雫石鉄也の
とつぜんブログ
6月10日(火) 秋葉原の通り魔事件を考える
また、非常に凄惨な事件が起きてしまった。休日の秋葉原にトラックで突っ込み、ナイフで次々と人々を刺す。7人が死亡、10人が負傷した。池田小学校事件を別にすれば近年の通り魔事件としては、最悪の事件となってしまった。
過去の判例から考えて、犯人の加藤智大は確実に死刑になるだろう。死刑は、日本の法律、というより、どの国の法律でも、極刑、これ以上ない刑罰。だから、どんな凶悪な犯罪でも、死刑以外に極刑の選択肢はない。今回の事件の場合は、死刑以上の極刑があれば、その刑罰に処すのが適当だと小生は思う。
ところで、刑罰の目的は何かと考えた。二つあるのではないか。まず、罪を償わせること。悪いことをしたら必ず報いがある。当然のことで、これは犯人に対するもの。もう一つは、犯罪抑止力。こんな悪いことをすれば、こんな罰をうけるぞ。人を殺せば自分も殺されるぞ。と、人々に知らしめることによって、世の犯罪を未然に防ぐこと。これは、犯罪を犯す恐れのある人に対するもの。この刑罰の極刑が死刑である。
今回のような重大な無差別殺人事件が続くと、はたして死刑が刑罰として意味があるのか、考え込んでしまう。被害者の遺族の感情を思いやると、かような悪鬼と同じ空気を吸いたくない、一刻も早く犯人をこの世から消去したい、と、思われるだろう。そういう意味では確かに犯人を死刑に処すことは意味がある。
今回の犯人加藤智大は事件前に、自分の心境をサイトの掲示板に投稿している。かなり自暴自棄になって、自殺をほのめかす言葉さえある。また、今回の事件ではないが、死刑になりたくて殺人を犯した犯人もいた。池田小学校事件の宅間守は早く死刑にしろといって、希望どおり早々に処刑された。このような犯人を死刑にして、刑罰としての機能を果たしているのだろうか。こやつらは、いわば、自殺願望者といえる。そのような輩を死刑にしても、自殺の手伝いをしているだけだろう。死刑以外に極刑の選択肢がない弊害がでているわけだ。裁判員制度の導入が近い。小生が裁判員に選ばれて、今回の加藤智大を裁くことになれば、死刑という結論は出したくない。加藤の犯罪が死刑にふさわしくないと、いっているのではない。死刑とは別の極刑を考えるべきだといっているのだ。複数の裁判員の中で、そんなことをいうのは小生だけだと思うが。
また、これだけ無差別かつ複数の被害者が出る殺人事件が頻発すると、犯罪抑止力としての死刑の存在に疑問を感じずにはいられない。自暴自棄になり、自分はどうなってもいいと思っている人間に、人を殺すと死刑になるぞといっても効き目があるだろうか。
こういうと小生を死刑廃止論者と思われるかも知れないが、小生は死刑は存続してもいいと考える。さきほどもいったように、極刑=死刑、というのに疑問を呈しているのだ。罪の報い、犯罪抑止力としての効果は、大多数の犯罪予備者に対しては有効なのではないか。ところが、宅間や今回の加藤のような犯罪者に対して、死刑は有効な刑罰とは考えにくい。そういう意味からも、終身刑の導入を望む。
明日死刑になれば、反省の時間は1日しかない。それでは少ない。出来るだけ長生きさせて、可能な限り長い年月に渡って、反省と後悔と、被害者の冥福を祈り、遺族への謝罪の時間を、取らせるべきだ。一生かけても足らないなら、二生でも三生でもかけて償わせるべきだ。もし病死したら、生き返らせてでも償わそう。簡単に死刑にしてはいけない。
ところが、今の時点での加藤智大の肩書きだが、どのマスコミも加藤容疑者となっている。これが裁判になると加藤被告となるのだろう。
