彦四郎の中国生活

中国滞在記

コロナ禍の中のお盆帰省:中国人留学生も一緒に「海・山・里・川」福井県南越前町の私の実家に来る

2020-08-19 08:44:13 | 滞在記

 4月~5月期間の新型コロナウイルス第一次感染拡大を大きく上回る6月中旬頃からの第二次感染拡大による「コロナ禍」。東京での第二次感染の始まりから全国への感染の広がりへと、2カ月間を経過した今も、いつになったら感染拡大が減少傾向になっていくのかさえも分からない日本の状況。当然に「お盆帰省の自粛」が全国的に呼びかけられた。毎年、故郷にお盆帰省をしているという人の8割あまりが帰省を取りやめにしたとのテレビ報道もされていた。

 今年のお盆帰省はどうしようか?妻とも話をした。毎年、お盆の時期には、私の息子夫婦、娘夫婦と子供たちが福井県南越前町河野地区の実家に13日~15日にかけてやってくる。実家には80歳代後半の母が一人暮らしをしている。「お盆帰省」による後期高齢者への感染の懸念報道もされている。母は、妻や娘・息子夫妻や曾孫たちがお盆に来ることを心待ちにもしてはいるが‥。

 実は、母の信仰している宗教の関係で、母は家のお仏壇やお墓のことは長年にわたって携わらない。このため、私は日本に滞在している間は実家に少なくとも1ケ月に1~2度は京都から里帰りをして、お仏壇を開けたりお墓詣りなどに行っている。

 今年のお盆は、コロナ禍の問題があっても私だけでもお盆帰省をしてお仏壇を開け、花を飾りお供え物をし、亡き父や母(実の母・6歳の時に亡くなる)、祖父母や先祖の霊をお盆の家の仏壇に迎え入れなければならない事情があった。14日には檀家寺のお坊さんも念仏をあげに家に来るので迎えなければならない。また、お墓にも花やお供え物をする必要があった。

 8月10日頃までにお盆帰省をどうするかという相談を妻や娘夫妻、息子たちと相談。息子たち夫婦はお盆期間の仕事の休みが今年は取れなくて福井行ができなくなったが、娘夫婦は来ることとなった。それから、勤務している中国の閩江大学の教え子で、現在は立命館大学大学院に留学している沈さんも私の実家に来ることとなった。

 沈さんは、コロナ禍のために今年の春節期間には中国(福建省泉州市)の実家に戻れず、もう1年半 中国に里帰りをしていなかった。立命館大学も4月からはONLINE授業のため大学構内への立ち入りも制限され、1年半あまり勤務していた祇園付近の日本料理店のアルバイトもコロナ禍のためなくなっていた。このため、ずっとアパートにとじこもりがちな生活を半年間あまり過ごすことを余儀なくされていたので、私の実家に来ることを7月下旬頃に誘っていた。

 8月13日の朝9時頃に車で妻と自宅を出て、京都市内の立命館大学近くの沈さんのアパートに向かう。10時頃に沈さんとともに3人で福井に向かう。京都市内から八瀬や大原を通り途中峠や花折峠を越える。いわゆる鯖街道の一つ・国道367号線を北上する。この鯖街道は琵琶湖に流れる安曇川の上流域・中流域に沿った道なので景色はとても良い。お盆帰省を諦めた家族連れの人たちなどの車が安曇川の渓流キャンプ場などに溢れていた。

 朽木を通過し安曇川の下流域に入ると琵琶湖が見えてきた。午後1時頃、奥琵琶湖の高島市マキノ町にあるマキノ高原に到着。メタセコイヤ並木近くのレストランで昼食をとった。それから奥琵琶湖の湖岸沿いの海津大崎を経て大浦集落へ。途中、湖岸の岸辺に下りて、竹生島が望め、静かに佇む奥琵琶湖の絶景を沈さんにも観てもらった。

 午後3時頃福井県の敦賀市に到着。日本三大松原の一つ「気比の松原」に案内する。福井県越前市(旧・武生市)で夕食の買い物などをして、南越前町の実家に午後5時頃に到着。娘夫妻家族が一足先に家に着いていた。200軒ほどある南越前町河野村糠地区の集落。例年のお盆時期には里帰りの県外ナンバー車の駐車が集落の路上に多くみられるが、今年はあまり見かけられなかった。

 実家に着いて、さっそくお仏壇を開けて、花を飾ったりお供え物をしたりして先祖の霊を迎える準備をした。いつもの帰省の時は母と私だけの家も、1年に1度、このお盆期間の2〜3日だけは賑やかな食卓となる。来年は東京オリンピックのライブ中継を観ながらお盆が迎えられればいいのだが‥‥。沈さんにとっては、初めての日本人の田舎の実家に泊まる体験となった。私の小さな孫たちも沈さんに1時間ほどで慣れて膝に乗っていた。

 翌朝の14日早朝、檀家寺の背後にある墓地群に行き、花を生けお供えをし線香を灯す。この墓からは少し海が見える。9時頃から、娘の家族と沈さんの6人で村の海水浴場(長島海水浴場)に出かけた。娘婿と一緒に海に潜り冲の岩礁でサザエを探す。

