近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県高取町の大田皇女墓とは!

2011年01月16日 | 歴史
大田皇女は、菟野讃良皇女(“うののさららのひめみこ”は天武天皇皇后・持統天皇)の同母姉にあたる。

父は天智天皇で、母は蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿のいとこ)の娘・遠智娘(おちのいらつめ)。

大田皇女は天武天皇の妃となり、大伯皇女(おおくのひめみこ)・大津皇子を生むが、夫の即位を見ずに若くして亡くなったと云う。

当時大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたらしい。









写真は上から、奈良県高取町の大田皇女墓の遠景と近景及び今回発見された、明日香村の越塚御門古墳の現地説明会の光景と同墳墓石室と石槨の様子。

研究者らが探していた大田皇女が眠る場所が、明日香村の越塚御門古墳と分かり、「これほど近くだったとは」と誰もが驚き、「日本書紀の記述通り」と感動した。

今回、日本書紀と考古学が巡り会った遺跡から、動乱の時代を生きた3人の女たちの物語がひもとかれる。

大田皇女は、大化改新前夜に生を受けた。蘇我一族の中で、中大兄皇子方に組みした倉山田石川麻呂が、娘を中大兄皇子に嫁がせて生まれた子だ。

645年には実妹の持統天皇(~702年)が生まれている。後に倉山田石川麻呂は、中大兄の命を狙った疑いで無実の死に追いやられ、大田皇女の母は悲しみのあまりに死んでしまったという。

成長した大田皇女は、天智の弟・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。

斉明の百済救援九州遠征(661年)に伴われ、道中で大伯皇女、663年に大津皇子を生んだ。しかし間もなく20代の若さで世を去った。

一方、姉の死後に大海人の妃となった持統天皇は、草壁皇子を生み、天皇として君臨する。

大津皇子は、皇位継承をめぐって草壁皇子のライバルとなり、686年ついに謀反の罪で処刑された。

病弱な草壁皇子に対して、容姿に優れ、学問にも秀でていたと伝えられている。

祖母の斉明天皇、叔母の間人皇女とともに葬られたと云う。