<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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先日、新聞だったか雑誌だったか、ある記事を読んでいると、

「日本の神道ほど奇妙な宗教はない。戒律というものが存在せず、ただ八百万の神というものに祈るために存在するのだ」

ま、それがホントかどうかは分からないが、確かに神道では戒律についてあまり小うるさいことを言われることはない。
神社は午前中にお参りしなさい、とか、そんなことをやったらバチが当たる、程度の話しか聞いたことがない。
だから、戒律だとかモラリティを担っているのは日本では仏教ということになる。
神道は多神教だが、それこそ色んな神様が存在していて、それを下地にしてこそ宮凬駿の「千と千尋の神隠し」みたいな世界が生まれるのだろう。
上方落語には「貧乏神」なるビンボーの神様まで登場する。

ある物臭なオトコに貧乏神が取り付くのだが、あまりにオトコがだらしなく、そのまま死んでしまうと死活問題だということで、貧乏神が甲斐甲斐しく働くという噺だ。
落語だけに陽気でビンボーだからといって陰々滅々したところもまったくない。
それが日本の宗教観なのかも知れない。

中東や中国、時にはヨーロッパで宗教紛争などがあると、日本人には何のことやらさっぱりわからない、というのも日本人の宗教観の現れだろう。
なんで人々の幸せと安寧を願う宗教で殺し合いをするのか理解できないのだ。
日本の歴史でも宗教での対立は度々経験しているが、どれもこれもカルトに類するものか反社会的なものに対する対立という図式があり、思想信条で対立するというのは、まま理解しにくいものがある。
石山本願寺や一向一揆などはカルト的要素がふんだんにあり、当時としてもその異様な信仰度合いが時の為政者をして見過ごしにできないものがあったのだろう。
またやがて島原の乱などに発展し、存在そのものが維新を迎えるまでタブーになってしまうキリスト教も、その信仰を恐れたというよりも、来日した宣教師やそれについてきた有象無象な人たちが日本人を海外に拉致し奴隷として人身売買にこれ励んでいたこと、など反社会的なことが発覚したから厳禁とされてしまったという。
ちなみに日本史において奴隷制は存在すらしたことがない、マリアルス号事件を待つまでもなく「奴隷って何?そんなことしていいの?」という文化なのだ。

このように少々社会や日本の価値観から逸脱したものは受け入れられず、それでいて世界にはそういうものがたくさんあるので、なかなか世界スタンダードな宗教観というのが日本人には根付かないのかもしれない。

講談社プラスアルファ新書「キリスト教は邪教です」を買って読んだのは、なにもキリスト教に対して悪意をもっているからではない。
私の親友知人の中にもカトリックからモルモン教徒まで、さまざまなキリスト教の信者がいるので誤解されると困るのだが、稀代の変わり者であるニーチェが著者ということもあり、キリスト今日についてどのようなことをニーチェが述べているのか大いに気になったので書店で見つけるなり即断で買ってしまったのであった。

で、内容は予想通り、面白いものであった。
多分に訳がよく出来てるということもできるが、皆が思っていてもなかなか言えないことを論じていて、例えば、
「聖母マリアは相手なしでキリストを授かった」といういわゆる処女受胎について「ありえないウソ話」と切って捨て、聖書に登場する数々の奇跡の物語を「ヨタ話」、教会を利権と悪の権化というような意味合いに断言しているところは、ビックリするよりも、あまりにハッキリと言い過ぎているために笑ってしまったくらいであった。

かといってニーチェはキリスト教そのものを否定するのではなく、現在の聖書と教会を非難しているのであって、これらはキリスト教の本来の思想(残念ながら私の家は真言宗なんでよくわかりませんが)はキリスト教開闢の後世にその利権構造が作られねじ曲げられてしまっているという趣旨で本書を執筆したという。
いうなれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつである。

本書執筆後にニーチェは発狂したので本書がまともな著作の最終作だそうだが、キリスト教へのこの辛辣でかなり的を射た批判を書くことは、読む側が楽しむことができるとしても、その精神の苦悩は考えてもあまりあるものに違いないのだ。

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