山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

「おしんの里」旧栃窪集落は「平家の落人の里」。おしんの伊勢居住は、約千年を経ての里帰りとなった。

2013-11-15 19:20:52 | Weblog

  「おしんの里」旧栃窪集落の全景・(1957)昭和32年4月29日撮影

「おしんの里」旧栃窪集落には、「平家の落人の里」の伝説が語り継がれてきている。
9世紀末、出羽に下向し、「元慶の乱」平定後の秋田城司となった清原令望が出羽清原氏の祖となる。
出羽(秋田・山形)を統治する清原氏が、坂東平氏の流れ筋から後継ぎ養子を取ったことで、12世紀頃に出羽国は(全国66ヶ国の内の)平家所領地に数えられている。
このような中で源平合戦に敗退した平家の落ち武者一族が、(平家所領地の)出羽国を頼って落ち延びてきたのではと推察する。
やがて源氏方の大江氏(広元子息)が、寒河江・長井荘の地頭となったことから、名を隠し奥の山間地に潜む生活を余儀なくされたものであろう。
第50代桓武天皇からの臣籍降下に始まる「桓武平氏」をたどると、
桓武天皇-葛原親王(桓武平氏の祖)-高見王-平高望(坂東平氏の祖)-平国香-平貞盛-平維衡(伊勢平氏の祖)-正度-正衡-正盛-忠盛-平清盛-宗盛(1185.壇ノ浦の戦いで平氏滅亡)となる。
この平家の落人集落(栃窪)で、約700年の歴史を生き延びて誕生したのが、おしんこと「谷村しん」(1901.3出生)と言うことになる。
そして、さらに約200年ほど遡り、平維衡(伊勢平氏の祖、6代目子孫が平清盛)の伊勢地方に舞い戻る「おしん」の人生ドラマとなっているのである。
おしんの伊勢地方居住は、約千年を経ての平氏(落人子孫)の里帰りとなった。
はたして、原作者の橋田やNHKスタッフが、「おしん」のシナリオハンティング(1982.3.26~山形取材)、ドラマフレーム作り合宿(1982.4.~)で、おしんと平家にまつわる筋立てまで付き合せた結果なのかは解からないが、「おしんの里」栃窪集落と平家の落人との関係は大筋史実と見られる。
既載しているが、おしんが奉公する酒田の米問屋・加賀屋は、旧鐙屋がモデルとされ、映画でもロケ使用されたものだが、源氏(1189.頼朝の奥州出兵)に滅ぼされた奥州藤原氏の遺臣36人が酒田湊に落ち延びて「酒田36人衆」と称し、廻船問屋などを営み現在に至っている。
ともに源氏に追われた、落人集落に生まれた「おしん」と奥州藤原氏の遺臣系譜・鐙屋モデルの「加賀屋」との約700余年のちの出会いも、偶然なのかよく出来ているものだと感心してしまう。
写真は、古老S氏が56年前に撮影した貴重な栃窪集落の全景を写したものである。
茅葺の立派な家々が40数戸建ち並んでいる。昭和46年11月、集団集落移転で廃村となった。
初めて写真を拝見した際に、いつ頃のものかと尋ねたら、間を置かずして「昭和32年4月29日、村の山神社の祭礼の日に撮った!」と返ってきた。
落ち武者のDNAを感じさせる気丈な85歳の平氏の顔であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする