長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

ドボルザークと涙雨

2011-10-05 17:24:31 | Weblog
二年前に元気が旅立った時、近くの公園の5時のお知らせ、
ドボルザークの新世界がなった。今日もさきほど、裏の大家さん、
福田はつさんが旅立った知らせを聞いた後に、新世界が雨の中で
悲しそうになった。享年86歳。昭和が始まる最後の大正の夏に
生を受け、激動の昭和と平成を生きた。
80歳の齢(よわい)を重ねても、「女らしさと気骨」があった。
店の前を病院にいく道すがらなど、化粧をほどこしてない時は、
「しか」として通った。病院ではなく近くの美容院にいった後は必ず
店にきて、「こんな髪型になった」などといいながら、楽しそうに酒を飲んだ。


昨日、おばあちゃんが楽しみにしていた天真庵のポストカード「墨蹟九」
ができあがり、かみさんが入院先の高石病院にもっていったら、眠って
いたので、もってかえってきた。入院する前日、「これとってて、きっとかえって
きて飲むから」と、「桃」という日本酒のリキュールと、「墨蹟九」を大家さん
ちへもっていった。前の日、「おとうさん(ぼくのことをいつもそう呼んでいた)
におめでとうと伝えて」というのが最後の言葉だった。きっと「墨蹟九」ができあがったことを喜んでくれたのだと思う。

天真庵の建物は、昭和20年3月の東京大空襲の時に焼けて、翌年にたった。
一階が「福田組」という建築会社で、社長はおばあちゃんの父親。
はつさんは、一人っ子で二階で生活した。置き床と掛軸がかざってある向こうの部屋、
がおきにいりだった。狭い部屋だけど、日当たりがいいし、風通しがいい。今は
窓からスカイツリーも見える。

今発売の「DANCYU」に天真庵が紹介されていて、「スパイスカフェ
でカレーを食べた後に、この建物にであって、天真庵を押上にもってきた」
というような紹介をされていた。
25年くらい空き家で、誰にも貸さないという姿勢だったらしいが、
父親で福田組の社長の福田栄吉さんと、ぼくの名前(栄一)に「栄」が
ついていたのに「縁」を感じて、「よし、貸そう」ということになったらしい。
契約の日に不思議なことがわかった。おばあちゃんの息子に向かって、
「こんなめでたい日は、向島のYにでもいって、飲んできなさい」といった。
Yは、栄吉さんが贔屓にしていた向島の料亭だ。ぼくが会社を秋葉原に
創業した昭和59年ころ、よく接待につかっていた料亭でもある。
「こんな不思議なことがあるんだ」と思った。その5分後に、近くの
解体現場で、カウンターの板を譲り受けた。天恩感謝の連続だった。

8月に近所のセシル・モンローが旅立った時、「天国へいったら、
会えるといいな」といっていた。彼の音楽葬はゴスペラの
「ア・ハッピー・デイ!」という明るい曲でジャズマンたちが
明るく送ったそうだ。おばあちゃんも明るいことが好きだったので、
今日は、セシル・モンローのジャズを聴きながら、酒を飲むことに
しよう。「文花一丁目」から、またいい人がひとりいなくなった。

明日は休みだけど、夕方は「ダメ中」
1日1日が、原稿用紙のマスに田植えするみたいに、過ぎたり
きたり。

ドボルザークの「新世界」は日本語で「家路」という曲で
有名だ。みんな、いつか自分の家に帰っていくんやね。

家路

♪遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめる
きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん

やみに燃えし かがり火は 炎今は 沈まりて
眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば
安き御手に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん

合掌