お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■Cheung, Martha P.Y. (Ed.) (2006). An Anthology of Chinese Discourse on Translation Volume 1: From Earliest Times to the Buddist Project. (St. Jerome)
中国一国だけでこれだけのアンソロジーが編めるのだから、すごいことである。これほどの分量の中国の翻訳論が英語になったのは初めてとのこと。Volume 1は紀元前5世紀から12世紀まで、Volume 2は13世紀から1911年まで、全部で250の翻訳論のパッセージを収録している。もちろん知りたかった釈道安Dao Anの翻訳論も収録されている。本文の他に詳細な注とコメンタリーもついている。中国本国にはもっと規模の大きいアンソロジーがあるようだ。このような英訳は英語で論文を書くときには便利だろう。もっとも、我々にとっては中国語の翻訳研究の専門家が中国語から日本語に訳してくれるのがいちばんいいわけだが。
ただ、この本の最初のパッセージが老子「道徳経」の「道の道とすべきは常の道にあらず(これが道だと詳しく説明できるような道はほんとうの道ではない)」The Way (Tao) that can be spelt out (tao) is not the constant Way (Tao).で、コメンタリーでは、「明示化explicitationの試みは固定できない意味を固定することになるだけだ。意味と意味の表現、意味と言語の間にはギャップがある。これは中国のほとんどの作家が支持している考え方で、現代の脱構築の考え方にも通じるだろう。老子のこの言は翻訳にもあてはまる(大意)」というのはちょっと強引すぎるような。日本にも鈴木主悦さんのものなど、何冊かアンソロジーはあるが、いかんせん規模が小さすぎる。日本でもこれぐらいのアンソロジーを作れないか。
■安井稔(2008)『英語学の見える風景』(開拓社)に、「gazumpに対応する日本語の訳語がなければ、gazumpを含む英文は翻訳できない(…)。もちろん説明することはできる。が、説明することと翻訳することとは同じではない、と考えるべきであろう」というくだりがある。安井の翻訳のとらえ方に反論するのは難しいことではないが、それよりも次のような箇所から学びたい。
「ある場面や状況が語彙化(lexicalize)され、gazumpという動詞として記号化されると、その状況は一個の意味単位として、英語における何万何十万にも及ぶ意味単位によって構成されている意味単位の網の目の一部に組み込まれ、他の意味単位との自由な無限の組み合わせが可能となる。(原文改行)統語論的には、主語をとることができ、目的語とも結びつくこともできる。様々の修飾要素をとることもできる。動詞としての登録であるから、現在完了、過去、過去完了、未来などの時制や相の変化を示すことができ、動名詞の形で、主語や目的語の働きをすることもできる。ただ、場面や状況と指定存在しているというだけでは、そうはいかない。同様なことは日本語についてもいえるであろう」
これはある言語で新しく語彙化がなされた時に、新たに形成されるその語彙項目の「価値」(ソシュール風に言えば)とはどのようなものか、その一端について述べていると見ることもできる。「場面や状況として存在している」というのはreferentの一種と考えることができる。そして安井の考えではこのようなreferentを媒介にする翻訳は翻訳ではないことになる。