容疑者とは、はっきりと犯人と断定できないが、疑わしい人物。犯人と断定するのは裁判所の仕事ということになる。ところが、今回の秋葉原の事件では加藤智大が、みんなの見ている前で、次々と人を刺していったのだろう。これはどう見ても、加藤智大が犯人であることは間違いないだろう。それなのに、なぜ肩書きが「容疑者」なのだろう。
最後にもう一つ。朝日の報道写真にあったが、現場には大勢のヤジ馬がいて、その中でかなり沢山の人が携帯電話をかざして写真を撮っている。この神経が判らない。たぶんで、友人にでも「僕、あの事件の時、秋葉原にいたのだよ」と、写真を見せながら自慢するつもりなのだろう。
7人もの人が亡くなった惨劇の現場。まだ路面には血が流れている。そのような風景を、面白半分に写真を撮る気持ちが判らない。
小生は阪神大震災の被災者である。地震直後、親戚が見舞いに来た。それは嬉しかった。ところがその人、小生の家の窓から、瓦礫の山と化した周辺を写真に撮り始めた。不愉快な気分になった。この人何しに来たのだろう。面白半分に地震見物にきたのか。
また、2005年4月のJR西日本福知山線脱線事故の現場は、当時の勤務先のすぐ近所だったし、事故をおこしたこの路線は、リストラされる前の会社の時の通勤ルートだった。時間がずれていたら小生もあの事故に遭遇していたかも知れない。事故直後に現場の前をよく通った。そっと手を合わせた。あのマンションもそのままの状態で、献花がたくさん手向けられていた。そのような場所で、とても写真など撮る気が起きない。無神経な人がいるものである。
過去の判例から考えて、犯人の加藤智大は確実に死刑になるだろう。死刑は、日本の法律、というより、どの国の法律でも、極刑、これ以上ない刑罰。だから、どんな凶悪な犯罪でも、死刑以外に極刑の選択肢はない。今回の事件の場合は、死刑以上の極刑があれば、その刑罰に処すのが適当だと小生は思う。
ところで、刑罰の目的は何かと考えた。二つあるのではないか。まず、罪を償わせること。悪いことをしたら必ず報いがある。当然のことで、これは犯人に対するもの。もう一つは、犯罪抑止力。こんな悪いことをすれば、こんな罰をうけるぞ。人を殺せば自分も殺されるぞ。と、人々に知らしめることによって、世の犯罪を未然に防ぐこと。これは、犯罪を犯す恐れのある人に対するもの。この刑罰の極刑が死刑である。
今回のような重大な無差別殺人事件が続くと、はたして死刑が刑罰として意味があるのか、考え込んでしまう。被害者の遺族の感情を思いやると、かような悪鬼と同じ空気を吸いたくない、一刻も早く犯人をこの世から消去したい、と、思われるだろう。そういう意味では確かに犯人を死刑に処すことは意味がある。
今回の犯人加藤智大は事件前に、自分の心境をサイトの掲示板に投稿している。かなり自暴自棄になって、自殺をほのめかす言葉さえある。また、今回の事件ではないが、死刑になりたくて殺人を犯した犯人もいた。池田小学校事件の宅間守は早く死刑にしろといって、希望どおり早々に処刑された。このような犯人を死刑にして、刑罰としての機能を果たしているのだろうか。こやつらは、いわば、自殺願望者といえる。そのような輩を死刑にしても、自殺の手伝いをしているだけだろう。死刑以外に極刑の選択肢がない弊害がでているわけだ。裁判員制度の導入が近い。小生が裁判員に選ばれて、今回の加藤智大を裁くことになれば、死刑という結論は出したくない。加藤の犯罪が死刑にふさわしくないと、いっているのではない。死刑とは別の極刑を考えるべきだといっているのだ。複数の裁判員の中で、そんなことをいうのは小生だけだと思うが。
