近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

静岡県浜松市の蜆塚遺跡とは!

2012年07月21日 | 歴史
ここでは、天竜川を挟んで磐田市の西側に位置する浜松市の縄文時代の代表的遺跡である、蜆塚貝塚遺跡の最新情報を紹介する。

蜆塚遺跡はJR浜松市駅から西へ約3km行った、三方原台地上に位置している。

当遺跡は3、000~4、000年前の縄文後期・晩期の集落跡で、約12、400㎡の広さを持ち、現在は遺跡公園として保存されている。

本遺跡の特徴は、幅広い東西交流である。ある土器には、東日本と西日本の特徴が同時に見られ、ヒスイや黒曜石など、この近辺では産出しない遺物が多く出土する事から、この遺跡の住人達が100kmを越える行動範囲を持っていたことが窺える。

又公園内には浜松市博物館があり、蜆塚遺跡から出土した石器・土器・人骨等を展示している。

今日までの調査結果の中で、特筆すべきポイントは以下の通り、

1、住居跡は28軒見つかり、2.5×4.0mから4.0×7.0mまでの広さを持つ平地式住居。





写真は、蜆塚貝塚から出土した住居群を蜆塚遺跡公園内に復元した様子2点。

蜆遺跡中央の広場を囲んで住居跡や墓地が並び、貝塚も4ヶ所で見つかった。



写真は、蜆塚遺跡公園内の第二蜆塚から見た復元住居。

写真左側が長方形、右側が円形の住居で、同時代に併存していたとのことであるが、何故違うのか?

柱の上に梁・桁等の横木を結び、これに屋根を乗せる垂木をかけ、カヤのような草をツルで縛り付けたモノで、屋根は合掌造りで地面まで葺きおろし、根元を土で固めたもの。

写真のように、長方形と円形住居が同時期に併存していたと見られるが、形の違いから来る特別な意味合い・差別があったのか?或いは集会用等用途に違いを求めたのか?

住居は何回も建て直した結果重なり合っており、一時期の数は3~5軒ぐらい、1軒平均5人家族とすると、蜆塚ムラは15~25人ぐらいの規模であったと見られる。

2、住居址に沿って長径1.0~1.6mの小判形をした土坑が30以上発見された。

土坑中の人骨の保存状態は良好で、1体が手足を伸ばした伸展葬、残りは手足を折り曲げた屈葬で埋められていたとのこと。

人骨がほぼ完全な形で残ったのは貝塚と重なり、貝殻のカルシウムによって保護された為と言われる。



写真は、蜆塚遺跡の住居址に沿って掘られた土壙墓に埋葬されていた老人人骨。

貝製腕輪が異様に目立つが、本人が身につけていたものであろうか?

写真のように貝製腕輪をはめた男性人骨と硬玉を添えた人骨が見つかり、縄文時代にも一般的ではないが、副葬品と合わせて埋葬した習慣が地域によってはあったのかも知れない。

蜆塚人の平均身長は男性157cm、女性143cmで、幅の広い顔で鼻が大きく筋肉がよく発達していたことが分かったとのこと。



写真は、蜆塚遺跡から出土した31体人骨のうち2つの老人頭蓋骨。

上下の犬歯が抜歯されている状態がよく分かる。

上下の歯は噛み合わさっているが、上下の犬歯を抜く風習があったらしい。尚平均寿命は30歳ぐらいであったと言われているが????

3、貝塚は大小4つあるが、北側の第一貝塚は斜面にあって厚く貝殻が積もっている。ヤマトシジミ・ハマグリ等の貝殻と一緒に、タイ・スズキなど魚の骨、シカ・イノシシなど獣の骨、キジ・ツルなど鳥の骨等も捨てられていたと言われる。