お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■Franz Pochhackerが'Interpreters and Ideology: From 'Between' to 'Within'' (Across Languages and Cultures Vol. 7 No. 2 (2006)という論文を書いていて、これが面白いというか、いろいろ考えさせられた。
Pochhackerはまず、従来の'In Between'(・・・の間という存在)でimpartial(不偏不党)な通訳者という認識に対して、'Within'(組織や陣営に属した存在)で何らかの「関与」involvementをする通訳者像を提示して考察していく。次に、ヒトラーの通訳者をはじめとするナチスに関与した通訳者(元国連事務総長のワルトハイムを含む)のdenazification(非ナチス化、戦後市民社会への復権)を論じていくのだが、このあたりの問題はたとえば日本で言うと文学者の戦争責任の問題と類比的に考えることができそうだ。もちろん、戦時に軍で働いた通訳者もいたし、伊丹明のように「二つの祖国」に引き裂かれた悲劇の通訳者もいた。また、日本の場合は政治家までが復権してしまう(公職追放解除)。
そのあと、Otto Kadeの「通訳者は労働者階級の立場で通訳すべきだ」というpartialityの例を挙げる。そしてglobalizationの進展により、通訳者が支配的イデオロギーの単なるlocalisersになってしまったという意見や、アメリカのテレビショーや戦争のニュース通訳をする放送通訳者は、大衆的エンターテインメントやアメリカ帝国主義といった支配的イデオロギーに奉仕すべく道具化されているように見えると指摘する。この後の方はPochhacker自身の考えのようだが、あまりに単純すぎると思う。
最後にBabelsという反資本主義運動を推し進めようとするボランティア通訳者の団体を取りあげている。2005年にAIICのサイトで、会議通訳者であるPeter NaumannがBabelsのボランティア通訳の質の低さを厳しく批判し、大きな議論になったという。(Naumannの論文はAIICのwebzineであるCommunicate!のサイトで読める。論文だけでなく、かなりの量のコメントがついていて、印刷すると50ページを超える。)日本でもいわゆるボランティア通訳の役割を、会議通訳との関係でどう位置づけたらいいのかという問題がある。日本にはBabelsのような主張はまだないと思うが、手話通訳の分野では「手話通訳者はろう者の福祉のために奉仕すべきだ」という考えが牢固としてあり、プロフェッショナリズムと対立する構図がある。
で、Pochhackerの論文は、結局もっと通訳者とイデオロギーの関係について考えましょうということで、結論らしい結論はないのだが、終わり近くで、これまでのように国際会議の通訳者に焦点を合わせていると、コミュニティでの通訳のニーズや通訳者の役割についての備えがおろそかになると指摘している。そこからこれまでの通訳研究は異文化間相互作用における通訳者の役割などよりも同時通訳の認知機能を圧倒的に重視してきた。今や通訳研究の「社会的転回」Social Turnの時だ、と唐突に主張するのだが、そういう議論の進め方はないだろうと思う。
長くなるので、ごく簡単に僕の考えを述べておくと、「社会的転回」は必要だがそれ以外にもまだまだやるべきことは多いのである。通訳の認知的側面の研究など緒についたばかりなのだ。研究テーマに流行があるのは当然だけれど、流行らない研究は重要ではないとは言えない。だいいち、通訳者の社会的役割はどうのこうのという「研究」ばかりになったらつまらないだろう。