また、これだけ無差別かつ複数の被害者が出る殺人事件が頻発すると、犯罪抑止力としての死刑の存在に疑問を感じずにはいられない。自暴自棄になり、自分はどうなってもいいと思っている人間に、人を殺すと死刑になるぞといっても効き目があるだろうか。
こういうと小生を死刑廃止論者と思われるかも知れないが、小生は死刑は存続してもいいと考える。さきほどもいったように、極刑=死刑、というのに疑問を呈しているのだ。罪の報い、犯罪抑止力としての効果は、大多数の犯罪予備者に対しては有効なのではないか。ところが、宅間や今回の加藤のような犯罪者に対して、死刑は有効な刑罰とは考えにくい。そういう意味からも、終身刑の導入を望む。
明日死刑になれば、反省の時間は1日しかない。それでは少ない。出来るだけ長生きさせて、可能な限り長い年月に渡って、反省と後悔と、被害者の冥福を祈り、遺族への謝罪の時間を、取らせるべきだ。一生かけても足らないなら、二生でも三生でもかけて償わせるべきだ。もし病死したら、生き返らせてでも償わそう。簡単に死刑にしてはいけない。
ところが、今の時点での加藤智大の肩書きだが、どのマスコミも加藤容疑者となっている。これが裁判になると加藤被告となるのだろう。
容疑者とは、はっきりと犯人と断定できないが、疑わしい人物。犯人と断定するのは裁判所の仕事ということになる。ところが、今回の秋葉原の事件では加藤智大が、みんなの見ている前で、次々と人を刺していったのだろう。これはどう見ても、加藤智大が犯人であることは間違いないだろう。それなのに、なぜ肩書きが「容疑者」なのだろう。
最後にもう一つ。朝日の報道写真にあったが、現場には大勢のヤジ馬がいて、その中でかなり沢山の人が携帯電話をかざして写真を撮っている。この神経が判らない。たぶんで、友人にでも「僕、あの事件の時、秋葉原にいたのだよ」と、写真を見せながら自慢するつもりなのだろう。
7人もの人が亡くなった惨劇の現場。まだ路面には血が流れている。そのような風景を、面白半分に写真を撮る気持ちが判らない。
小生は阪神大震災の被災者である。地震直後、親戚が見舞いに来た。それは嬉しかった。ところがその人、小生の家の窓から、瓦礫の山と化した周辺を写真に撮り始めた。不愉快な気分になった。この人何しに来たのだろう。面白半分に地震見物にきたのか。
また、2005年4月のJR西日本福知山線脱線事故の現場は、当時の勤務先のすぐ近所だったし、事故をおこしたこの路線は、リストラされる前の会社の時の通勤ルートだった。時間がずれていたら小生もあの事故に遭遇していたかも知れない。事故直後に現場の前をよく通った。そっと手を合わせた。あのマンションもそのままの状態で、献花がたくさん手向けられていた。そのような場所で、とても写真など撮る気が起きない。無神経な人がいるものである。
コメント ( 17 ) | Trackback ( 0 )
« 6月9日(月... | 6月11日(... » |
死刑が存在することで犯罪が抑止されるならともかく、逆に誘発されるのでは死刑制度の敗北なのではないかと。
死刑に代わる刑罰、自分は監視刑はどうかと思ってます。
二十四時間囚人の様子を(五分ほどのタイムラグをおいて)監視カメラで撮影、それをインターネットで配信する、というものです。
この監視刑の利点は囚人の逃亡、自死を防げる、というのと、インターネットの配信に課金することで、収益を見込める、ということです。
雫石さんが本文でも述べているように日本人は元来悪趣味ですから、凶悪犯がどのような生活をしているか、興味を持つものはきっといるでしょう。
終身刑の最大の欠点である終身刑囚を死ぬまで養うのに莫大なお金がかかる、というのにも対応できるんじゃないかって思います。また余ったお金は被害者、及びその遺族の救済に当ててもよいですし。
