近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

橿原市の観音寺遺跡とは!そのⅠ

2011年01月18日 | 歴史
ここからは、奈良県の古墳巡りから離れて、奈良県内最新の縄文時代遺跡を追ってみたい。

京奈和自動車道インターチェンジ建設に伴う、橿原市“観音寺遺跡”の約1万3,000㎡と、南に約200m離れた御所市“本馬遺跡”の約4,000㎡で行われていた調査で、土器棺墓や、近畿では珍しい縄文時代の平地住居跡、他にも祭祀用とみられる土偶や装飾が施された石棒などが出土した。

一帯は縄文文化が発達した東日本の影響を受けた縄文時代晩期(約3,000年前)の大規模集落だった可能性が強まったと、県立橿原考古学研究所と御所市教育委員会が発表した。









写真は、観音寺遺跡発掘現場の様子と葛城山を望む広大な奈良盆地の光景。

一帯には4万㎡に及ぶ大規模な集落があったと推定。埋葬エリアが観音寺地区遺跡、居住エリアが本馬地区遺跡だったと見られている。

以前の発掘調査では、両遺跡からは計19基の土器棺墓(観音寺地区からは16基)が出土。

人骨は残っていなかったが、数基ずつまとまって見つかり、家族ごとに埋められた可能性もあるという。

土器棺墓は高さ20~40cm、直径20~30cmの深鉢を転用し、再葬による人骨を納めたとみられ、斜めか横向きに埋葬されていた。

多くが同時期の河川跡2本の間に群集し、あるものは岸辺に沿って等間隔に点在するため、川を意識して埋葬されたとみられる。

県内では橿原市・曲川遺跡で同時期の土器棺墓が70~80基見つかっていると云う。

観音寺地区では、ほかに石組炉(縦約80cm、横約55cm)と、壺などの土器も遺物収容箱に200箱以上という膨大な量が見つかった。

叉土偶は女性をかたどったとみられ、計5体分が出土。



写真は、観音寺本馬遺跡から出土した土偶と石棒。

土偶は、観音寺本馬遺跡の観音寺地区の発掘調査で、2008年に見つかった高さ約15cmほどの完形の土偶で、目と大きく開けた口、両足を少し広げたユニークな姿で、祭祀で使われた後に廃棄されたとみられる。

一方石棒は、長さは約26cmで、先端には幾何学文様の線刻がある。

東日本では線刻のある石棒の出土例は多いが、縄文文化が発達しなかったと考えられている西日本では、ほとんど装飾がないという。

いずれも子孫繁栄を願う祭祀具とみられる。