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聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働(2024年、大宮)

2024年09月08日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働

ブノワ・ワリエ神父

主日と祝日を聖とすること

「安息日に人を癒やすことは合法か」

律法学士やファリザイ人は、私たちの主が安息日に病人を健康にして、愛徳のわざをなさったことを批判しましたが、彼らはその日、家畜を危険から救うことを、一瞬たりとも躊躇しませんでした。

現代のカトリック信者の多くは、その反対に、別の極端なところにまで行っています。彼らは、主日や祝日に、罪の意識を持つことなく働き、いや、「今日は休日なのだから、少しぐらい楽しんでもいいだろう」と言いながら、罪深い楽しみにふけってさえいるのです。

古代ユダヤ人の過ちと、この現代のキリスト信者たちの欺瞞から、皆さまをお守りするために、私は今日、主日と祝日を聖とすることについてお話しし、その日には何を避け、何をすべきかについて説明するよう努めようと思います。

I.主日と守るべき祝日には、肉体労働をすべて避けなければならない。

肉体労働とは、通常、使用人、日雇い労働者、職人によって行われる、骨の折れる体を使った労働のことです。つまり、精神の能力よりも肉体の力を必要とする、あらゆる労働、あるいは、人間の永遠の幸福ではなく、この世の幸福を目的とする、あらゆる労働のことです。いわゆる芸術というものは、肉体よりも精神を使うもので、理解力の発達、あるいは、無害な娯楽や精神的なリラックスを目的とするものですから、肉体労働ではないため、主日や祝日に禁じられているわけではありません。したがって、主日と祝日に、芸術や科学を教えたり、勉強、あるいは鉛筆画、絵画、音楽という芸術に取り組んだりすることは、夢中になりすぎたり、主日の義務の遂行を妨げたりしない限り、合法なのです。

ただし、肉体労働を主日と祝日に行うことが合法である場合が四つあります。

(a)食事の準備や、皿洗い、食卓の後片付けなど、短い時間の家事や軽作業の場合。

(b)絶対的な必要性がある場合。キリストご自身がそう教えておられます。したがって、消防署が火事を消そうとするのは合法です。収穫期に雨天が長く続くなら、天候が良い場合はいつでも、主日であっても、農民が作物を穫り入れることは正当化されます。

(c)教会や祭壇の掃除や装飾など、天主をたたえるために労働を行う場合。

(d)隣人愛が私たちに義務付けている場合。今日の福音にあるように、安息日に善い行いをすることは合法です。母親が病気の子どもの世話をするために、ミサを欠席しても構いません。自分の家で大掃除をすることは許されませんが、困っている人のために大掃除をすることはできます。「まことに私は言う。あなたたちが、私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。

これらの例外の場合でなければ、主日や祝日に3時間以上肉体労働をすれば、重い罪を犯すことになります。

2.主日と祝日には、すべての罪深い行いを避けなければなりません。

聖なるものは聖なるものに保たなければなりません。したがって、主日と祝日には、明らかに罪深いものはすべて、特別な注意を払って避けなければなりません。「特別に主に捧げられた日を、この世の愚行やむなしい快楽に費やすことは、天主に対する大いなる侮辱、一種の冒涜とさえ言えるのではないだろうか」(聖キュリロス)

II.主日と祝日には何をしなければならないか。

1.私たちは、ミサにあずからなければなりません。主日と祝日にミサを拝聴することは、教会の厳格な戒律です。私たちは、ミサの全体にあずからなければなりません。自分の過ちのせいで遅刻した人は罪を犯しています。守るべき日のミサに、奉献誦が始まってから来ることは、大罪です。

2.その日には、悔悛の秘跡とご聖体の秘跡を受けることが勧められます。教会の最初の数世紀には、すべての主日のミサでご聖体を受けることが、信者の普遍的な習慣でした。殉教者聖ユスティヌスは、病気やその他の障害のためにミサを拝聴することができないキリスト信者には、ご聖体を持って行ったと伝えています(少なくとも、月に一度は告解に行きましょう)。

3.私たちは、主日を聖としなければなりません。これは天主の掟です。全体的には、ミサにあずかれば掟を果たします。しかし、主日は、自分のため、あるいは子どものためにカテキズムを学ぶのにふさわしい日でもあります。それは主日の義務ではありませんが、私たちには、信仰を学ぶという一般的な義務があります。(今日のカトリック信者が、カテキズムの簡単な質問にさえ答える義務があるとすれば、ずいぶんと恥ずかしいことでしょう。また、私たちには、知らなければ知らないほど、カテキズムを熱心に学ぶという義務があるのです。)

4.最後に、主日と守るべき祝日には、愛徳のわざ、特に肉体的・霊的なあわれみのわざを行いましょう。聖ヤコボが、「父なる天主に対して、清く汚れのない宗教とは、こうである。貧しい孤児とやもめを見舞い、この世の汚れに染まらず、自ら清く身を保つことである」(ヤコボ1章27節)と言うようにです。

結論として、親愛なる兄弟の皆さま、私は、初期のキリスト信者の良き模範に倣い、主日と守るべき祝日を、恩寵と祝福と救いの日とするように過ごすことを、切にお勧めします。

主日は主の日です。ミサを拝聴した後、家庭で、家族と一緒に、キリスト教的な方法で主日をお祝いしましょう。カテキズムの本や信心の本を読み、世俗的で罪深い娯楽を避け、あわれみと愛徳のわざを行ってください。

きょう私たちは聖母の誕生日を祝っていますが、願わくは私たちが主日を聖とするのを守れるよう、聖母が助けてくださいますように。

要するに、願わくは、主の次の御約束が皆さまのうちに成就しますように。「安息日を汚すことを避け、私の契約をしっかり守るなら、私は彼らを聖なる山に導く」(イザヤ56章6節)。アーメン。






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