<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



ほぼ21ヶ月ぶりにヒコーキに乗った。
こんなにも長い期間ヒコーキに乗らなかったのはこの10年間ではじめての経験であった。
 
最後に乗ったのは確か昨年の2月。
埠頭に接舷されて物々しい雰囲気になっているダイヤモンド・プリンセス号を首都高を走る空港リムジンバスから目撃した時であった。
 
今回乗ったのは、ダイヤモンド・プリンセスを目撃したときに利用したのと同じ関空〜羽田のスターフライヤーの初発便と最終便。
私はちょくちょくこの便を利用する。
なぜならこれに乗ると朝一番に東京に入り、最終で大阪に戻ることができる。
出張の一日を有意義に利用することができる。
しかもスターフライヤーは黒い機体が印象的な美しいデザインと優れた機内サービスが魅力だ。
それにLCCとは正反対の余裕の座席。
リラックス性もピカイチで最もお気に入りでもある。
で、このスターフライヤー。
21ヶ月前まではその関空〜羽田便はANAとのコードシェアで羽田空港では第2ターミナルでの発着となっていた。
それがコロナ禍の間に第1ターミナルに引っ越しをしていたのだ。
もともと関空便以外は第1ターミナルに発着口のあるケッタイなANAグループの会社だったが、なぜだか関空便だけは第2ターミナルにあって、主にANAを多用している私には非常に便利な存在でもあった。
 
今回は第1ターミナルに到着。
少々驚いたがもっとびっくりしたことがあった。
それは第1ターミナルがゴーストタウンみたいになっていたことだった。
 
羽田への到着時間が朝7時半ということもあり売店その他はまだ開店前だったのかも知れない。
でもシャッター商店街みたいな風景は首都東京の空港にそぐわない一種異様な感覚を持たざるを得なかった。
まるで夢を見ているような感じだった。
薄暗い照明。
古臭い建物。
人気のない巨大な建造物。
ただし朝だったので救いはあった。
モノレールの改札前を通って京急の改札方面へ向かうとさすがに電車を降りてきたばかりの大勢の乗客がターミナルビルの方へ向っていた。
これから日本各地に向かうヒコーキ利用者なのだろう。
 
問題は夜なのであった。
真っ暗な羽田空港。
まるっきり廃墟のようになっている空港ターミナルは私を愕然とさしたのであった。
 
その日、新橋の烏森で古い知人と夕食をとった後、浅草線新橋駅から羽田空港行き急行に乗った。
久しぶりのいつもの東京の帰宅時間のラッシュアワー。
しかし少しばかり人が少ないように思ったのはコロナの影響なのだろう。
多くの乗客が京急蒲田で下車し、続いて糀谷、穴守稲荷と進むにつれて客数は減っていき、第三ターミナルに着いたときは回送車かと思えるほど車内は空いていた。
余談だがコロナでここへ来ないうちに国際線ターミナル駅は第三ターミナル駅に名称変更していたのだった。
第三ターミナルという成田空港の第三ターミナルを連想する不吉なネーミングだ。
 
電車が羽田空港に到着したのは午後8時。
私の乗る便は午後9:30発だったので1時間少しの待ち時間があった。
この間に私は家で待っているカミさんへ久しぶりの東京出張の土産を買おうと思っていたのだ。
だから新橋での知人との夕食も少し早めに切り上げた。
ところが、そんな流暢な状態ではないのが今の羽田空港だった。
京急を降りて第1ターミナルへ向かうと飲食店、菓子店、グッズ店などなど、店という店がシャッターを下ろして閉店状態。
ガラスのシャッターの向こう側で閉店後の作業をしている店員らしき姿もちらほらと確認することができたのだが、殆どが無人。
ただ電灯が灯っている。
そういう真夜中のブランド街というような状態だった。
 
