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tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

ベロニカは死ぬことにした

2007-11-05 20:01:37 | cinema

前にも書いたが、利己的遺伝子を持つ自分を繁殖させることが至上の目的であるヒトが自らの命を絶つのは、”集団や種”の利益のためでは決してない。ヒトに限らず、闘争も回避もできない深刻なストレスにさらされたすべての感情を持つ動物は、脳内麻薬様物質(オピオイド)を大量に分泌し、その結果、精神活動の麻痺や感情鈍麻が起こり、死の恐怖から救われるようになっている。さもなければ、死の恐怖からむやみに闘争し、逆に自らの生命を脅かす事態が起こるからである。それほど、死の恐怖というものは動物の本能の底に沈む基本的な感情なのだ。
それではなぜレミングは集団で移動し、海にたどり着いた集団が大量に死ぬのであろうか。この伝説的な「レミングの自殺」は、「集団にとって有利」だからではなく、実は繁殖しすぎて元の場所にいては繁殖の可能性の低い個体が、少しは繁殖の可能性が生じる他の場所への移動を試みるために引き起こされるものである。つまり、「個体にとって有利」だから移動がなされるのだ。それが、たまたま運悪く海に到達してしまった場合に集団で溺死してしまうにすぎない。ヒトも動物も本能的に生きることを選択するようにプログラムされているのだ。

この映画の原作者であるパウロ・コエーリョ(Paulo Coelho, 1947年8月24日生まれ )は、ブラジルの作詞家で小説家だ。大学の法学部に進学するも、1970年、突然学業を放棄して旅に出て、メキシコ、ペルー、ボリビア、チリを経て、ヨーロッパ、北アフリカを2年間放浪した後、帰国して流行歌の作詞を手がけるようになる。1974年、しばらくレコード制作に携わるが、1979年に再び仕事を放棄して、世界を巡る旅に出る。1987年、『星の巡礼』(O Diário de um Mago)を執筆刊行して作家デビューし、第2作『アルケミスト』(O Alquimista)が翌年に出てから一挙に彼の名声は世界的なものとなる。そんな彼が書いた”ベロニカは死ぬことにした”。衝撃的なタイトルだが、日常の閉塞感から強度のストレスに伴う”うつ状態”が原因で、ヒロインのベロニカことトワは睡眠薬自殺を試みて失敗する。なぜ、満ち足りた生活を送る彼女が自殺しようとしたのかは、自殺未遂で収容されたサナトリウムの生活で徐々に明らかになっていくのだが、死ぬことにした彼女の心臓には重い後遺症が残り、彼女は「あと一週間しか生きられない」と宣告される。死ぬつもりで服薬自殺した彼女は、1週間しか残されていないとされる人生を生きるため、愛と死に突然直面することになる。

非日常性というものは、日常の中に転がっているものなのだろう。日常に埋もれる非日常性に光を当てて、読者をその魅力ある世界に誘うのがおおよその小説の作法だ。そしてトワは生きていたくないと願ったことから超高級な精神病院という非日常性の世界に身を置くことになり、そのうえ、生か死か否応もなく選択を迫られることになる。結局、愛が彼女を救うことになるのだが。ヒトは本能的に生きることを選択をすることになっているからこそ、この映画の結末に安堵の光を見出すのだろう。
なお、この映画では、原作の社会思想的かつ精神分析的な難解な部分をすべてカットしている。というのも、原作の舞台となるスロベニアの社会背景は、安全な混乱あるいは平和な混乱にある日本には置き換えにくいからかもしれない。また、原作者のコエーリョ自身は精神病院に3回も入れられたとのことだが、彼もまた、似たような悩みを持つ多重人格患者の異性と知り合い、少しずつ愛を通わせていくプロセスを経験したのだろうか。
狂ってしまうのは、惰性によって生きることができなくて、本当の自分を見みつめ続けてしまうからかもしれない。安定指向、惰性の塊のような大人になってしまえば、旅とかの非日常空間に自分を置かないと新たな世界は見えて来ない。でも、強烈な生命感を味わえなくても、性の喜びは日常のありふれた生活の中にも転がっている。それに目を閉ざさないで暮らしたら、ベロニカのように追い詰められることにはならないのかもしれない。愛は利己的遺伝子がヒトに求める感情だ。死とはまったく違う場所に位置するものなのだから。