 去年は海が怖かった孫娘の栞(しおり・3歳半)も、今年は海が怖くないらしく、水着で海を楽しんでいた。1歳半になる遙(はるか)は海がまったく怖くないようで波のリズムが面白いようだった。コロナ禍のため、海水浴場は例年よりも、ぐっと人が少なかった。

 海水浴から家に戻りシャワーを浴びて、11時半ころから友人(中学の同級生)の経営する「渓流荘」に向かい20分ほどで到着。まあ、ポツンと一軒家という感じの友人の家。河野川の上流の渓流にイワナやヤマメなどを放流していて渓流釣りをすることができる。毎年、お盆の時期はみんなで14日に行っている。釣った魚はその場で焼いて食べることができる。

 孫たちは冷たい渓流に入り水遊び。沈さんもヤマメの赤ちゃんを2匹釣り上げていたが、小さいので川に逃がしてあげていた。 

 例年は渓流荘の建物の中で囲炉裏(いろり)を囲んで、猟師でもある友人が獲った鹿や猪や熊の肉なども焼いて食べるのだが、今年はコロナ禍のため、渓流荘でも建物内での料理営業は中止していた。このため、今年は外の渓流沿いに3箇所ばかりあるバーベキュー用施設のあるテントで食べることとなった。

 午後2時頃に、渓流荘を後にして、娘たち家族は娘婿の実家のある滋賀県永源寺町へ向かった。そして、沈さんを越前市の武生駅に送って行った。沈さんはJRに乗って京都に戻って行った。武生の友人の父がつい最近に亡くなった。葬式に行けなかったのでこの日、友人の家に行き線香をあげた。

 海(河野地区)・山(今庄地区)・里(南条地区)と川(日野川と河野川)の南越前町。コロナ禍の中での、ひと時の、今年の短いお盆が終わった。

 14日の夕方4時すぎに、実家に戻ると疲れのためか眠くなる。1年ぶりに海で素潜り潜水を1時間ばかりしたためか、体が相当に疲れていたようだ。翌朝15日の早朝、ぐっすりと眠ったためが疲れもとれていた。朝食前に車で2時間あまり、近辺の海岸道路を走る。越前海岸は白山火山帯にあるためか、天然の温泉もいくつかある。景勝地の海を臨める露天風呂も。芙蓉の花が咲いていた。越前町の漁港に立ち寄る。今の季節はブリ漁や夜のイカ釣り漁(漁火・いさりびがたくさん灯る)、冬はカニ漁(越前ガニ)をする船が港に係留されていた。

 15日の午前10時頃に実家を出て京都に向かう。帰路は、琵琶湖の東岸を通り、妻の希望で滋賀県米原市の醒ヶ井(さめがい)に立ち寄る。醒ヶ井は旧・中山道のかっての宿場町。この日、醒ヶ井はたくさんの観光客でいっぱいだった。霊仙山山麓からの地下水が湧き出る醒ヶ井の町中を流れる地蔵川の水の流れはとても冷たく(年間を通じて14℃)、水中に咲く梅花藻(バイガモ)[キンポウゲ科の沈水植物]の小さな白い花の群生がとても美しかった。

 15日の夜、沈さんから私のスマホ(中国で主に使っているファーウェー社製のスマホ携帯電話)の微信アプリに「ドライブしながら寺坂先生の実家にお邪魔しました」というテーマの記事が送信されてきていた。写真も20枚あまりついていた。この記事は日本に留学していたり働いていたりしている中国人や、中国の大学の後輩たちなどの配信グループ仲間などに同時配信されている。あっという間に、日本や中国の多くの人に私の実家行のことが広まったこととなった。

 17日(月)午後、中国・閩江大学での前期(今年の9月~)に担当する講義の一つ「日本近現代文学名編選読」のONLINE での講義準備を手伝ってもらうのために、沈さんに京都の私の自宅に来てもらった。車で午後1時ころに沈さんのアパートに行き、2時頃に沈さんとともに自宅に戻った。自宅からほど近い京都市伏見区淀地区の道路にある気温標示を見ると41℃となっていた。この日は京都地方も今までに経験したことのない猛烈な暑さの一日だった。

 5月上旬から10月下旬までの半年間は夏の気候の私が暮らす亜熱帯気候・中国福建省の福州市。7月8月には40℃を超えることは珍しくもないが、京都の40℃の夏よりも猛烈に湿気が多いので外に出たら5分くらいで汗がでてくる。この気候を中国語では悶絶する暑さという意味で地元では「悶熱(モンロー)」と言う。10分くらいで顔に汗が流れ始める。それに比べるとまだ、京都の40℃は湿気が少ない分だけまだ過ごしやすいと感じてしまう。

 コロナ禍でとても大変な今年の夏のお盆時期、家族たちとの貴重な2日間を過ごすことができたことに、感謝したい。

 

 

 

 

 

 

 

 


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