薄暗く、人の姿もまばらなターミナル内でエスカレータだけが静かに動いていた。
なんとなく不気味だ。
 
スターフライヤーの搭乗口はどこかいな、と出発便の電光掲示板を見ると、
「大阪/関西 欠航」
とある。
背筋を冷たいものが走るのを感じた。
まさか。
今日の帰りの便がキャンセル?
関空行きだけではない。
他の数件の地方行きの便もすべて「欠航」サインが灯っている。
慌ててiPhoneのチケットを確認する。
チケットにはどこにも「欠航」などと書いていない。
よくよく掲示板を見ると「大阪/関西 欠航」と表示されているところに「JAL」とあった。
なんじゃい。
JALの関西行きか。
安心して掲示板を見直す。
欠航になっているのはすべてJALで私のスターフライヤー/ANA共同運航便は表示されていない。
ほっとした。
ほっとしたけどすぐに気づいた。
表示されていない。
ないじゃいこれ。
私の搭乗予定のスターフライヤー関西行きは表示されていなかったのだ。
 
まさか、第2ターミナルへ行かなあかんの?
 
少々焦り気味に再度iPhoneのチケットを確認する。
するとチケットにはどのターミナルビルかということは全く書かれておらず「搭乗口1」とだけ書かれていた。
不安感が旧に増してきた。
 
第一ターミナルの売店その他がすべて閉店しているのは午後8時をして出発便がすべて終了していることを意味していて空港ごと、
「今日はおしまい」
ということになっているのではないか。
スターフライヤーも出発は第2ターミナルであれば、これから第2ターミナルへ向かって移動しなければならない。
しかし、第1ターミナルに着いて第2ターミナルから出発なんてあるだろうか。
 
時間に余裕が少しあるのでこの目でスターフライヤーの搭乗口のあると思われる南の端の保安検査場方向へ向かうことにした。
なぜ南方向に向かったかというと、中央付近の保安検査場はすでに閉鎖されていたからなのであった。
 
人気がない薄暗いロビーを急ぎ足で歩く。
羽田空港は広い。
歩くうちに不安も増している。
 
歩くことようやく南の端のA保安検査場に到着すると、やった!
スターフライヤーのチェックインカウンターと保安検査場は開いていた。
係の女性が暇そうに1人ポツンと立っていた。
大阪関西行きが保安検査中ということも書かれている。
 
ホッとしたのもつかの間、土産物をどうするのか、ということを思い出した。
ふと上へ登るエスカレータの横にセブンイレブンの看板があり上方向の矢印が出ている。
もしかするとコンビニに土産物をいているかも知れない。
東京ばな奈ぐらいはあるかもしれないと思い、それでもあれば無いよりはマシなので買おうと思って店へ行った。
そしてまた驚いた。
土産物は何も置いていなかったのである。
第2ターミナルならローソンにちゃんと土産物をおいているのに〜。
 
しおしおとエスカレータを降り、早すぎることもないが保安検査場を抜け搭乗口へ向かった。
この間、他の客には1人も会わず。
ただししらシ〜〜ンとした空気が漂っていたのだ。
 
さすがに帰りの便が出発する30分程前には乗客が集まってきて搭乗口1番の前は少しはにぎやかになった。
飛行機の中は半分ほど座席が埋まっていて1グループには親子連れもいて少しはにぎやかになった。
 
それにしても羽田空港。
あ〜あ、で衝撃的な寂しさなのであった。


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再びアスファルトの道に戻って奈良方面に向かって歩き始めた。
右手には新興住宅街が。
左手には柿畑が広がる。

「ん〜、よーけなってるな(実っているなの関西弁)。1つ食べたいな〜」

とはリーダーの弁。
何を食べたいかというと収穫時を迎えている柿である。
柿畑の柿の木にはたわわに実る富有柿が。
もちろんこの言葉はリーダーだけではなく、私も他の人も食べたいと思ってたので、柿畑の横で立ち止まることになった。

「1つぐらいとってもかめへんやろ(構わないだろうの関西弁)。」

という意見も出た。
しかしここで柿を無断でむしり取りガブッと食べてその場を発見されると、遺構巡りから警察署巡りになってしまう可能性がある。
しかも我々の中には業界ではそれなりの地位の人もおり「柿泥棒」として新聞沙汰にならないまでも、業界での話のネタになってしまうような危険性もある。
社会的地位を脅かしてまで食べごろの柿を食べるのを我慢できないというわけではない。

