MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

お知らせ

来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。

『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。

『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。

Facebookはこちらです。

『うる星やつら』のdomestication

2008年07月18日 | 翻訳研究

16日にちょっと触れたValerio RotaのAspects of Adaptationについてはまた詳しく報告するが、その中で面白い指摘があった。『うる星やつら』の北米版翻訳で、諸星あたるが鬼に豆をまく場面をハロウィーンのマスクにキャンディを投げつけるように描き直してあるというのである。(確認のため注文した。)これは太宰治の『斜陽』に出てくる医者の白足袋が英語への翻訳では白手袋になったという、よく引用される例よりもずっと面白いので、今後説明する際にはこれを使わせてもらうことにする。

ところでアニメ版『うる星やつら』の第76話「決死の亜空間アルバイト」前半は「ねじ式」のパロディ(オマージュ?)である。画像はその一場面。リンク先で全編を見ることができる。(他に同じつげ義春の「ゲンセンカン主人」とつのだじろうの「うしろの百太郎」がちょっとだけ使われている。)このエピソードが翻訳されているかどうかはわからないが、こういう図像とテキストの引用がある作品を翻訳するとしたら困難を極めるだろうな。(なお後半は『千と千尋の神隠し』に似ているが、時間的には逆で、『千と千尋…』が「決死の亜空間アルバイト」に似ているのである。


「1, 2, たくさん」ではなかった

2008年07月17日 | 雑想
埋め草代わりに気になった記事を。
technobahnの「アマゾンの原住民族、数認識能力は「ちょっと」と「いっぱい」だけ」という記事は「ちょっと」どころかかなりミスリーディングだ。MITのGinson(あのGibsonがこんなことも)らの調査と実験の報告なのだが、「ピラハ族の言語の場合、絶対的数値認識は1~2までしかなく、3以上の数値は全て「ちょっと(some)」と「いっぱい(many)」という概念によって表されれていた」というのでは完全に誤りだろう。こちらのスラッシュドット・ジャパンの記事は、「この部族には「1」「2」「沢山」を表す言葉があると思われていましたが、「1」と思われていた言葉は実際には1から4の数を表し、「2」と思われていた言葉は5か6を表していることが」わかったと、ほぼ正解。MIT Newsの英語原文はこちら。ただ、別の実験について「また、物の数を合致させる作業を行わせた場合、数を正確に記憶して合致させることはできなかったということです」というのは「ちょっと」分かりにくいかな。原文を読んでもよく分からないのだが、「記憶を使わずに数をマッチさせる」というのは、たぶん何かをたとえば5個置いて、「これと同じだけ集めてください」のような作業で、「記憶を使う作業」というのは何かをたとえば5個見せておいて、しばらくしてから、「さっきと同じ数だけ集めてください」と指示するようなことかなと思うのだが。

Comics in Translation

2008年07月16日 | 

Zanettin, Federico (Ed.) (2008). Comics in Translation. Manchester: St. Jerome Publishing はコミックス(マンガを含む)の翻訳についてのおそらく初の包括的な論文集である。編者はイタリアのPerugia大学の人で、執筆者もイタリアの人が多い。総論と事例研究の2部構成で、グローバリゼーションとローカリゼーションの影響、編集・出版の問題、テクスト方略、視覚的メッセージと言語的メッセージの相互作用などのトピックスを扱った13の論文を収録している。とりあえず、日本のマンガを取り上げたTranslating Manga (Heike Jungst)を読んでみた。この論文はドイツにおける日本のマンガの翻訳出版を歴史から翻訳方略まで包括的に論じている。もっとも面白い指摘は、ドイツにおける日本マンガの翻訳がこの4半世紀の間にNidaの言うdynamin equivalence(勝手にトーンまで貼ってしまう)からfomal equivalence(+feigning authenticity)へと変わったという点だろう。これは読者が日本らしさを求めるためだという。いわば本物(にできるだけ近いもの)を読みたいという欲求が根本にあるためだが、その志向とexoticismとの関係は実ははっきりしない。なおドイツのコミック市場で初めて成功を収めたのはテレビアニメと連動した「ドラゴンボール」と「セーラームーン」だったという。(しかし「セーラームーン」は断然実写版だな。)

