者数の方がはるかに多い。
大正の修身の教科書で木口小平がカタカナで戦死の状況が記述されている。死んでもラッパを離しません を小学生低学年の児童が暗記させられたと思う。
高学年の修身には教育勅語があって、暗記させられたのでしょうか。