近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

磐田市の甑塚古墳とは!

2012年07月15日 | 歴史
甑塚古墳は、太田川中流域西岸の磐田原台地東縁に位置し、墳丘径が約27mの円墳で、石室は全長9m・玄室長さ6m・幅3mほどの片袖式。石室規模は、静岡県内では最大規模らしい。

玄室の中央に板石を組み合わせた箱式石棺が置かれ、金銅製の馬具・鏡・挂甲・鉄鏃・直刀・須恵器・土師器など多数の高貴な副葬品が出土していることから、いち早く畿内型の横穴式石室を採り入れた、遠江地域の大首長に連なる者の墓と考えられている。

甑塚古墳は、6世紀初めに築造され、遠江で最初に横穴式石室を採り入れたが、6世紀になると、古墳の構造や規模に大きな変化が現れた証。

それまで権威の象徴とされた大型の前方後円墳は築造されなくなり、古墳が急速に小型になったが、埋葬施設もそれまでの木棺直葬や粘土槨に替わって、横穴式石室が一般に用いられるようになった。





写真は、本古墳から出土した、いろいろな須恵器と高杯。

横穴式石室は、6世紀前半にかけて、須恵器などの容器類を多量に副葬するという風習とともに、急速な勢いで日本列島に広がっていった。

6世紀になると、ロクロの回転力を利用するようになり、須恵器は左右対称で、横方向のデザインに発展していった。

横穴式石室は、墓室の横に入口が設けられているため外からの出入りが可能で、必要に応じて遺体を次々と墓室に埋葬する、追葬ができる構造で、須恵器などの容器の埋納が盛んに行われるようになったと云う。

これは、横穴式石室の導入が単に石室の形式だけではなく、そこを死後の生活の場として考えていたと受け取れ、死に対する考え方にも大きな変化が現れたことを示している。

横穴式石室の出現は、葬送儀礼の転換を伴う大きな変革であったと云える。





写真は、本古墳から出土した、鈴のある馬飾り・ハート形馬飾りや剣菱形杏葉とF字形鏡板付轡。

埋葬品のうち、F字形鏡板付轡と剣菱形杏葉のセット関係が保たれ、轡・杏葉・鐙といった各馬具の保有率も高いことから、F字形鏡板付轡の馬装は非常に整備された馬装。

5世紀後葉になると、日本国内における乗馬の風習の浸透度は顕著に高まる。

それは、F字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の組み合わせによる馬装が成立し、国内各地の有力者層がこれを保有するようになったと云う。