古代の中国には伝説の椿の大木がある。
その名も「大椿」。人の長寿を祝っていう語の語源だ。
椿は「ちゃんちん」と呼ばれ、荘子の逍遥遊篇に「上古に大椿というものありき。 八千歳を以って春となし、八千歳を秋と為せり」とある。壮大な荘子世界を象徴する一文。
伊豆大島の岡田にある「港が見える丘」。この近くに木の仙寿椿と名づけられた椿の大木がある。
幹周りは1.74m。高さは、28mmの広角レンズの水平角を約65.5度とすると、5m離れてもファインダーから梢の部分がはみ出してしまうから、樹高10mに届くものと思われる。
10mを越す大木の頂まで水が上昇する仕組みは、教科書では根から吸い上げる力、葉が蒸散で上へ引く力、水の柱が植物体内で
連続していることなどと説明しているが、確かなことはまだ分かっていない。
樹皮はなめらかで灰白色、時に細かな突起がまばらに出る。
何者にも遮られず、大らかに、のびのびと枝を張る姿に感動。見上げる高さのこずえに、いくつかの花。
咲きそろう時は、きっと見事なのだろう。
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波音がすぐ近くに聞こえる海沿いのレストラン@La Costa Verde
住所 Playa Barranquito s/n, Barranco, Lima, Peru
247-1244
ペルーの首都リマ。ここには900万の人々が住んでいる。
リマは太平洋に面しているため、シーフードが料理の中心だ。セピーチェとティラディトという刺身料理が特に有名。
セピーチェはスズキなど新鮮な白身の魚を刺身にスライスして、ライムをたっぷり絞って食べる。
ティラディトは薄くスライスした生の刺身の上に、数種のソースに唐辛子類を加えたものをかけて食べる。
和食とともに、ペルー料理がヘルシーとアメリカで人気上昇中だ。
さて、名物のセビーチェとシーフードライス。
このレストラン、ビュッフェの品数が多くてギネス登録されているとのこと。
食前酒にピスコサワー。ピスコ (Pisco) は、ペルー原産のブドウ果汁を原料とした蒸留酒。「ピスコ」という言葉は地元民族の言葉で「神の使いの鳥」を意味する。色は無色透明、あるいは淡い琥珀色でアルコール度数は約42度のお酒。
サワーで割ったカクテルは、甘みがあって、レモン風味がさわやかでとても飲みやすい。しかし、ピスコ・サワーにしてもまだアルコールは十分高いので、ゴクゴク飲んでしまうとちょっと危険。
すっきりした飲み口からイタリアで人気が高まるディスティラート・ディ・ウーバとおんなじかな。
ということで、ケチュア語で「トゥバナン・チス・カマ(またね~っ)」ヾ(´ω` = ´ω`)ノ
El enigma Nazca [Peru's City of Ghosts]
https://www.youtube.com/watch?v=tSqe6DlGYkk
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リマ(Lima)は、人口約800万人のペルー共和国の首都。
太平洋に面したリマク川の畔のリマは、16世紀から17世紀を通して、スペインによる南米植民地支配の拠点として、アルト・ペルーのポトシや銀山の銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点となったことで栄えた。
リマの街中には植民地時代の面影を残す建築物やヨーロッパ文化とインカ文化の織り成す情緒ある町並みがひしめきあっている。
一方、都心を過ぎると、じきに、乾燥した赤茶けた地面がかなたまで広がり、その中にぽつりぽつりとマッチ箱のような素朴な家が点在する。
家を持たぬ貧しい人々が、自分で好き勝手な場所に、エステーラというみずがやで編んだシートで一部屋作って家族全員が住んでいる。雨が降らないから屋根もないらしい。
インヴァシオン(侵入)と呼ばれるこの行為は1980年代から非常に活発になり、私有地だろうが国有地だろうが勝手に侵入。
最初は何の設備もないが、ある程度の戸数がまとまれば、井戸が掘られ、さらに電気がひかれるようになる。そうやって、集落ができていく。
砂丘にはアドレスだろうか、ペンキで地域の名前が書かれてある。
ペルーでは、アンデス山岳地帯の耕作限界地域に極貧の農民が多く、ペルーの最も貧困な10%の人口のうち、59.8%はシエラと呼ばれる山岳地帯の農村部に集中している。1970年代に入ってから、農村部の貧困問題が深刻化し、農業失業者がリマ・カヤオ首都圏などの都市へ職を求めて移住した結果、都市部の移住者の人口が急激に増えた。
しかし、都市のフォーマル・セクター(Formal Sector)における工業やサービスなどの経済部門に移住者の労働力を吸収する力がなく、農村地域からの移住者は非合法生活を余儀なくされ、都市部スラム居住区の人口(貧困層住民)が増大した結果だ。
そしてペルーでは生活保護のような仕組みはないようだ。その代わり、生活に困っている人は施しを求めて物乞いをしている。
現地の人は割りと物乞いに対して親切で、小銭を施している様子を目にする。
路上には、露天商、靴磨きをする子供。ペルーの義務教育は11年間。だが、公教育は余り普及しているとはいえない。