「あ、あそこに」

と1人が収穫作業をしている高齢の農夫を見つけた。

「あの、すいません。柿....売ってくれますか?」
「いいよ」

あんがいあっさりと決着。
値段も1個50円というリーズナブルな金額で商談が成りたった。
もぎたての柿を食べるのは、子供の頃に従兄弟に連れられて入った岡山の柿山で食べて以来。
こういうもぎたてという意味では私はぐじょぐじょに熟した柿が大好きなのだが、今回はちゃんとした柿で少し残念だったが、実に美味。
夏の暑さが若干残っている暑い遺構めぐりにはピッタリの潤いなのであった。

しばらく山の中のアスファルトの道が続くと大きな新興住宅街が広がってきた。
もうどこにでもある新築一戸建てが数多く並び、片側二車線の道路の両側には大手外食レストランが並ぶといった光景である。
その住宅街に入る直前の四差路の角に時代に取り残されたような平屋の木造建物がある。
もしかして、大仏鉄道の駅舎?

そんなわけはないだろうと思いながら近寄ってみると、駅舎ではないものの結構古い建物で正直言って地震が発生したら一目散に逃げ出す必要がありそうな建物だ。
しかし趣がある。
最初は廃屋かなと思っていたがよくよく見てみると地域の公民館として使われていて今も文化教室などが営まれている現役の建物であることがわかった。
後で調べてみるとちゃんと観光ガイドなどにも載っていてそれなりに知る人ぞ知るという建物のようなのであった。

実は大仏鉄道の遺構はここからがどうしょうもないくらい詰まらないものになった。
もう光景は新興住宅街。
私の卒業した府立高校は泉北ニュータウンの中にあって毎日駅から学校までこういう光景の中を歩いて通学した。
しかしそのときは詰まらない景色なんてちっとも思わなかった。
新しい家が立ち並び綺麗な街だと思ったのだ。
ところが今「鉄道遺構巡り」として歩いてみると、こんな詰まらない場所はない。
著しく発見に欠け、ただただ日差しのきつい初秋の京都府南部を歩いているという感じでしかない。
京都府南部ではなくて感覚は奈良県なのであったが、それはそれ。
途中、木津川市の水道施設のケッタイな建物以外は見るべきものがない。
そんなエリアだった。
水道施設のケッタイな建物は中世ヨーロッパの塔のような形をした貯水施設で入り口に機関車の絵を描いた「大仏鉄道」の看板がある以外は、かつてこの近辺にあった奈良ドリームランドを一施設を彷彿させるびっくりデザインなのであった。

この新興住宅街に1つだけ大仏鉄道がここを走っていたことを示す印があった。
住宅地のど真ん中にある公園に「関西鉄道」の社標がデザインされた記念碑が建っていたことだ。

関西鉄道は国鉄に吸収されて今は存在しない私鉄だ。
大仏鉄道はもちろんのこと現在の関西本線、学研都市線、大阪環状線の東半分などを作った会社で、その最大の目標は国鉄東海道線に打ち勝つこと。
大阪〜名古屋を最短で結ぶというのが目標だったようだが、今は昔。
すでに歴史の彼方に消え去った会社なのであった。

新興住宅街を抜け南に向かう幹線道路の歩く。
丘を上り、その峠付近に「奈良県」という標識。
ここまでが京都府でここからやっと奈良県というわけで、大仏鉄道の大半は京都府下を走っていたというわけなのであった。

このまま進めば日本で最も美しいというスターバックスの一つがある鴻ノ池運動公園や奈良ドリームランドの跡地があるエリアがあるのだが、新興住宅街の無味乾燥な風景に飽き飽きしていた私たちは方向を変え、大仏鉄道の遺構ルートから離れることにした。
あと見るべきものは奈良県立大の北側になる駅舎があった跡という記念公園ぐらい。

進路を鴻ノ池運動公園直前で奈良街道方面に向かい般若寺を目指した。

大仏鉄道遺構巡りは今旬のハイキングコースになっているようだ。
この日も私達以外にも何人かのハイカーを見かけた。
自治体もパンフレットを整備してWEBサイトで公開。
奈良駅にも置かれていて都心からも近いこともありお手軽だが、なんせ路線があったのは100年も前の話。
しかも9年間しか営業しなかった遺構は多くが消え去り開発でその痕跡さえ大部分はない。

