年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 大根の品種改良②三浦大根

2006年09月18日 | べったら市
三浦大根
1630年 新編相模風土記稿によると
「物産に鼠大根を載す。里人は高円坊大根と称す」と記載している。
三浦は江戸湾口にあって幕府天領となっていて船舶取締の海関が設けられ、船奉行が置かれた。江戸の発展と共に消費地である江戸へ魚類の供給に押し送り船(海の貨物急行便)が仕立てられた。(初物のカツオを運んだ。)
三浦から江戸へ魚が運ばれたのは正保(1644-47)頃からで寛文の頃には三浦の各所から江戸へ魚が送られた。
三浦大根は高円坊大根と練馬大根を交雑して明治35年に神奈川県三浦郡農会の鈴木寿一氏によって作られたダイコンである。鈴木寿一氏は日本橋のべったら市の大根の価格に刺激されて研究したと思われる。三浦と日本橋魚河岸は毎日情報交換していたのである。三浦半島の農業は明治に入ると横須賀の陸海軍基地の安定した需要が発生し、野菜の品種改良や増産が行われた。しかし、牛馬しかなかった輸送ではゆっくりとしか発展しなかった。
目で見る三浦市史より
1695年(元禄8年)三崎一割船が始まる。これに肴荷を積み江戸へ運ぶ。
1875年(明治8年)押し送り船で鮮魚と野菜を京浜地区に輸送。
1881年(明治14年)汽船で東京へ魚を輸送。
1907年(明治40年)押し送り船に代わって発動機船で魚商の自家用船として活動する。
大根の輸送
1841年(天保12年)相模風土記の記録
明治40年(1907年)船による東京出荷。
明治の中頃から東京―三崎間の汽船の様子は朝8時に東京を出航し午後1時に三崎に到着する。夜10時に三崎を出航し午前3時に東京に着く。積荷は魚が多く、日本橋の魚河岸の市の時間に合わせたのだろうか。
大正8年(1919年)自動車による東京出荷。

大正14年(1925年)三浦大根と命名。ブランドの確立。
京橋大根河岸青果市場の昭和10年2月、最後の時のダイコンは三浦ダイコンであった。
昭和45年(1970年)国の大根の指定産地となる。
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