<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





久しぶりの沖縄出張。
前回訪問したのは2006年6月6日。
666。
なんとなく縁起が悪い....。

以前、営業職であった私は大阪で勤務しながらも、なぜか沖縄県も一部営業テリトリーとしていて年に1~2回は沖縄を訪れていた。
ただし、沖縄といってもいつも訪問するのが沖縄県庁であったり、航空自衛隊那覇基地であったりしたために、那覇市周辺から出ることはめったになく、ほとんどが大阪からの日帰り出張なのであった。
営業マンとして最後の出張となった2006年は、二泊三日の滞在ではあったものの、ほとんどが製品の納品の立会に費やされ、朝一番の飛行機で那覇空港に降り立ってから、最終日の最終便で大阪に帰るまで、働き詰め。
沖縄を体感したのは夜の居酒屋さんだけで、とりわけゆいレール旭橋駅から徒歩5分ほどの居酒屋さんの泡盛と沖縄野菜の炒め物が絶妙だったことを思い出す。
思い出しただけで、お腹がキューっとなり、またまた飲みたくなってくるぐらいだ。

そもそも沖縄を初めて訪れたのは1987年。
社会人二年目。
恩納村という日本とは到底思えないようなトロピカルリゾートエリアに建設中のリゾートホテルの工事に訪れ2週間ほど滞在したのが最初だった。

このときは5月の末から6月にかけての滞在だった。
大阪からの直行便の予約ができなかったので、鹿児島経由で伊丹空港から那覇へ向かったのだったが、鹿児島から乗ったANAのスチュワーデス(と、当時は呼んだ)のおばちゃんが未だに記憶から離れない。
というのも、このANAのスチュワーデスのおばちゃんは離陸後飛行が安定すると、何を思ったのかバスガイドよろしく眼下に望める奄美諸島の島々を案内し始めたのだった。

「あれが奄美大島です。」

とひとつひとつ島の名前から説明開始。
なんだかんだと文化や雰囲気などを解説してくれるのだ。
機内は比較的空いていたし、機種も100人乗り程度の小さな飛行機で。こじんまりした雰囲気だったこともあるのかも知れない。
しかし、それだけでは印象に残ることもなかっただろう。
今でも稀に、大阪から東京に向かう飛行機では「左手に富士山の綺麗な姿が見えています」と機長やチーフパーサーのアナウンスがないこともないからだ。

ところがこの鹿児島発那覇行きのANAのおばちゃんスチュワーデスは他の人とは異なって、解説を聞かなかったら小学校の遠足、わいわいガキどもがざわついている時のベテランバスガイドさんよろしく「ちゃんと聞きなさい」てな具合に、窓の外を見ていないお客を叱るというところが、強烈な印象となってしまったのであった。
そのしかり方も、ベテランバスガイドのように嫌な感じは全くないところに凄さがあり、私は「スチュワーデスにはこんあおばちゃんもおるんや」と感動したくらいなのだ。

この時の天気が非常によかったためか、とりわけ与論島の解説には力が入っていて、私もその美しい島のまーるい海岸線に感動しきりなのであった。
ただ、「お、与論島は島の半分が飛行場か?」とビックリしたのも覚えている。

ともかくそんなこんなで沖縄へ到着したのだったが、ビックリしたのは当時の空港ターミナルが貧弱であったことに加え、めちゃくちゃ暑かったことなのであった。
先行して沖縄に来ていた同僚が迎えに来ていたのだが、

「暑いな~。まだ5月やで」
「驚くのはまだ早いで。」
「なんや。」
「このまえ、台風来たやろ」
「ん」
「沖縄では台風の雨は360度、全方位から降ってくることがわかった。傘は無意味や。あれは体験せんとわからん。それに、宿のエアコン、1時間100円要るで」

との衝撃の証言を数々聞くことになった。

同僚がレンタルしていた車に乗り込んで恩納村に向って出発した私は、途中国際通りにあったスーパーダイナハ(ダイエーのチェーン店だった)に立ち寄り海水パンツを購入。
日本なのに、なんとなく異国情緒が漂う那覇の街を北に向かったのであった。

今回の私の目的地も初めて沖縄を訪れたときに向かった恩納村。
ここに世界有数の国立の研究所が建設されており、そこを訪問するための出張なのであった。
でも、今回は、同僚もいず、私一人。
空港近くのレンタカー屋さんでマツダのデミオをレンタルし、いざ、国道58号線の北上を開始したのだった。

つづく

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