それでも「絵」が問題になったり、手を加えなければならないケースが出てくる。目標文化の規範から逸脱しているからである。たとえば鬼頭莫宏の「なるたる」は暴力と性の描写が問題になったが、裸に下着の絵を描き加えても無意味なので成人向けコミックスの指定を受ける。法律の制約を被ることもある。「無限の住人」Blade of the Immortalの場合は、主人公の着物にカギ十字(swastika)の模様がついているが、ドイツ語版ではただの十字(cross)に変えられたという。他にも「はだしのゲン」の最初の翻訳があまり売れなかったのは原爆の被災者はコミックスにするようなものではないとか、感情表現があまりにも大仰で生々しく、悲劇的なストーリーにふさわしくないと思われたからだというような興味深い指摘がある。これも文化的規範との軋轢と考えることもできるが、感情表現の点ではおそらく多くの日本人読者も似たような感想をもったと思う。(まあ、絵も下手だったし。)

cosplayをevents where the participants dress up as manga charactersと説明しているのは変だ、competitionsとあるのはコミケのことだろう(コンペと混同したか?)、Naoki UrusawaはUrasawaの間違いだろう、といった小さな瑕疵はあるが、よく調べてあるいい論文だと思う。

その次にあるのがValerio RotaのAspects of Adaptationという論文で、abstractには「コミックスのグラフィックな要素はしばしば文化的翻案を出版社にとって困難で高くつくものにしてしまう。本論文はAntoine BermanとLawrence Venutiの理論にもとづき、翻訳されたコミックスはそのforeign originを顕わにせずにはおらず、そのdomesticationは実質的に不可能であることを論じる」とある。これは読んでみたい。


『記号の系譜』つづき

2008年07月16日 | 

(承前)つまり目標言語に翻訳されたテキストは、それ自体コンテクストを指標し、ここが大事なのだが、それを「変容させ」つつ、類像化されて独自の社会文化的意味を付与される。ここでは「等価」概念はおおざっぱすぎて意味をなさない。(ただし、社会文化的意味は異なってもおそらく何らかの「共通性」は残るだろう。)

ここから先は力不足であまり言えることもないのだが、記号論を媒介にして言語人類学によって知の全体化を志向するという構想は、最終的には(記号論的にはそう言ってはいけないのかもしれないが)知の全体的布置を再構成することに行き着くのかもしれない。その過程で、諸学や現代思想のより具体的な批判(的位置づけ)が行われることを期待したい。

あとは気づいたことを少し。全編を通じて文が長すぎるようである。たとえば65ページ最終行から始まる1文は19行(約680字)に及び、主部(…は)と述部(…と思われる)の間に14行が介在している。p.346の下から10行目の「超越的」は「超越論的」の誤植だろうか。p.363に「「長崎通詞」たちが、近代ヨーロッパの音声中心主義的原理を学んだ最初の「日本人」となった」とあるが、それより1世紀前に日本各地のセミナリオ(コレジオ)で宣教師になるべくポルトガル語やラテン語をピーチクパーチクやっていた(やらせられていた)日本の子どもたちの位置づけはどうなるのだろうか。もっと前の律令制下では学生たちは音博士に中国語の音読を習っていた*。(「近代ヨーロッパの」という限定があるからいいのかな。)ついでにp.194で山口昌男の『本の神話学』が1979年になっているが、単行本の初版は1971年のはず。私、学生時代に読みました。今考えると恥ずかしいが、知的なファッションだったのだ。変な紹介ですみませんでした。

*湯沢質幸『古代日本人と外国語』が手元にないので、代わりに『古事類苑』から。
「我国に行はれたる外国語学は、韓語を以て尤も古しと為す、蓋し三韓は我国との交通尤も早く開けたればなり、次で支那と交通するに及び、漢音,呉音を伝へたり、文武天皇の令を撰ばしめたまふに及び、大学に音博士を置きて読書の音を正し、其後漢語師を置きて訳語の任に当らしめ桓武天皇の朝には大に漢音を奨励し、仏経をも亦漢音にて読誦することを令したり、されど支那語学は支那交通の断絶と共に亦漸く衰へたり」


『記号の系譜 社会記号論系言語人類学の射程』

2008年07月14日 | 

小山亘『記号の系譜 社会記号論系言語人類学の射程』(三元社)。

立教で同僚だった小山先生の新著である。(第2章だけ榎本君・永井君と共著。)1月末に出た本だが、まだAmazonのレビューはもとより、紹介したブログも見あたらない。(タイトルあるいは目次だけの紹介ならあるが。)それには理由があって、おそらく、言語人類学という日本ではあまりなじみのない学問をベースに、パース、ヤコブソンの「記号論の亡霊を呼び覚ま」しつつ、「反・全体化」の言説に抗して、個別性を維持しながら全体を模索するという壮大な「反時代的営み」の書であるためだろう。つまり、多くの前提的知識が必要なため、その理論的内実と構想が簡単には理解できないのである。(僕も理解できないため全部は読んでいませんので悪しからず。)時が経てばしかるべき人がしかるべき紹介なり書評をすると思うが、ここでは先行的におざなりな紹介と自分の関心に引きつけての感想を記しておくことにする。

