年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日本のシルクロ-ドの横浜正金銀行で

2023年07月31日 | 宅老のグチ
かってJR桜木町からほんの数分で行ける所に横浜正金銀行という外貨交換の業務を行っていた銀行があった。その後に銀行名が東京銀行から三菱銀行と統合となり今では三菱UFJ銀行となっている。この横浜正金銀行の周囲は金融機関の集積地でかっての貿易決済業務の名残を感じる。
 今は横浜正金銀行の建物が修復され神奈川県立歴史博物館となっている。関東大震災100年の特別展を見た後、JR桜木町で昔の日本が鉄道開業したのが新橋横浜と言われていたが、実際は東京は今の汐留で横浜は桜木町駅だった。汐留には旧新橋停車場 鉄道歴史展示室があるが桜木町の記念施設の存在(桜木町駅鉄道歴史展示ギャラリー)は知っていたが35度を超す暑さで、次回の横浜での映画鑑賞後に探してみたいと思い、駅の南端のICカードでしか改札を入れない入り口から入る。プラットフォ―ムに着くと入庫の電車があって、行き先表示が八王子駅だった。これが鉄道での絹の道であることを思い出した。八王子から八高線に乗り換えて高崎まで行く。世界遺産となった富岡製糸場への鉄道の道でもある。
 横浜線の途中の町田に自由民権運動の資料館がある。ここの展示物で横浜と群馬を結ぶ絹の道で自由の思想も伝わったという。
 八王子駅で先日舟木一夫芸能生活60周年コンサ-トで、駅南口のサザンスカイタワ-3階に八王子絹の道記念館があることを知った。どうやら八王子では桑都日本遺産と称している様だ。八王子が繊維工業から没落したのは関東大震災で震災の被害と得意先の日本橋繊維業界が壊滅したこともある。震災後に無傷だった関西の繊維業者によって関東も席巻されたと(べったら市)の調査資料で知った。その関西も先の戦争で打撃を受けたようだ。
 蚕  -絹糸を吐く虫と日本人-畑中 章宏著
上記の本の前書きで日本の養蚕が最も盛んな時は昭和の初めで日本の農家の40%が蚕を飼っていた。桑畑の面積が大正11年の記録で全畑地の48.9%、昭和5年には繭の生産量39..9万トン、生糸、蚕種、絹織物は重要な輸出品目だった。今でも天皇陛下が皇居内で養蚕をしている。漬物の漬という漢字が戦後に当用漢字から外れ、やっと常用漢字となり、ス―パ-で常用漢字となるまで店内の表示が(つけ物)となっている時期があった。その時に当用漢字の中に(蚕)言う文字を見て使用頻度が少ないのに不思議な感覚があった。明治以後の富国強兵のための貴重な外貨を獲得していた養蚕業の漢字は戦後にも外せなかったと思われる。今でも絹の靴下はあるのだろうか。特攻隊員のマフラ-はは絹と言われている。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする