年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市と明治の都市計画

2006年09月10日 | べったら市
べったら市と明治政府の都市計画
明治政府の新首都「東京」は不平等条約改正をするために西欧並みの近代国家の首都としての体裁を整える必要があった。明治初期には欧風化政策のために「銀座煉瓦街計画」や霞ヶ関「官庁集中計画」がつくられたが明治20年頃の東京には狭い道路・密集する木造家屋・上下水道の不備等の欠点をもつ江戸以来の町並みが残っており、コレラ・ペスト等の伝染病の予防・大火の防止のために早急に整備されるべき問題も集積していた。不衛生でゴミゴミしていた首都の中心にあった京橋大根河岸青物市場・日本橋魚河岸市場移転計画も入っていた。明治政府は本格的な都市改造「市区改正事業」を1888年(明治21年)から行い東京市中心・周辺のインフラ整備を行い、着々と道路・橋の整備や、住民の足となる路面電車等の交通網を整備していった。東京の市区改正事業は大正まで続き、予算の6割が道路等に、2割が上下水道に使われました。
日本橋本町通りは拡張されず、馬車鉄道時代は本町通りを片道通行で通っていたが今の江戸通りが拡張され市電が通行し、反対に本町通りは寂れていき江戸時代からの大店であった本町通りの大丸呉服店は閉店せざるを得なかった。
 また鎧(よろい)橋(日本橋川・東京都中央区兜町にある東京証券取引所付近の橋)の架橋と明治5年の水天宮の移転によって人形町付近が発展し、べったら市が堀留・人形町方面に広がった。さらに路面電車の交通網の整備で東京屈指の繁華街となり、一級の商業地となった。また明治20年代後半から堀留・人形町の街に織物問屋が多数集合し、商家の祭りである恵比寿講が盛んとなりその前日のべったら市が賑わっていた。明治の終わり頃には商家の恵比寿講がすたれてもべったら市が賑わった。

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