逆に難点を挙げるとすれば囚人のプライヴェートが一切なくなる、基本的人権が守られないっていうことでしょうか。
罪を犯したものにそんなもの、必要ないんじゃないかって自分は思いますけどね。
終身刑は確かにお金がかかるかもしれません。しかし、タヌキやクマしかいないところに道路や空港を作るお金で充分まかなえると思います。
生きているからこそ苦痛という感覚はあるのであって
私は終身刑がいいと思います。
終身刑に莫大な費用がかかったとしても
一国民レベルではありますが税にて負担するのであれば
納得します。
ただし、生きていくうえで必要な分の睡眠時間しか与えず
生きていくうえで必要な栄養素を点滴注射し
仕事もさせず、文字も読ませず
ただ、閉鎖された密室で決められた時間起きて寝るだけ。
すべての苦痛や快楽を取り除いて
ただ何もないし、何も食べない、何も見えない空間で
寿命が来るまで生きているだけ
そういう制度にしてほしいです。
私なら、そういう刑罰が一番苦痛だと思います。
お腹がいっぱいになるとか
睡眠をとって気持ちいいとか
すべて一切なくして、ひたすら毎日、密室で壁を見ながら
椅子に座ってる。
私の考える極刑ですね。
反省とか更正とか、人の命を奪った人には
権利がないと思います。
宅間は早く死刑にしろとずっと喚いていたみたいですが、死刑になりたいとうそぶく犯罪者の真実の声を聞いてみたいものです。死が望みなら今流行りの楽に死ねる方法があるのだから自殺すればいいだけの話で。やつらは結局は快楽で人を殺してるんです。
やはり、宅間同様まったく悪びれた様子はなさそうです。加藤は宅間を抜く殺人記録を作りたかった、と言ってる心理学者だかがいましたが、これは有り得ますね。
あのサイト予告にはには身震いがしました。
ご存知のように、ワタシは、刑務所がぬるすぎるので死刑廃止など論外だと思っていますが、ももっぷさんの挙げた刑罰は究極かもしれません。やつらが睡眠、食事、息をすることすら許せません。すべてを奪って暗闇の中で狂い死にしろと思います。
しかし、ただ生きていく、という状態で長く置くと、人間はおかしくなってくるのでは。それに、そういう状態に慣れてくるでしょう。
だから、最低限の(食事とか)苦痛や快楽は必要なのではないでしょうか。
人間とは違うモノになってしまわず、「人間」として反省してもらいたいですね。
だから、大騒ぎするのは、加藤の思うツボかもしれません。
と、いってこれだけの大事件、無視するわけにもいかず、難しいところですね。
もう、この「加藤智大」ってのは苦痛なんて感じなくていいから、今直ぐにでも死刑に処せられるべき。
「生きていたかった筈の殺された無関係の人々」の為にも、絶対に絶対に「加藤智大」を生かしておいてはいけない。
しかし、地獄なんてもんはない。死ねば「無」ならば、加藤は死刑になれば、本人はなにも感じません。
やっぱり、何かを感じてもらいたいです。
この種の犯罪が起きるたびに噴出する話題ですが、どうも違和感が残ります。
凶悪事件の現行犯だから死刑とか、拷問にも似た刑罰が妥当というわけでしょうか。
だったらアメリカのブッシュ大統領は、アフガニスタンやイラクで何万人もの無差別殺人を、自ら手を汚すことなく続けているのに、彼を糾弾し死刑にしろという議論が起きないのはなぜでしょうか?
他国のことには関心が無い?
ここに書込まれている事は、義憤に駆られた野次馬の無責任な発言のように思えますが、いかがでしょう。
このブログは積極的に書込む参加者がいる有意義なブログです。人の生死に関わる話題なので、言いっぱなしでは無く、もっと議論を深めて欲しいと思いますが、いかがでしょうか?