しかし、いい天気のもと加茂から奈良に入ることは古人が京から大和へ至る道に重なる。
それはそれ。
これはこれで結構楽しい15kmの旅なのであった。




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T字路を右手にとるとなんの変哲もないアスファルトの道に出た。
両側は宅地造成前の荒れ地、または工事中、或いは草茫々の山肌が出ている景色のあまりよろしく無いところだ。
ずっと西方向では大きなクレーンが2基ほど立ち並び何やら大きな建物を建設しているのであった。
とぼとぼと少し行くと道が二手に分かれているところに出てきた。
一方は左手の一車線道路で右手は2車線ほどの幅があり、その先には新興住宅地が広がっていた。
まるで私の近所の泉北ニュータウンの一角のようで非常につまらない光景なのであった。
で左手はというと道の左側が窪んでいて下に畑があり、その向こう側がゴルフ場。
前方でこの道は再び交差していてその付近にゴルフ場の玄関口があり、その向かい側に公園がある。
その公園は「大仏鉄道記念公園」という名前なんだそうだが、それらしき遺構は公園にはなさそうだ。

「こっちへ行きましょう」

とリーダーに連れられて左手の土手を下る。
左手の道の下に出てきたのだが道路の下に石積みの橋脚があり、これが「赤橋」という遺構なんだという。

「随分古いですね」
「古いです」
「橋脚は石積みですけど、橋が......あれは木でしょうか」
「木ですね」
「あの上を列車が走っていたんですかね」
「違うでしょ。100年も前の木の橋なんて残るわけがない。多分、それらしく演出しているのか........なんちゃって」



とつまらないことをぐちゃぐちゃ言いながら写真を撮った。
その橋から畑に沿って農耕用の小道を歩くとすぐにレンガ積みのアーチ型の穴が現れた。

「トンネル遺構です」


これが大仏鉄道の梶ヶ谷隧道という名前のトンネルなのだという。

「これ、随分狭いですね。100年経つ間に縮んだんでしょうか。」

と言いたくなるくらい狭いトンネルだ。
軽自動車がやっと通れるほどの狭さなので果たして鉄道のトンネルなのだろうか。
もしかすると大仏鉄道はナローゲージかインディ・ジョーンズに出てくるようなトロッコだったのか。
そんな話は聞いたことがないし、だいたい大和路線にそのまま取って代わられるのだから国鉄の線路幅で車体も国鉄サイズであったことは間違いない。

「このトンネルは線路の下を通っていて水路などがあったそうです」

と立て看板の解説。
なんじゃい。
鉄道のトンネルとばかり思っていたのは実は線路の下の水路のトンネルかい。

少しがっかりした瞬間なのであった。

私は廃線跡のトンネルというので、例えば近鉄電車の旧生駒トンネルやJR宝塚線の武田尾の旧トンネルをイメージしていた。
ところが鉄道のトンネルではなくて鉄道関連施設のトンネルなのであった。

ところが、ここでふとあることに気がついた。
先程の赤橋にしろここ梶ヶ谷隧道にしろ同じ一車線道路の下にある。
ということは........。
そう、上を通っている一車線道路が大仏鉄道の線路跡なのであった。

ここで初めて大仏鉄道がどこをどう走っていたのか。
その線路跡に出ていたことになる。

この遺構巡りのハイキングで初めて感動した瞬間であった。
そして驚くべきことに、これが最初で最後の感動でもあったのだ。

つづく


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竹林を抜けて暫く歩くと最初の遺構が現れてきた。
「観音寺橋台」という橋脚の遺構だ。
この付近の大仏鉄道の路線は現在のJR大和路線と並行していたようで遺構の橋脚と大和路線の橋脚が横並び。
積み方も同じで、

