年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

大正期のべったら市

2006年09月15日 | べったら市
大正期のべったら市
明治の終わり頃になると東京の市内の、現在の状態で言うと山の手線内の東京市営路面電車網が完成し、江戸時代から続いていた徒歩通勤しかなかった労働者、つまり殆どが住み込みの労働者から、郊外に住居を構え路面電車で通うことが増えてきた。
 練馬が大根の栽培に力を入れたのは、大正期である。首都東京へ人口の集中は,北豊島郡の東部地域の田畑を工場や住居に変えた。
このことは練馬区教育委員会発行の新版“練馬大根”記述されている。
 大正7年刊(北豊島郡誌)より
 近時帝都膨張の影響を受けて、市部接壌のちは多く市街に化し、南千住町並びに巣鴨町をはじめ、王子町、西巣鴨町、滝野川町、日暮里町、高田村、板橋町、岩淵町、三河島村及び尾久村等に在りては、農業が年をおって衰退し、或いはすでに全く農作地を耕さざるものあり、今や純然たる農村は郡の西部なる石神井、大泉、上・下練馬、赤塚、志村、上板橋、中新井、長崎等の諸村に耕作地を見るのみである。
 東京市の蔬菜の供給地として練馬の大根の名声は確立した。と同時にべったら市に於いて練馬産の大根がブランドとして確立し、戦後板橋区から分離して練馬区が23区目になった時、区名の決める時すんなりと(練馬大根で全国に知れていたので)練馬となったといわれる。練馬農業協同組合史より。
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