540ページの大著で全体は5章から構成される。「パース記号論、ボアス人類学、フンボルトの宇宙誌、あるいは「文化と自然」について」という短い「序」に続いて、第1章「社会記号論と言語人類学:全体、再帰、批判、歴史」では現代言語人類学の特徴と系譜を概観。第2章「言語人類学・社会記号論とは何か?」では現代言語人類学におけるコミュニケーションモデルと名詞句階層の問題などを扱っている。第3章「メタ言語学としての史的社会記号論:社会、教育、言語理論の近現代、あるいは、言語帝国主義と言語ナショナリズムの系譜学」では言語イデオロギー、言語教育理論の変遷を記号論的に分析する。第4章「記号言語理性批判序説:記号論の「可能性=終焉」のかくも長き不在」はロックやニュートンなどの言語、コミュニケーション・イデオロギー、社会文化イデオロギーの分析にあてられている。第5章「意味と出来事:現代記号論の系譜」はカント以降の言語研究、社会言語研究の歴史とアメリカ言語人類学の歴史を俯瞰する。(詳細目次はこちらを参照。)

以下ランダムに感想を記していく。パースの記号論については「指標化作用」「類像性」「象徴性」が中心的に取り上げられていて、僕の関心事である「対象」と「解釈項」の問題は主題的には取り上げられていない。しかし、第2章のシルヴァスティンをもとにした社会文化史的コミュニケーション・モデル(p.222-227)は、現代翻訳研究の強力な一潮流である「社会的転回」Social Turnのモデルに転用できる可能性がある。翻訳は、ある社会文化史的文脈にあるテキストが別の社会文化史的文脈に転移される一種の社会文化史的コミュニケーションと考えることができる。翻訳によって原テキストの社会文化史的意味は変容し、さらに翻訳テキストがそれがおかれた社会文化史的文脈の中でその文脈自体を変容させていく、というように。(つづく)


語順は「普遍的」で「生得的」か?

2008年07月11日 | 雑想

Wired Visionの7月9日のエントリーに「『英語式語順は、自然な思考の順番に反する』研究結果」という紹介文がある。これはPNASに載ったGoldin-Meadowの研究を紹介したものだが、実際はタイトルほどの内容ではないようである。簡単に言うと、「SVO型の言語を話す人であっても、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取るよう求めると、主語、目的語、動詞の順番で意志を伝えた」ということであって、Goldin-Meadowは、だから「SVO型言語を話す人は、思考を人間の直観にやや反する言語パターンに変えるので、認識面でわずかなストレスを常に感じているのかもしれない」と言っているだけだ。New Scienceの紹介記事はもっとすごくて、Charades reveals a universal sentence structureというタイトルだ。これはおだやかではない。記事の後半に行くと、Goldin-Meadow argues that this kind of sentence syntax might therefore be etched into our brains. Languages that veer away from this form, such as English, must have been influenced by cultural forces.とまで書かれている。PNASは有料なのでGoldin-Meadowが本当にそう書いているか確認していないが、Language LogでDavid Beaverという人が、PNASの論文(タイトルはThe natural order of events: How speakers of different languages represent events nonverbally.)のどこにも「...etched into our brains」のようなことは書かれていないし、むしろGoldin-Meadowは逆のことを言っているのではないかと書いている。つまり、生まれつつある言語(ここではAl-Sayyid Bedouin Singn Languageのような新しい手話をイメージしている)ではSOV (Actor-Patient-Action)の語順が現れる傾向があるが、そのことは別にその語順がデフォルトのシンタックスとして脳に「刻み込まれている」ことを前提にしなくても説明できる、ということだ。このあたりのことはGoldin-Meadowの別の論文Watching language growを読むとよくわかる。(これもPNASの論文だがこちらは無料で読める。)

要するに、紹介記事の見出しほどの内容ではないということなのだが、上記2つの記事は、言語生得論や普遍文法(UG)、サピア=ウォーフ仮説などを思い起こさせた。Chomskyなどの生得説は「文法が言語モジュールとして人間の中枢神経系にビルトインされている」というもので、これに対してはすでに様々な(しかも強力な)批判があるので、特に付け加えることもないのだが、ひとつだけ不思議に思っていることを書いておきたい。生得説に言うように、普遍文法(UG)が人間の中枢神経系(脳)にビルトインされるのは遺伝子の働きによる。するとUGをビルトインする言語獲得装置の遺伝子(あるいは染色体)に異常や増幅、突然変異、欠損があれば、言語習得が正常には行われなくなるはずである。またその異常は遺伝するから言語習得に異常のある家系が存在するはずだ。聾や精神遅滞、自閉症などによらない言語障害を「特定言語障害」というがそういう障害を持つ家系が存在するはずである。その中には当然健常者もいて、言語獲得のための通常のインプットを行っている必要がある。1990年代初頭にGopnikらがそのような家系(KE家)を発見したと報告した。また2001年にはLaiらがFOXP2という言語障害に関連しているのではないかという遺伝子を発見したと発表した。(しかし正確には、この遺伝子に変異があると、脳の発達異常が生じ、その結果言語障害が起こると推測されているということ。)しかし、2002年にWatkinsらはKE家を調べ直して、Gopnikらの見解を否定している。(有症者には調音
障害と非言語的知能に障害があったとされる。)(以上は中井悟「FOXP2遺伝子研究の最近の動向」に基づく。)