「大和路線の橋脚は大仏鉄道とほぼ同じ時期に作られた」

という説明を聞いて、なるほどと感心した。
すでに大仏鉄道開通時に大和路線構想も進んでいて、最初から大仏鉄道は短寿命を想定していたんじゃないかと思えないこともなかった。
大仏鉄道は奈良市の北側にある丘陵地帯を山越えするため路線の傾斜は最大25パーミルもあった。
25パーミールとは1000m走って25m上がるという傾斜だが、大したことはないと思いつつも当時の蒸気機関車牽引の列車ではパワー不足で色々と問題があったのだろう。
大和路線の橋脚も明治の作ということがわかったので、それもまた知識の収穫であったし、次の木津駅まで大和路線は単線だから将来的には大仏鉄道の橋脚を使って複線化することもないことはないだろう。
電車は蒸気機関車と比べると軽いし、それに今はここを走る貨物列車もない。
一見田舎だけれども大阪近郊ということもあり人口は増えつつある。

橋脚あとを抜けると道はますます山道っぽくなってきた。
路面も前々日に降った雨で少々ぬかるんでいた。
線路がどこを走っていたのかを想像して、この道が線路跡だったら大変だな、などと思いながら歩いているとT字路の行き止まりになった。
正面にはゴルフ場が見える。
左手へ行くと加茂駅方面に戻るようなので、当然のことながら右手曲がり歩いていくとアスファルトの普通の道に出た。
周囲には何もないようだが、この先に次の遺構があるという。

つづく



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加茂駅から当尾への道はなんとなく整備されており少しレトロな町並みだ。
一方、大仏鉄道の遺構へ向かう道は大きめの用水路に蓋をした線路の横のでこぼこ道なのであった。
ハイキング限定のコースなのか。
駅周辺には大仏鉄道の遺構は残っていないためこういう路地のような道を通っていくことで、少しでも遺構っぽいムードを演出する作戦なのか。
よくわからない。
しかし天気は良くて早秋の暖かさと紺碧の空がほのぼのとした気分にさせてくれてなんともいえないリラックスした気分になるのだった。

右手に大和路線の線路。
左手に小学校の校庭を臨むこと暫しすると大和路線の踏切があった。
渡ろうとしたら警報が鳴った。
しばらくすると大阪行の大和路快速がゆっくりと西方向に向けて走り去った。
単線なのに結構な交通量だ。

踏切から向こうは田んぼの中を一直線の道が延びていた。
田舎だ。
久しぶりの田舎がここにある。
私の街も和泉山脈側の山手に行くと田舎っぽくなってくるのだが、しかし山が迫っている関係でほのぼの感はこことは異なる。
子供の頃、農繁期に過ごした岡山の片田舎の関係で平地に田んぼがあってその真中を道路が通っている光景のほうが私には懐かしさと親しみがあるのだ。
しばらく歩いていくと小さな川があり、今度はその土手を南西の方角に歩いていった。
道路幅も狭く、時折農作業の軽トラックが通過する。
空はあくまでも青く、雲もほとんどない。
周囲の田んぼは稲がたわわに実っている。
遠くになった線路を電車が走っている。

この大仏鉄道ハイキングコースでは我々だけではなく他のグループの人達の姿もちらほらと見られる。

やがて道は森の中へと進み始め上り坂になる。
道の両側には竹やぶがあり、葉の隙間から秋の陽光がキラキラと輝き、幅2メートルもないだろう路面にモノトーンのシルエットを映し出している。

「嵐山みたいですね」
「確かに」
「嵐山みたいに観光客がいない分、こっちのほうが静かでいいかも」

嵐山の竹林は京都観光の有名所の一つで私もカミさんと行ったことがある。
実際の姿は観光写真にあるような「静かな京都」ではなく、観光客がぞろぞろと歩き、スマホで写メをとっているような騒々しいところだ。
インバウンド華やかしきコロナ前なんぞ、ひどい場合は中国語が飛び交い京都というよりもパンダが笹食う四川省の山の中、というような感じだった。

それと比べると確かにここは静かで、かつ美しい。

つづく



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現在のJR加茂駅は他の大阪近郊の駅と同じように自動改札があり、複数本のプラットホームがあり、駅前にはそこそこ立派なロータリーがあった。
上り下りとも単線ということを除くと普通の駅なのだが、問題はかなりのローカルな位置にあるためコンビニや売店がない。

「ペットボトルを買おうと思っていたんですけど」

とハイキングの出発地点で飲み物を確保しようとしていたあるメンバーさんは困惑の様子。
コロナのこともあるので、できれば自販機では買いたくないので、

「歩いているうちにコンビニかお店ぐらいあるだろう」

ということでそのまま出発することになったのだった。

加茂駅は大仏鉄道遺構巡りの出発点として最近は利用されているが、そもそもハイキングでなら当尾の里の玄関口でもあり昔から利用者は少なくない。
土門拳の写真で有名な浄瑠璃寺もここ当尾にある。
11世紀の創建であと25年ほどで1000年を迎える。
紅葉が有名で学生時代に私も原チャリで大阪の堺から3時間かけて写真撮影に来たことがある。
学生身分なので思ったような写真は撮れず、今そのフィルムを見ても、
「なんじゃい、これは。これでも芸大生か?」
と自分自身の力量のなさにに残念な気分になったりする出来具合でもある。
ちなみに三重塔は国宝。
その他国宝、重文が数多あるお寺さんで、1人でボーと参拝するのは観光シーズンに訪れてはいけないお寺でもある。

なお、大仏鉄道同様に奈良の浄瑠璃寺と思ってしまいがちだが、住所は京都府である。

加茂駅の駅前には大仏鉄道の遺構はまったくなく、あるのはハイキングコースを案内する道標だけ。
そこには「大仏鉄道 〇〇遺構跡→」とか書かれていて迷子になることはなさそうである。
大仏鉄道はどの方向からこの加茂駅に接続していたのだろう。
興味あるとこだが、駅前の街道や線路沿いにはそれらしい痕跡はない。

ともかく道標に沿ってあるき始めることにした。

つづく



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今回の遺構巡りの集合場所はJR加茂駅。
ここは大阪方面からの大和路快速の終着点であり、三重県亀山方面への出発点でもある。

この加茂駅はこれまで利用したことがなく初めての下車となった。
しかし下車したことはないが、通過したことは1度だけある。
かれこれ半世紀ほどまえ私が小学生のとき乗った「サヨナラD51 伊賀号」
というイベント列車で停車はしたが下車せず通過したのだ。

当時、関西本線は現在大和路線と呼ばれる難波〜奈良区間も含めて、大阪近郊路線でここだけが電化されていなかった。
したがって気動車が主力だった。
私の父の故郷である岡山県を走る吉備線も当時は気動車で、
「同じレベル」
の田舎の列車なのであった。
しかも当時は気動車だけではなく時々SLも走っている路線だったようで、私はしばしば天王寺駅の待機線で煙を吐きながら止まっているSLを度々目撃することがあった。
大阪環状線の103形型オレンジ色の電車が走っている横にSLがいる、という独特の風景があった。

この頃、次々に引退の始まったSLに客車を牽引させて伊賀方面まで出かける特別イベントの列車が企画された。
これが「デゴイチ伊賀号」で、私は両親にせがんできっぷを買ってもらい乗車することにあいなったわけだ。
どうしてもSLに乗ってみたいという欲求が鉄道大好きの小学生には魅力的だったのだろう。
でもよくよく考えてみるとSLに乗るわけではなくてSLが引っ張る客車に乗るわけで、蒸気機関独特のシュッポシュッポというサウンドを聞くことは乗車中ほとんどなかった。
SLに乗っていると実感したのはトンネルに入る前に汽笛が聞こえ、父と母が窓を締めようとしたことが普段乗っている電車と大きく異なりビックリしたものだった。
SLにとってトンネルは迷惑以外のなにものでもなく、煙が客車内にも充満し、あたりが煤けるという初めての経験をしたのであった。

で、この時はまだ地上にあった湊町駅、つまり今のJR難波駅で伊賀号に乗り込み、天王寺、奈良と経由して関西線で伊賀上野まで行く小学生の私にとってはワクワクする旅であった。
とは言いながら、実のところあまりディテールを覚えていない旅でもある。
列車は全席指定で私は当然のように窓側へ腰をかけて外の景色を眺めていた。
奈良をすぎると線路脇にワイヤーが張られているのが目に止まった。
ワイヤーは1本だけではなく2本あるところや、もっと複数本あるところも目撃した。
電線でもないあれは一体なんだろう?
と首を傾げていると横に座っていた父が、
「あれは信号やポイントの操作をするためのワイヤーじゃ」
と岡山弁で言った。
当時この路線にはATC装置なんか無いばかりか電気式の信号も存在せず、信号機はランプの横にバーみたいなのがあって、それが上下にカシャンと動いて切り替わる手動式信号機があり、ポイントも現在では模型でしか見ることのできない手動式のレバーを人が操作するポイントがあるだけで、実に素朴かつアナログな設備しかなかったのだ。
ワイヤーは信号所、あるいはポイント操作所から延々とつながっていた動力伝達用のワイヤーなのであった。
この仕組の列車運行システムは後にも先にもこのときしか見たことがなかった。
ついでながら「タブレット」なるものを目撃したのもこのときが初めてで、木津駅から東は単線だったため、列車はタブレットという大きな輪を交換しあい単線区間で列車が重複しないように、つまり衝突しないように運行していたのであった。
このタブレット方式はそれから30年後にミャンマーで目撃するまで出会うことはなかった。

ということで話は延々と遠回りしてしまったが集合場所の加茂駅はそういった信号やポイントの操作用レバーが設置されていた駅であり、タブレットを引っ掛けるポールなどもあった、そんな駅なのであった。

もちろん、今はそんなものは無い。

つづく


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古都奈良というと日本史のスタート地点ということで様々な歴史ポイントが点在する。
東大寺。
興福寺。
元興寺。
法隆寺。
薬師寺。
唐招提寺。
飛鳥寺。
などなど。
とお寺だけでも全部足すと多分創建1万年は軽く超える1000年単位のお寺が点在。
それだけではなくて、
平城宮。
藤原宮。
飛鳥板蓋宮。
と都の跡も数多い。
古墳や城跡、建築物に彫像などの芸術オブジェ、古民家集落など数多あり、京都へ行っても、
「なんや鎌倉時代? 最近やな」
と奈良にハマると奇妙な錯覚を起こすことになる人も少なくない。
これを「奈良病」というらしいが、我が家も私を含めてこの病の気配があることは否定できない。

で、古いものはたくさんあっても近代遺産となると少ないかな、と思っていたらこれが違う。
近いうちにホテルになるという奈良刑務所に奈良駅舎、日本初のケーブルカーなど結構多い。
アインシュタインが弾いたピアノがあるという奈良ホテル本館は予算さえ合えば気軽に訪れることのできる近代遺産だ。

これが鉄道遺産で廃線跡となると実は奈良には4路線もある。
奈良といえば近鉄電車だが、それだけではなかった。
そう、古都奈良は最近注目されている廃線周りにはうってつけのところでもあったのだ。

4路線のうち一部区間が現在も現役の路線が大和鉄道の王寺〜桜井、天理軽便鉄道の法隆寺〜天理の2路線。
前者は今は近鉄田原本町線として王寺〜田原本町を走っていて、田原本町〜桜井が戦争中に運行を停止し廃線。
今は県道になっている。
後者は大正中期に近鉄線に買収されて法隆寺〜平端が廃止。平端〜天理は近鉄天理線で現在も運行している路線だ。
こちらは路線跡はほとんど残っておらず、一部石垣などにその面影を留めるだけになっている。

4路線のうち1路線はつとに有名なJR五新線。
奈良の五条駅から和歌山の新宮駅までの吉野を山々を貫く無謀な路線で昭和54年まで工事が続けられ五条〜西吉野の大塔村(現五條市大塔町)間の土木工事がほぼ完成していたが、ついに線路が敷かれることはなく久しくバス専用道として利用されていた。
廃線が決まった時に南海電鉄と近鉄が買収を申し出たがJRが拒否してお蔵入り。
つい最近までバス道は利用されていたが経年劣化のメンテナンス費の問題で今は廃墟になりつつある勿体ない存在でもある。

