今日から数日は、極めてプライベートな記述になるが、私自身が、今日までかなりの時間をかけて、資料探索・現場検証・聞取り調査などを繰返したにも拘らず、行き詰まってしまった現状を紹介し、若しかしてどなたか、心当たりのある方の情報を期待しつつ、以下敢えて私事の情報を公開する次第です。
どんな情報でも結構ですので、お寄せ頂きますようお願い申し上げます。
大政奉還と共に駿府に移封された、第15代将軍徳川慶喜を追って現在の静岡県内に移住した旧幕臣約14,000名(家族を含めると約80,000人)の中に、旗本・“八代目水野正之助穠成”(以下穠成)の名前が見える。
明治元年10月頃から、お役ご免となった旧徳川家臣の移住集団が続々と駿府にやって来た。
移住者を清水湊まで乗せた船中には、平均2,500~2,600人が乗り込み、想像を絶するほど混雑を極めたと云う。
写真は、幕末の清水湊挿絵及び日本平から望む清水湊と富士山の絶景。
外国籍の大型チャーター船で品川を出て二昼夜かけて清水湊に到着し、ひとまず清水湊近郊の民家・農家に腰を落ち着けたと見られている。
清水地元民は、難民同然の移住者を暖かく向い入れ、炊き出しや宿泊先の手配に当ったと云われている。
明治2年2月現在、小島地域(現在の静岡市清水区小島)の“移住者分配性名簿”によると、穠成を含む合計396名の旧幕臣が当地に仮住居を割り付けられたらしい。
又当時の“静岡士族名簿”には“水野穠直”(以下穠直)の名前が記載されている。穠成と共に移住したと見られる穠成の孫、穠直と甲子次郎を含む3人こそ、私の先祖であり、うち甲子次郎は、私の祖父として明治の“新戸籍制度”(明治19年に戸籍制度が施行され、一般公開された)に登録されているが、明治19年までの空白期間は、消息不明のまま今日に至っている。
写真は、静岡市清水区小島町の代表的禅寺・竜津寺の紅葉風景。
後日詳細を申し上げるが、この禅寺・竜津寺が我が先祖の墓所ではないかと未練が残る。
穠成(明治元年当時57歳)は現在の静岡市清水区小島町に仮住まい後、厳しい生活・衛生環境の中で数年して死亡したと見られ、取り残された穠直(当時10歳)・甲子次郎(当時7歳)の少年二人が、どのようにしてこの一大受難期を乗り越え生き残ったか、実情は全く分からない。
明治19年当時の戸籍謄本によると、戸主の“穠直”(後に源四郎に改名)、弟の“甲子次郎”、父“水野三八郎”の名前が明らかであるが、三八郎は両兄弟の父として記載されているに過ぎず、江戸から静岡へ移住した痕跡は見当たらない。
明治6年当時、穠成は既に他界していたと見られ、家督となった穠直(当時16歳)・弟甲子次郎(当時13歳)の二人は生活拠点・職を求めて、現在の静岡市内に移住していたと考えられる。
穠成は、前述の小島地区への仮住居の割付記録や実父の伝承から、清水区周辺に埋葬されていると見られる。
明治4年頃に、当地で痢病(コレラ)が蔓延し、近代医療技術以前の伝染病治療には手の施しようがなかったと伝えられている。
穠成は痢病死したか、或いは当時の衛生・医療実情から何らかの病死であったと考えられる。
いずれにしても、“武家制度”の終焉と共に大名・旗本の公的記録が途絶え、“水野家過去帳”記録も寸断され、静岡市内・清水区小島周辺の移住先埋葬寺院を探し回ったが、墓所は未だ分からず仕舞い。
どんな情報でも結構ですので、お寄せ頂きますようお願い申し上げます。
大政奉還と共に駿府に移封された、第15代将軍徳川慶喜を追って現在の静岡県内に移住した旧幕臣約14,000名(家族を含めると約80,000人)の中に、旗本・“八代目水野正之助穠成”(以下穠成)の名前が見える。
明治元年10月頃から、お役ご免となった旧徳川家臣の移住集団が続々と駿府にやって来た。
移住者を清水湊まで乗せた船中には、平均2,500~2,600人が乗り込み、想像を絶するほど混雑を極めたと云う。
写真は、幕末の清水湊挿絵及び日本平から望む清水湊と富士山の絶景。
外国籍の大型チャーター船で品川を出て二昼夜かけて清水湊に到着し、ひとまず清水湊近郊の民家・農家に腰を落ち着けたと見られている。
清水地元民は、難民同然の移住者を暖かく向い入れ、炊き出しや宿泊先の手配に当ったと云われている。
明治2年2月現在、小島地域(現在の静岡市清水区小島)の“移住者分配性名簿”によると、穠成を含む合計396名の旧幕臣が当地に仮住居を割り付けられたらしい。
又当時の“静岡士族名簿”には“水野穠直”(以下穠直)の名前が記載されている。穠成と共に移住したと見られる穠成の孫、穠直と甲子次郎を含む3人こそ、私の先祖であり、うち甲子次郎は、私の祖父として明治の“新戸籍制度”(明治19年に戸籍制度が施行され、一般公開された)に登録されているが、明治19年までの空白期間は、消息不明のまま今日に至っている。
写真は、静岡市清水区小島町の代表的禅寺・竜津寺の紅葉風景。
後日詳細を申し上げるが、この禅寺・竜津寺が我が先祖の墓所ではないかと未練が残る。
穠成(明治元年当時57歳)は現在の静岡市清水区小島町に仮住まい後、厳しい生活・衛生環境の中で数年して死亡したと見られ、取り残された穠直(当時10歳)・甲子次郎(当時7歳)の少年二人が、どのようにしてこの一大受難期を乗り越え生き残ったか、実情は全く分からない。
明治19年当時の戸籍謄本によると、戸主の“穠直”(後に源四郎に改名)、弟の“甲子次郎”、父“水野三八郎”の名前が明らかであるが、三八郎は両兄弟の父として記載されているに過ぎず、江戸から静岡へ移住した痕跡は見当たらない。
明治6年当時、穠成は既に他界していたと見られ、家督となった穠直(当時16歳)・弟甲子次郎(当時13歳)の二人は生活拠点・職を求めて、現在の静岡市内に移住していたと考えられる。
穠成は、前述の小島地区への仮住居の割付記録や実父の伝承から、清水区周辺に埋葬されていると見られる。
明治4年頃に、当地で痢病(コレラ)が蔓延し、近代医療技術以前の伝染病治療には手の施しようがなかったと伝えられている。
穠成は痢病死したか、或いは当時の衛生・医療実情から何らかの病死であったと考えられる。
いずれにしても、“武家制度”の終焉と共に大名・旗本の公的記録が途絶え、“水野家過去帳”記録も寸断され、静岡市内・清水区小島周辺の移住先埋葬寺院を探し回ったが、墓所は未だ分からず仕舞い。
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