1945年から1956年までの11年間、ソ連(ロシア)により11年間にわたり極東シベリアに抑留させられた日本人の一人に瀬島龍三氏がいる。ソビエト連邦で、ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ政策がすすむなか、1990年にはソビエト連邦が解体された。そして、シベリアに長期にわたり抑留され、戦犯とされた多くの日本人たちの「名誉回復(戦犯ではないとする)」がなされた。瀬島氏も「名誉回復」がなされた一人だった。
2023年1月27日、ロシア最高検は、終戦後旧ソ連政府によって無実の罪でシベリアに抑留された元伊藤忠商事会長の故・瀬島龍三氏ら旧・日本軍軍人の3氏の名誉回復(復権)措置を取り消した。2022年2月にウクライナ全土に侵攻(侵略)したロシア・プーチン政権は、対ロシア制裁に参加している日本政府への対抗の一環として、第二次世界大戦中の日本の「戦争犯罪」を追求する構えを示しており、対日強硬策の一環とみられる。プーチン大統領は、ソ連時代の外国人捕虜らへの「国際法違反や弾圧」の事実を認めない方針で、プーチン氏の側近らも第二次世界大戦末期の対日参戦(当時の日ソ不可侵条約のソ連側からの一方的な破棄・条約違反)を正当化する発言を繰り返している。
今、山崎豊子著『不毛地帯』(新潮文庫版全5巻)を図書館から借りて読んでいるが、特に第1巻では、主人公の壱岐正が体験したシベリア抑留のことが、実にリアルに描かれている。主人公の壱岐正の実在のモデルは瀬島龍三氏だ。今年になり、映画「ラーゲリから愛を込めて」を見たり、この映画の原作である辺見じゅん著『収容所から届いた遺書』を読んで、改めて日本人のシベリア抑留の過酷さを知ることにもなったのだが、この『不毛地帯』もまた、シベリア抑留の過酷さがドキュメント小説として、リアルに描かれていた。
特に、日本人抑留者の一部が、早く日本に帰還するためにソ連邦の思想教育(ソ連万歳、日本でも共産主義革命を!)を積極的に受け入れ、彼らは、それに従わない日本人抑留者への徹底したいじめと暴行などを行った事実は、この『不毛地帯』では詳しく描かれていた。瀬島氏もまた、これらの共産主義同調の人々からすざましいまでのいじめや暴行を受けた人でもあった。そして、11年間をシベリアで耐え抜いて1956年の最期の日本帰還の船で日本に帰国した。
シベリア抑留11年間のうちで、一度だけ日本に短期間、送還されている。それは1946年に東京での「極東軍事裁判」に証人として参加させられたことがあったのだ。抑留先のソ連邦のシベリアからソ連の飛行機で空路、東京まで運ばれ、「極東軍事裁判」でのソ連側証人の一人として強制的に連れてこられた時だった。ソ連政府は、瀬島氏の日本への帰還(抑留を解かれて日本に帰国できる)の条件として、この極東軍事裁判で「天皇の戦争責任を証言すること」を要請した。だが、証言台に於いて、瀬島氏はこのことを拒否した。このこともあり、瀬島氏のシベリア抑留は11年間もの長きにわたったのかと思われる。
―瀬島龍三―1911年、富山県で生まれる。陸軍大学校を首席で卒業し、陸軍参謀本部作戦課の参謀部員として勤務。1935年に結婚。(その後、2女の父親となる) 関東軍の参謀としても一時期配属される。1945年8月、東京の陸軍参謀本部より、中国大陸の満州国にあった関東軍本部に終戦にともなう武装解除・停戦の命令を伝えるために東京から満州に特使として行き、ソ連軍によって拘束され、以後11年間のシベリア抑留生活を送る。
1956年に日本に帰還。2年後の1958年に「伊藤忠商事」の依属として入社。その後、事業本部部長や副社長などを経歴し、1978年には伊藤忠商事の会長に就任した。当時の日本の五大商事会社には、他に「三菱商事・三井物産・住友商事・丸紅KK」があった。2007年に95歳で死去した。
この山崎豊子著『不毛地帯』を原作とした、映画やドラマがこれまでに作られている。1976年には映画が全国公開(主演は仲代達矢)、1979年にはテレビドラマとして放映(主演は平幹二朗)。2009年にはテレビドラマとして放映(主演は唐沢寿明)されている。
―著者の山崎豊子―私的には、松本清張と並ぶ戦後作家の一人かと思っている。とにかくスケールの大きな作家の一人だ。山崎さんは1924年に大阪で生まれ、その後、京都女子大学を卒業し、毎日新聞大阪本社の文芸部に就職した。文芸部副部長の井上靖(のちの文学者)の指導も受け、小説を書き始める。その後、新聞社を退職し作家となった。新聞社の同僚と結婚。
長編の代表作としては、『二つの祖国』(1983年)、『白い巨塔』(1969年)、『大地の子(1991年)、『沈まぬ太陽』(1999年)、『華麗なる一族』(1973年)などがある。私は特に『沈まぬ太陽』(新潮文庫版全5巻)に感動した。『大地の子』は、原作は読んでいないが、上川隆也主演のテレビドラマを見たが、とても優れたドラマだった。
山崎豊子さんは、「徹底した取材」でしられてもいる。シベリアにも行き、取材している。『大地の子』執筆にあたっては、1980年代に中国に行き、当時の胡耀邦中国共産党総書記(1982年~87年まで在位)とも会い、取材協力を要請している。2013年に89歳で亡くなった。


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