とはいえ、この記事をアップした直後のみなさんのコメントは、いつわらざる本音と、私としては真摯に受け止めております。
「義憤に駆られた野次馬的な発言」、否定的なニュアンスで悠々遊さんはいわれておられますが、私は、このような発言は大いに結構なことだと思います。
「野次馬的な発言」が自由にできる。民主国家のいいところです。日本には、いまのところこのような自由があります。一部の軍事政権や独裁国家や戦前の日本には「野次馬的な発言」はできません。
が、それだけに自分の発言には責任を持つべきでしょう。自分の気持ちに正直なことがもてはやされる風潮ですが、感情をそのまま言葉にするのが、必ずしも正しい事だとは思えません。
言葉や文章は時に人を傷付ける武器になります。ひとつ間違えば、自分の感情のままに凶悪事件を起こした犯人と、なんら変わる事は無いと思います。
確かに、目には目を、という考え方もありますが、本当にそれが最良の解決法でしょうか。仮にそれが最善策だとしたら、裁判までは国が行うとしても、そこから先の罰を下す行為は被害者なり、その家族に委ねるべきだと私は考えます。いわゆる仇討ちですね。
外野が無責任に煽り立てるのはどうなんでしょう。
・・・というように、いろんな意見を出し合い議論を深めることが大事だといっているわけです。
ここに先に書込まれた方々のうちの何人が、雫石さんのコメントを貰った後も、この後の書込みにも注目しているのでしょうか。
言いっ放しで終わりでないことを願っています。
自分のブログでも交流させて頂いてる方の所でも、今回の事件についてとりあげてましたが、こちらも議論に発展するコトは無かったです。ワタシも含めて、皆このやり場のない怒りをぶちまけることしか出来ませんでした。ただ、無責任な発言とか野次馬根性ではないと思いますよ。やれ死刑だの拷問だの、普段使いもしない残酷な表現を用いたりするのも、腹の底から沸き上がる加藤への憎しみの表れですかね。実際今は、体裁とか構ってられないくらい怒りにうち震えてますしね。死刑執行された宮崎や宅間に対しても、時が経ったからといって怒りが風化するコトはありません。皆がそうであってほしいですよ。被害者や遺族に対して何もしてやれるコトがないですから、せめてそれくらいは。
確かに感情任せでモノは言ってます。ただ、今回のような事件は、いつ誰の身に起こってもおかしくないだけに、誰もが被害者側の立場で深刻に受け止められるのであって、ブッシュが悪どいのは分かってても、それと同等の怒りを抱くコトはないですね。理屈ではないと思いますよ。
悠々遊さんの言うように、確かに文章は時にヒトを傷つけたり不快感をもたらしますね。凶悪犯と一緒にされては困りますが。少し前に、死刑廃止について議論が白熱したコトがありますが、しまいには支離滅裂な言動やら論旨から外れた人間性批判までが飛び出して、非常に後味の悪い思いをしました。その時は、雫センセにうまく収めていただいたんですけどね(汗)
議論は嫌いじゃないのですが、雫センセとは仲良くさせていただいてますし、ワタシのようながらっぱちの発言で荒れるコトを危惧してるのも正直な所です。
被害者の立場に感情移入して、怒り悲しむ事自体を否定するつもりは毛頭ありません。このニュースに初めて接した時には、私も同じように怒りがこみ上げてきたものです。
それでもその気持ちをそのまま外に向けて発信してしまうのは、ちょっと違うんじゃないかと思ってしまいます。
おっしゃるとおり、明日はわが身に降りかかることかもしれませんし、この事件を代理体験として捉え、犯人に怒りをぶつけることも、間違っていないと思います。
でも、やはり自分の事ではない。ついさっきまでそばにいた愛する家族が、理不尽な行為によって永久に失われてしまったのは、自分ではない。怒りや悲しみを、被害者と共有しているつもりでいても、本当のところは体験したものにしか分からない。
私が敢えて「義憤に駆られた野次馬」としたのは、決してその怒りを全否定するつもりはありませんが、そういう怒りを外に向けて発信することは、自己満足のための怒りではないかと思ってしまうわけです。「自分はこんなに怒っているのだぞ」と。
大変ぶしつけな表現で申し訳ありませんが、ある意味傍観者の「差し出がましい」怒りに任せての死刑だの極刑だのという所までの言及には、正直違和感があるのです。
