インカ文明に関する文献を読み進めていると、クスコの街並みは古代インカ文明の秘密を解くカギが隠されているようだ。ちょうど、江戸時代の文化を知るため、現在の京都の町を調べるように。文字を持たなかったインカ文明の手掛かりといえば、旧市街や古い遺跡をたどるしかない。
なので、マチュビチュヘ旅する前にクスコの街のおさらいを。
クスコ市は500年の略奪・戦闘・植民地支配に耐えて部分的に生き残った街だ。
その土地は激しい起伏をもち、旧市街の一番低いところで合流する3本の川が流れている。
街は4区域に分かれる。
この4区域にインカ帝国の4属領が分かれていた。
南西にナスカ地域を含むコンデスーユ、北東に「聖なる谷」の主要都市があるアンティスーユ、北西にチンチャ・チモール王国を含みチンチャスーユ、南東にティティカカ湖と現在のチリ北部をもつコリャスーユ。
アンデス世界への電撃的拡張をなしたバチャクテク・ユバンキ皇帝が作った整然とした首都。
住宅街と宮殿が大部分を占める。
首都の南のコリカンチャ(現サント・ドミンゴ教会)は、四角の広場を囲む一連の建物。船のへさきの形をして壁に囲まれた岩壁は、守護神への供物リャマをささげた場所らしい。
こうした岩壁を含め、規則的に空積みされた切り石、縦勾配のある壁、台形の門、内壁のへこみ(壁龕)はインか建築の典型だ。
また、街を見おろす高所にあるサクサワマン。長さが410mの洋裁宮殿だ。
V字型に外にせり出した城郭のある3組の城壁が並行になって並ぶ。第一の壁の21の角。第二の壁の19の角、第三の壁の18の角。
こうした壁によるジグザグは稲妻をデザインしたとも言われるが、おそらくは、日本の五稜郭のように敵を迎え撃つ際に死角をなくすための構造だったのかもしれない。
忘れてならないのは、地震に対する耐久性をあげるため、各石塊に凹型の切込みを入れて、それに隣の石塊の凸型突起を合わせる技術。
インか建築の驚異的な堅固さの源だ。
バチャクテク皇帝と共に1438年から始まったのではあるが、1533年、コンキスタドーレスに征服され、インカ文明は100年弱しか続かなかった。
この一世紀足らずの間に、インカ帝国は人類の歴史上最も驚くべき社会組織を作りあげた。
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