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「畜生!どうして他人の方が自分の家族より俺のことが分かるんだ」

男というものは自分から「分かって欲しい」とは決して言わないもの。
沈黙を守り、それが歳とともに頑固さとして表面に現れてくるのだ。
だからこそ、映画の中盤はじめに隣家に招待されたイーストウッド演じる主人公が洗面所でボソッと呟くセリフが胸を打つ。

それにしてもクリント・イーストウッドが監督した映画は、どうしてこうも何かが胸に刺さってくるような「痛み」を持っているのだろうか。
しかもその「痛み」は決して完全に不愉快なものではなく、なにかしら自分の生き様を振り返り、そして「そうなんだよな」と思わせる郷愁と後悔が入り交じった「痛み」なのだ。

イーストウッドの最新作「グラン・トリノ」を観てきた。

「グラン・トリノ」とは一体何なのか?
映画を観て初めてそれが自動車の名前であることを知ったのであった。

1972年フォードモータース製。
アメ車。
「クラシックな言い車だ」
1972年の自動車はもう、クラシックカーの部類に入るとは私自身小さな驚きを感じた。
そしてこの自動車の名前がどうしてタイトルに採用されているのか。
最後の最後までなかなか分からないのだ、それを知った途端、大粒の涙が映画を観ているいい年をした男の目からこぼれ落ちるのだ。

ドラマは年老いたアメリカ人の老人と、インドシナから移民してきたモン族の家族との交流を通じ、老人の生き様(いや死に様だろうか)を描いている。
テーマはいくつかあるようだ。
そのひとつは人はいかにして自分の人生を締めくくるのかということ。
人は生まれる時はその方法を選択することはできないが、死ぬ時は自分がいかに死すのかを選択することができる。
そういう人もいるというものだ。
二つ目は、本当の家族とは何かということ。
血肉を分けた兄弟なのか、子供たちなのか。
それとも共通の価値観を持ち、考えていることを分かち合える血も繋がらない他人なのか。
そして三つ目。
神様の教えと言うのは、誰のためのものなのか。そしてそれは本当に人にとって正しいことなのか。
ということ。

まだまだ掘り下げると色々んなことが見えてくるのだが、映画はそういう小難しいことはちっとも感じさせず、クリント・イーストウッドが演じる一人暮らしの老人を通じて一個の人間が歩んできた時空の深さをライトコメディを観るような感覚で楽しむことができる作品に仕上がっている。

かつてイーストウッドが主演した映画の主人公達は外面性のヒーローであった。
イーストウッドがともに映画を作ってきたドン・シーゲルやセルジオ・レオーネといった監督達も男の生き様を描いてきた。
しかし彼らのもとで演技を積んだイーストウッドが最も素晴らしい男の映画を作る映画監督になるとは誰が予想できただろうか。

「グラン・トリノ」
めったにないグッと来る男の生き方を示した映画なのであった。

~「グラン・トリノ」2008年 ワーナーブラザーズ配給~

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