そこで、不思議に思うというのは、もし生得説の言うように言語獲得装置が遺伝的にビルトインされているのであれば、言語獲得上の障害の症例がもっと多数報告されてもいいのではないかということだ。その場合、有症者には聴覚障害や調音障害、精神遅滞、自閉症などがなく、健常な家族からの正常な言語インプットがあるという条件が必要である。ところが、上述のKE家もあやしいということになり、いまのところ他には見あたらないようである。教科書の記述でも、Chomskyの生得説を紹介した直後にアヴェロンの野生児やアマラとカマラ(狼に育てられた少女)、ジーニなどの疑わしい、あるいはすでに否定されているケースを挙げているものもあるぐらいだから、適当な症例が見つからないということなのだろう。生得説、危うくはないか?


第11回国際語用論学会 翻訳研究における文脈分析パネル

2008年07月11日 | 催し

9日のエントリーで来年7月のIATISを紹介したが、IATIS最終日の翌日から第11回国際語用論学会が同じモナシュ大学(+メルボルン大学)で行われ、その中でContextual analysis in Translation Studies という Special panelも行われる。このpanelについて、国際語用論学会のサイトにはまだ詳しい情報がないようなのでここにおいておきます。一度に2つの有力な学会に参加できてしまうわけだ。Abstractの締め切りは8月20日です。


新しい翻訳通訳Web JournalとIATIS 2009

2008年07月09日 | 翻訳研究

trans-komという新しいウェブジャーナルができた。Band 1はJuliane Houseが中心となって2006年の第2回IATIS (CONFERENCE OF THEINTERNATIONAL ASSOCIATION FOR TRANSLATION AND INTERCULTURAL STUDIES)での"Beyond Intervention: Universals in Translation Processes"というパネルの記録をまとめている。全文が読めるのはありがたい。

そのIATISであるが、第3回の会議が来年の今頃(2009年7月8-10日)にメルボルンのモナシュ大学で開催される。2nd call for papersの案内が来ている。General Conferenceの他に22もの様々なパネルが予定されている。関心のあるパネルに参加してみてはいかが。


翻訳通訳学部(研究科でもいいや)を創設へ

2008年07月07日 | 雑想

というようなことをどこかの大学がやらないか、いややるべきだという話が今日のコンパで出ましたが、しばらくは難しいでしょうね。

ところで今日の朝日新聞朝刊26面(求人欄「まちなか情報」)にインタビューが載っています。日本の通訳状況全般の話で、コミュニティ通訳とか勉強の話とか。全国版ではないと思うので見られなかった人のためにここに置いておきます。こういうのはいやなのですが、一応広報の任も担っているので。

学会のHPでいろいろ具合の悪いところ(重要事項のリンク切れとか)があって応急処置に四苦八苦した。スクリプトが全部ウィルス扱いではじかれたり、ディレクトリ構造がわからなくなったり、これで完璧と思ったら(ドットが一つ余計だったりして)つながらなかったり。基本方針としてはブログを利用したJAIS What's Newを正式サイトにしてそれだけで一応の用は足りるようにしておき、元のサイトは長い文書や論文を置く場所にしていくことにする。それにしてもこういう細かい仕事はもうだめだな。


『通訳研究』8号の原稿募集、大会発表申し込み受付中

2008年07月06日 | 催し

これも転載しておきますのでよろしく。

編集委員会では会誌『通訳研究』8号の原稿を募集しています。旧サイト(アーカイブサイト)のリンクが切れておりご迷惑をおかけしました。当面の編集委員会ページを新設しましたのでこちらをご覧下さい。締め切りは例年よりひと月延ばして8月31日とします。投稿規定をご覧の上、投稿をお願いします。(なお左サイドバーの理事会の下にパーマネントのリンクを貼りました。)

大会発表も受け付けています。こちらは締め切りが8月1日です。大会ポスターのページにある発表申し込み要領をご覧の上、申込書をダウンロードして必要事項を書き込み、メールに添付して以下宛てにお送り下さい。

送り先: secretariat(a)jais-org.net あるいは a-mizuno(a)fa2.so-net.ne.jp ((a)は@に変えてください。)