年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 大正6年

2006年09月24日 | べったら市
大正6年
大正6年(1917)9月30日に東日本を襲った台風は駿河湾から上陸した大型台風で列島を縦断し、東京にも高潮が襲うなどして、死者・行方不明1300人以上出した。
 この水害で東京の日用品の物価が騰貴し、警視庁の物価に対する干渉が厳しかった。漬物組合は「小売標準値段表」を印刷し組合員に配布した。
 一方、社会情勢は欧州における戦争「第一次大戦」がいつ終わるか見通しがつかず、わが国の商工業は益々発展し、諸物価は高騰していった。食品業界は品不足のため騰貴し、また交戦国に向けて輸出される物品の価格は甚だしい暴騰であった
  漬物類は他の商品に比べて騰貴率は低かったが、夏期雨量が少なく原料が不作のところへ、9月末の台風で野菜類が皆無となり、前代未聞の暴騰相場となり、数年来の不良在庫となっていた漬物まで売り切れ、業界の黄金時代となった。

大正6年10月20日都新聞
べったら市
浅漬は不出来
もう今年もべったら市となった。昨日は夕方から小伝馬町あたりの店の地割が出来電車の警戒もでき、その筋の警戒も厳重に出来行き届いていた。しかし、日が暮れて8時頃になっても人出は少なく9時になってようやく電車通りは込み合ってきた。それでも電車を止めるということにはならず、横町は梅花亭の切山椒が人の山を築いている位でこれでもたいしたことではない。祖師堂にはいつもの見世物小屋もなく高野堂にわずかに小人形の芝居ごっこをやっているのに子守が立って見ている位なものだった。
名物の浅漬は人形町通りにことに並んで客を呼んでいるが売れ行きは思いのほか少ない。浅漬大根は嵐のためか一向に太いのが少ない、値段は大きいのが2本縛り35銭が言い値で20銭位で手打ちしていたらしい。べったら市の売物としてなくてはならない戎棚の見世はチラホラ見えたがまるで買っている人は見かけない。しかし夜12時頃までザワついていた。

コメント
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