昨日は「書をしよう会」だった。
世の中のカルチャースクールみたいなところは、
壊滅的なくらいに受講者が減っているらしい。
でも、うちの勉強会の中で、地味な会だけど、
「書をしよう会」は、増えていて、会場がいよいよ
手狭になってきた感がある。でも、いろいろな意味で、
この会は、天真庵がお似合いだと思う。
天真庵の二階は、いつでも煎茶が楽しめるような「設え」
になっている。今は黄檗山の木庵の書を飾ってある。
黄檗山を開いた隠元和尚は、中国から、黄檗禅と、禅
とは切ってもきれない、お茶やお花の文化をもってきた。
それとまたきってもきれない、普茶料理、つまり精進料理の
根本みたいなものももってきた。木庵は隠元和尚の意志を受け継いだ。
天真庵の1階のピアノの脇に「生」という書がある。建築家の
白井晟一さんの書だ。白井さんは京都に生まれ、幼いころに
黄檗山で書を習った。成人してドイツに留学して、建築を学び、
松濤美術館や芹沢圭介美術館などを設計した。また彼の「書」
は、文人の書としては、最高峰にあるといわれている。
書家の書、禅林の書に比べ、文人の書というのは、おおらかな
中にも、融通無碍な世界を遊ぶ自由さみたいなものがある。
書をやろう会を主催している貞本さんの「書」は、そんな意味では
この世にふたつとない世界をもっているように思う。
世界中が、ものすごい勢いで、混沌としてきた。
じっとしていては、大変化の洪水に流されそうな勢いだ。
こんな時は、じっとしてはいけないが、あわててもいけない。
ほんとうに自分の行きたい方向、やりたいことを、
見つけ、腹をくくり、命がけで、その道を歩く、みたいなことが
それぞれ、大事になってくるのではなかろうか。
お茶を飲んだり、書をしたりするのは、「自分をみつめる」
という意味では、とても大切なことだ。
お茶・お花・書・蕎麦・日本酒・・・日本には、いい文化がいっぱいある。
今日は「かっぽれ」。ばかになりきる訓練をする会だ。
世の中のカルチャースクールみたいなところは、
壊滅的なくらいに受講者が減っているらしい。
でも、うちの勉強会の中で、地味な会だけど、
「書をしよう会」は、増えていて、会場がいよいよ
手狭になってきた感がある。でも、いろいろな意味で、
この会は、天真庵がお似合いだと思う。
天真庵の二階は、いつでも煎茶が楽しめるような「設え」
になっている。今は黄檗山の木庵の書を飾ってある。
黄檗山を開いた隠元和尚は、中国から、黄檗禅と、禅
とは切ってもきれない、お茶やお花の文化をもってきた。
それとまたきってもきれない、普茶料理、つまり精進料理の
根本みたいなものももってきた。木庵は隠元和尚の意志を受け継いだ。
天真庵の1階のピアノの脇に「生」という書がある。建築家の
白井晟一さんの書だ。白井さんは京都に生まれ、幼いころに
黄檗山で書を習った。成人してドイツに留学して、建築を学び、
松濤美術館や芹沢圭介美術館などを設計した。また彼の「書」
は、文人の書としては、最高峰にあるといわれている。
書家の書、禅林の書に比べ、文人の書というのは、おおらかな
中にも、融通無碍な世界を遊ぶ自由さみたいなものがある。
書をやろう会を主催している貞本さんの「書」は、そんな意味では
この世にふたつとない世界をもっているように思う。
世界中が、ものすごい勢いで、混沌としてきた。
じっとしていては、大変化の洪水に流されそうな勢いだ。
こんな時は、じっとしてはいけないが、あわててもいけない。
ほんとうに自分の行きたい方向、やりたいことを、
見つけ、腹をくくり、命がけで、その道を歩く、みたいなことが
それぞれ、大事になってくるのではなかろうか。
お茶を飲んだり、書をしたりするのは、「自分をみつめる」
という意味では、とても大切なことだ。
お茶・お花・書・蕎麦・日本酒・・・日本には、いい文化がいっぱいある。
今日は「かっぽれ」。ばかになりきる訓練をする会だ。