私は死刑廃止の立場ですが、それは犯罪者の人権や人道的な配慮からではありません。被害者の人権を永久に奪ったものに人権は無いと思っています。
しかし、死刑を行うということは、たとえ憎むべき犯罪者であっても、直接恨みがあるわけでもない執行官に「人殺し」を強要するわけですよね。昔で言えば首切り役人です。腕は立つが卑しい身分のものがその役目を担っていたといいます。
昔聞いたか読んだ話では、そういった首切り役人の告白として、「お役目だから仕方ないが、縁もゆかりもない罪人の首を刎ねるのは、決して楽しいことではない。むしろ処刑当日は食事が進まないことさえある」といっていたとか。
軽々しく死刑だ極刑だといえるのは、やはり当事者ではないからではないでしょうか。
そうですねぇ…外に向けて吐き出す行為は確かに自己満足なのかもしれませんねぇ。こんなに怒ってるんだぞ!ってアピールではありませんが。
ワタシはニュースを見ながら家でもテレビに向かって酷く悪態ついてますし、基本的に内でも外でもスタンスは変わりませんよ。
外に発信するのがよくないなら、ネット上で議論するコト自体ナンセンスになりませんかね?物事を理性で捉えるヒトと感性で捉えるヒトがいるのだから、後者なら悠々遊さんが疑問を抱いてるような言動が沢山出てくるんでしょうし。かなり荒れますぞ?(笑)
感情の起伏には個人差もありますし、我が身に置き換える代理体験には、語弊があるかもしれませが想像力の違いってのもありませんか?誰しも自分のものさしで考えるんでしょうし。単純に、幼児殺害事件だと子供のいない独身の方より、被害者と同じ年頃の子供を持つ親の方が容易に想像がつくでしょう。そりゃ怒りも悲しみも明らかに違いがありますよ。ちなみにワタシも後者ですから、宅間の時は怒りもハンパないですよ。
死刑賛成派と反対派、これはもう理解しあえるものではないような気がします。それぞれが著した書籍を見ても「死刑囚側」「被害者側」と観点がまるで違うのですから。
大事なコト言うの忘れてました。前のコメントで悠々遊さんが述べた「被害者側に委ねる」という意見、それが最良に思えます。これならワタシのような賛成派が死刑!死刑!と喚きたてる必要もなくなります。うん、そういう制度になるコトを願います。
長々と失礼いたしました。
外に向かって発信というのは、家の内外という意味で言っているわけではなく、怒りに我を忘れそうな時はじっと心の内に収めておいて、冷静に考えられるようになってから言った方が良いと思っているわけでして。
感情が高ぶっている時には同じ方向の意見にしか耳を貸さないし、激論になっても得る所はないと思います。逆に冷静に議論を深めれば、たとえその時には受け入れられない考えでも、時間が経てば自然と受け入れられる時が、私の体験からはあります。
育ってきた環境や周囲から受ける影響も含めて、それぞれが自我を形成してきているわけだし、立場や考えの違う相手の意見をすんなりと受け入れられる方がまれでしょう。
仰るとおり、想像力にしてもそれそれの環境に左右され、皆が同じように怒りや悲しみを共有できるわけではないですね。
だからこそ、激情に任せて物を言うのではなく、冷静になってから相手の考えに耳を傾けたいと思うのです。繰り返しになりますが、議論はその時には分かり合えなくても、長い目で見れば決して無駄ではないと思います。
がらっぱちな性格だと言いながら、冷静に付き合っていただき、そのえださんには感謝します。
また、私の自己満足(?)のために、この場を提供し、見守ってくれた雫石さんにも感謝。
今日、宮崎死刑囚が刑の執行を受けましたね。
せっかくこの世に生を受けながら、人の世に生きる意味を見出せず、憎まれてこの世を去る。考えようによっては真に哀れな人生です。
岩手・宮城内陸地震の被害はまだまだ拡大しそうですが、同じように理不尽に命を奪われても、こちらには憎み、怒りをぶつけられる相手がありません。思えば切ないです。
また意見を交える機会がありましたらよろしくお願いします。
雫センセ、ありがとうございました。
有意義なコメントありがとうございました。
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