ペルーでは200万人以上の子どもたちが労働に参加。都市部に暮らす子どもの5人に1人、農村部では5人に4人が何らかの形で働いているそう。
その多くが経済的な問題を抱えており、学費が払えない、家族を養うために働く必要がある、といった事情から義務教育を放棄せざるを得ないケースも少なくないらしい。
ペルーでは、正月休みというのはなく、1月1日だけが休み。
リマの大晦日は、普段通りに仕事。早めに切り上げて、みんな帰宅するようだ。だから、31日の午後は道路が車でめちゃ込み。
というのも、リマにはほとんど電車が通っていない。だから基本的な移動手段はバスか自家用車。
黄色いものを身に着けていると健康に過ごせるという言い伝えがあるそうで街はそこら中ハデに黄色だ。
帰宅してからは、家族みんなで新年のパーティーの準備。そして、夜には、みんなが黄色いパンツ(街角のあちこちの屋台とかで売っている)を身に着ける。
リマの新年。大晦日のカウントダウンから気の早い花火が上がり始め、新年を迎えるその瞬間は、リマの夜空が花火で埋まるほどあちこちで花火が打ち上げられる。
パンツをかぶった外国人観光客やそれを売る人々、それからところ構わず鳴る爆竹とロケット花火。その後は音楽が流れ、朝まで踊り続ける。
また、ホテルの部屋にはひと房のブドウ。ウエルカムフルーツ?とか思ったが、この地では新年にお願いをしながらブドウを12粒たべるのが習慣とのこと。
恋人たちの公園(Parque del Amor)。ミラフローレスの海を望む公園。中央には、恋人が抱擁しキスをする巨大なオブジェが設置されている。
南米の恋愛スタイルのストレートさを実感する。実際、人目もはばからず、あちこちで若い男女が抱き合っている光景を目にする。
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チキンとポテトのチーズ焼き@RF1 エキュート品川サウス店。
大きなチキンソテーにポテトとチーズをトッピング、オーブンでベイクしてある。
チーズとマヨネーズを合わせたまろやかな味わい。
チキンは柔らかめ。
レシピを探したらサントリーのサイトにありました。
http://recipe.suntory.co.jp/recipe/000080
なんか簡単そう。赤ワインにも合うかも。。
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北米のインディアン、南米のインディオの祖先は、約2万5000年前にシベリアに進出したモンゴロイドであるというのが定説だ。
当時は最終氷期の最盛期で、現在のベーリング海は陸地のベーリンジアになっており、ユーラシア大陸からアラスカに歩いて渡れた。
近年のDNA分析によれば、モンゴロイドは、1万4000~1万2000年前にベーリング地峡を渡りアメリカ大陸に進出。また3000~2000年前には太平洋の島々にも移住したとされる。
不思議なのは、南米インディオが、「狭義のモンゴロイド」として、かなり日本人に近いのだが、北米インディアンの遺伝子が「狭義のモンゴロイド」から離れていること。
その一方で、古代の日本人(縄文人)は、日本を離れ、太平洋を越えてオセアニアの島々へと広がっていった。
ラピタ人は、太平洋各地に広がった世界初の航海民族で、ラピタ土器という独特の装飾土器を持つことで知られている。タロイモなどを栽培する農耕民族でもあり、海洋活動に特化した文化を持っていた。航海術を駆使してわずか500年ほどの間に、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、トンガやサモアの島々に拡散し、ラピタ文化を広く展開した。しかし、その文化は、2000年前にこつぜんと姿を消してしまう。
航海手段は、カヌーを改良したダブル・カヌーといわれる2つの船体を板でつないだものを使用。大きいものは全長30mにも達し、新天地開拓のため、食料や園芸植物、飼育する家畜などを載せて旅していた。
航海術は、鳥が飛ぶ方角をはじめ、星や太陽、月などの天文現象と、風や波、雲などの自然現象を最大限に利用したらしい。
・・・南九州など日本の一部とアンデス先住民の白血病ウィルスの型は一致するらしい。北米先住民とはここでも異なる。
つまり、太平洋を渡り、南回りで南米に到達した集団がいるのかもしれない。
事実、ポリネシアでは南米原産のサツマイモが古来からあり、サツマイモをクマラといっているが、南米アンデス高地のアイマラ語ではクマラとほとんど同じ呼び方をする。
また、遺伝子分析により、南中部チリ(Arauco半島の南の側の上の内陸のおよそ1マイル半)のEl Arenal-1と呼ばれている遺跡で見つかったニワトリの骨の遺伝子が、チリから8000km以上も離れたサモアやトンガのニワトリのものと一致したとの報告もある。
大集団でなければ、DNAなどの痕跡は残りにくく、新しい文化を根付かせるのも困難だ。
南回りで南米に渡ったとして、大海に舳先を進めたその動機は、好奇心だったのだろうか。それとも、部族間の対立や争いなどによって出て行ったのだろうか。
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