近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県高取町の束明神古墳とは!そのⅠ

2011年01月09日 | 歴史
束明神古墳は、高取町大字佐田に所在する春日神社の境内にあり、丘陵の尾根の南斜面に築造された7世紀代の終末期後半の古墳。

現状では墳丘がわずか直径10m程に見えるが、これは中近世の神社境内の整備のためであり、発掘の結果、対角長36mの八角形墳であったことが判明した。





写真は、春日神社境内及び神社境内に所在する束明神古墳墳丘。

埋葬施設は特殊な横口式石槨で、約厚さ30cm・幅50cm・奥行50cm大の凝灰岩の切石を積み上げ、南北約3m・東西2m・高さは1.3mほどの所から内側に傾斜させ家型となっている。ただし、盗掘により天井部が破壊されているため推定であるが、高さ約2.5mあるらしい。

この石室は構築にあたっては極めて精巧な設計がなされていたと云う。

盗掘されているため、出土した遺物は少ないが、漆塗木棺破片や鉄釘や須恵器・土師器及び人歯・骨などが出土している。

飛鳥時代の古墳は、多くが丘陵の尾根の南斜面に築かれており、それ以前の古墳が平坦地や尾根の稜線上に築かれているのと異なっている。

これは、中国の風水思想が朝鮮半島からもたらされ、都市・住居・墓地などの場所を選ぶ場合「四神相応の地」として、北の玄武は小山があること、東の青龍は川が流れていること、南の朱雀は高山があること、西の白虎は大道があることなどを中心に墓地を造ることが吉であるとされる。

本古墳は、過去に3度も盗掘にあい、副葬品はまったく残っていなかったが、漆塗木棺に使用された漆膜片と鉄釘や金銅製棺飾り金具が残っており、高松塚古墳の木棺に似た棺があったと考えられている。

束明神古墳東側の田んぼの中で掘っ立て柱が出土したが、墓守の役所跡の可能性もあるとのこと。

草壁皇子を祀ってきた村人が、天皇陵指定による立ち退きを恐れて石室上板を隠し、鉄の棒による探査を免れた事も、その後の発掘で事実として検証された。

加えて、この古墳が八角墳であることも見逃せない。斉明天皇陵説がある牽牛子塚古墳、京都山科の天智天皇陵、天武・持統天皇陵、そして文武天皇陵説がある中尾山古墳はいずれも八角形の形をしている。

草壁皇子は天武・持統天皇の子であると同時に、文武天皇の父であり、彼を葬る陵墓も当然八角墓として築造されたと考えるほうが自然。

草壁皇子は天武天皇の第2皇子で、母は菟野皇女(とののひめみこ)、後の持統天皇。天武天皇の死後皇位を約束されながら、28歳の若さで薨じたが、発見された歯牙から推定される年齢にぴったりと合う。

即ち束明神古墳から青年期~壮年期の人の歯が見つかったこと、古墳築造が7世紀後半らしいこと等から、この古墳の被葬者は、「天武・持統の息子の草壁皇子」という説が信憑性を帯びてきた。

発掘調査では歯牙6本が検出され、青年期から壮年期の男性と推定されている。

石槨や棺などの特徴と古墳の周辺から出土した須恵器片などから築造時期が7世紀後半の終わりに近いと考えられること、佐田の地元では束明神古墳が草壁皇子の墓であると伝承されていること等々が、この古墳が草壁皇子の陵墓であるという説を裏付けている。