そして最後の1路線が大仏鉄道。
大仏鉄道といっても東大寺の中を突っ切っていた鉄道ではない。
そんなのあるわけがない。
大仏鉄道は明治31年に現在のJR奈良駅とJR加茂駅の間で開通した関西鉄道の路線だった。
関西鉄道は当時、国鉄の母体である省線の東海道線に対抗すべき大阪〜奈良に鈴鹿山脈の南側を通る路線を敷設。
大阪市の片町から奈良、亀山を通過して名古屋に至る路線を開通させ張り合っていたのだ。
今のJR関西本線とJR学園都市線がそれにあたる。
この路線ができたとき、奈良を経由するための路線が必要だった。
奈良にはすでに大阪鉄道という会社が敷設した現在のJR大和路線があり、それと接続することによって大阪の湊町駅(現在のJRなんば駅)と名古屋を結ぶという壮大な計画のために敷設されたのが大仏鉄道なのであった。

この大仏鉄道は現在のJR大和路線の奈良〜木津〜加茂間が開通することでたった9年間でその役目を終え廃線となった。
明治にできて明治に廃線になった路線だから、これまでほとんど一般に知られることのない鉄路なのだった。
これが俄に注目を集め始めたのは廃線ブームもあることながら、奈良という観光地の至極便利なところにある手軽なハイキングコースとしての価値が見いだされたからだろう。

で、今回私はこの大仏鉄道の遺構をめぐるハイキングに参加することになったのであった。

つづく





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近鉄特急に乗っていると、とっても気になる駅が出てくる。

「津駅」。

大阪鶴橋から名阪特急「ひのとり」に乗って名古屋へ向かうと「次の停車駅は『大和八木』」と出るか、列車によっては「次の停車駅は『津』」とアナウンスされる。
時間によって停車駅に「大和八木」が追加されるのだ。

このとき「津」とアナウンスされると、客室前方扉上のディスプレイには単に「つ」とひらがなで表示される。

「つ」

ディスプレイのど真ん中に単に「つ」とだけ表示されるので、なかなかな趣がある。
知らない人が見たら故障しているんではないかと思うかもしれない。
そんな状態だ。

全国の地名で最も短い名称の街「津」。
漢字で書くとそれなりに締まりがあるのだが、これをひらがなで書くと「つ」なので「締り」以前の感覚がある。
画数も1。
これ以上省略のしようがない。

最近の電車の表示は日本語とアルファベットだけではなく本漢字、簡体字、ハングルも表示されることがある。
この津も同様だが、これがハングルで表示されると「쓰」となり、なんとなくニコちゃんマークの親類ではないかと思ってしえるところもあり、ますます「ん〜〜〜〜〜」という感覚がついてくる。

津駅。
「つ」駅。

もしかすると難読地名よりインパクトは強いかもしれないと思える近鉄特急での移動なのだ。



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コロナ禍もここまで来るとは思わなかったというのがJR山陽新幹線の車内販売休止のニュース。
利用者がガタ減りしている山陽新幹線でさらにガタ減りしている車内販売を来月からしばら休止するのだという。

えらいことではないか!

特急、急行の車内販売といえば子供の頃は旅行の楽しみの一つなのであった。
何かを売りに来るごとに私は何かを買ってもらいたくてドキドキしていたものだ。
弁当&お茶の定番はもちろん。
アイスクリーム、ジュース、お菓子などなど。
車内販売のカートの中は夢の詰まったワンダーランドと言っても過言ではなかった。

大人になっても出張帰りのビール販売は必需品であるし、ホットコーヒーなんかは朝のひとときに欠かせないアイテムでもあった。

それがコロナで休止とは。

在来線の特急や私鉄の特急では車内販売を見かけなくなって久しい。
以前、甲府から静岡まで身延線の特急に初めて乗った時に車内販売が無いので愕然としたことがある。
あんなローカルな特急、何も買わずに飛び乗ると途中で買い物をするのは車内販売しかないではないか、とどこに怒りをぶちまけたらいいのか悲しくなったことがあった。
近鉄特急から車内販売が消えたときもショックなのであった。

このように特急の車内販売は新幹線が最期の砦だったのに。
コロナ禍である。

飲食に関するあらゆる災いはついに新幹線にまで及んだ。
恐ろしきかな、なのである。


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