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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

15年前の記憶の取戻しで池之端から本郷を歩く

2024年03月24日 | 宅老のグチ
池之端仲町の守田宝丹から不忍池の弁天堂へ行く。池の中心に島があるのだが、参道というべき所に、寛永寺の敷地という立札があった。
 15年前、不忍池弁天堂を訪問し、了翁禅師の石碑の所在地をそこでで働いていた僧都の人に聞いたところ、ここは天台宗で禅師はいないと言われた。福神漬の命名伝説で駒込学園(中学・高校)は、天和2年(1682年)に了翁禅師によって上野・寛永寺境内の不忍池のほとりに創立されました。当時は、「勧学講院」と呼ばれ、お寺の子弟のほかにも大勢の町人の子供たちが通っていました。(駒込学園の教育理念より)
  了翁禅師は秋田湯沢の出身で、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の禅宗寺院「萬福寺」で修業したため了翁禅師と言われている。勧学講院の学僧の食事の野菜くずを漬物にしたので福神漬の始まりと、歴代の駒込学園の校長は生徒に話しているようだ。
 弁天堂を通過し、対岸というべき所にある横山大観記念館へ行く。ここも15年前に訪問し、記念館の敷地の所有状況を聞いた。どうも記念館で訪問者が土地所有の件で質問するということは無かったようだ。
清親考 小林 哥津著 -- 素面の会 -- 1975
 福神漬の証言者の鶯亭金升が仁科家の令嬢と結婚した時の仲人が小林清親だった。彼が結婚後の住まいとしたのは池之端御前と言われた福地桜痴(源一郎)の所有の家で、今の横山大観記念館の位置付近となっている。福地の経営する東京日日新聞が経営不振となって隣地に住んでいた日本郵船重役浅田正文(鶯亭金升日記では朝田正文)によって、火除け地として買収された。浅田正文が明治末に死去した後、大正の地券(土地所有)の記録では横山秀麿となった。この件で大観記念館の人に聞くと、びっくりしたようで、福神漬の歴史を調べていると話すとまた驚いていた。学芸員の話だと南面の庭のところが福地桜痴の地所で茶室があったという。大観記念館は台東区だが隣の道は文京区で森鴎外の小説(雁)の主人公の家にあたる。設定が明治13年頃で、岩崎家はまだ茅町には無かった。当時の様子はうら寂しい所だったという。
 旧岩崎邸庭園を見学後、無縁坂から三菱資料館へ行く。ここには三菱の歴史がある。明治の初めに三菱が南茅場町に東京の本拠地を設けたが、社史では住所が南茅場町16番地となっていて、中央区京橋図書館郷土資料室の明治10年の土地台帳では清酒白雪の関係者が持ち主となっていて、三菱の記録と合致していなかった。三菱では東京の発足が明治6年頃となっていた。このあたりの三菱資料館の展示では住所が消えていた。日本郵船歴史資料館から来た回答でこの件で再調査となっている。どうも記録で三菱の住所が南茅場町16・17・18番地と書いてある書類があるという。頻繁に本社所在地を変える必要性がないので、誤記の可能性と所有者名隠しもあったかもしれない。
 三菱資料館を出て、大江戸線本郷3丁目へ向かう。途中に女性の像があって、見ると春日局だった。通りの名前が春日通りで麟祥院という曹洞宗の寺院でどことなく品川の東海寺に雰囲気が似ている。
 寺を出て間も無く、本富士警察署にあった。この付近から富士山が見えたのかと思って、家に帰って調べると本郷の富士山が戦後まであった。東大赤門付近に富士信仰の山があって、東大経済学部の新設工事で富士山が消えた。1964年のようだ。この時期は東京オリンピック工事の時代でドンドン昔の風景が消えた。
 どっかの東大のゼミの先生が「由緒ある椿山はすでに影も形もなく」なっている。ここで言う「椿山」は、本郷の富士山の明治時代以降の通称であり、すなわち同じ山を指す。以下、江戸時代との関連では「本郷の富士山」ないしは「富士山」、明治時代から1964年の時期との関連では主に「椿山」の呼称を用いる。
 このようなことから、警察署の名前に富士山信仰があったことの痕跡となる。春日の地名が徳川三代将軍乳母の春日局の由来とは歩いて知った。
 地下鉄大江戸線本郷3丁目駅の入り口が変に引っ込んでいる。いずれ春日通りが拡張となる気がする。15年で多くの木造家屋が消えた。都心の木造家屋はは伝統的な仕事をしている人たちの家と推測できる。






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