光市母子殺害事件の判決が死刑で確定しました。わたしも子供と妻を持つ身として,被害者の夫が被告に最高刑を望み,行動し,そうなった…という行動には共感できるものがあります。しかし「皆,敗者」という夫の言葉にも重く,やるせないものを感じます。
被害者がそれを望む気持ちは良く分かりますが,死刑が妥当だったのかどうか?はわたしには良く分かりません。死刑が必要かどうか?…という議論も以前からあちこちでありますが,良く分かりません。これは刑罰とはなんのためにあるのか?…という思想とも多分関係があって,それ自体が社会的合意を得られてないと思うからです。
わたし自身は,刑罰は犯罪抑止のためにあって欲しいと思ってます。つまり犯罪者を懲らしめるための罰とか,被害者を納得させるためのものでは無いと思ってます。犯罪抑止ですから,再犯のある人は社会に出さないで欲しいし,重たい刑をつくることで,犯罪を起こさない人がいるのであれば意味があります。この考え方は,良く裁判で問題になる「悪意」の有無を重く見ないし,被害者の納得感も問題にしないので,おそらく世の中の刑罰はそういう位置づけではないのだろうな…と思ってます。
この視点で考えると死刑の是非は死刑を怖がり犯罪が減れば意味がありますが,死にたくて犯罪をする人にはむしろ悪影響です。ただ死刑になれば再犯はあり得ません。あと冤罪がある以上,簡単に判断できない問題でもあります。終身刑も再犯を抑えることが出来ますが,犯罪者を刑務所で養うコストを,国民が負うべきか?…という問題もあります。ということで,死刑がいいのかどうかを冷静に考えると,答えはなかなか出ません。
とはいえ,いつもこういう裁判の報道を観ていて疑問におもうは,こういう社会的な議論を受けて,判決が変わっていくことです。被害者の納得感や,犯罪者への罰で量刑を望むような声があるように思います。しかし私は,三権分立の原則だと司法はあくまでも法に照らし合わせて,事件を裁くものじゃないか?という気がします。良く行政に「市民感覚」という人もいますが,それもやっぱりおかしくて,司法も行政も立法がつくった法律に基づいて動いていて,法律は選挙で選ばれた議員がつくるのですから,市民感覚や世間の空気はそこで織り込むべきじゃないでしょうか。
市民感覚や世論が反映されると喜ぶ人もいますが,誰の声か分からず,どれだけの人が思ってるか分からないけど,報道が騒いで増殖していくような世論にいちいち行政や司法が振り回されていたら,大変…と思うのはわたしだけでしょうか。
被害者がそれを望む気持ちは良く分かりますが,死刑が妥当だったのかどうか?はわたしには良く分かりません。死刑が必要かどうか?…という議論も以前からあちこちでありますが,良く分かりません。これは刑罰とはなんのためにあるのか?…という思想とも多分関係があって,それ自体が社会的合意を得られてないと思うからです。
わたし自身は,刑罰は犯罪抑止のためにあって欲しいと思ってます。つまり犯罪者を懲らしめるための罰とか,被害者を納得させるためのものでは無いと思ってます。犯罪抑止ですから,再犯のある人は社会に出さないで欲しいし,重たい刑をつくることで,犯罪を起こさない人がいるのであれば意味があります。この考え方は,良く裁判で問題になる「悪意」の有無を重く見ないし,被害者の納得感も問題にしないので,おそらく世の中の刑罰はそういう位置づけではないのだろうな…と思ってます。
この視点で考えると死刑の是非は死刑を怖がり犯罪が減れば意味がありますが,死にたくて犯罪をする人にはむしろ悪影響です。ただ死刑になれば再犯はあり得ません。あと冤罪がある以上,簡単に判断できない問題でもあります。終身刑も再犯を抑えることが出来ますが,犯罪者を刑務所で養うコストを,国民が負うべきか?…という問題もあります。ということで,死刑がいいのかどうかを冷静に考えると,答えはなかなか出ません。
とはいえ,いつもこういう裁判の報道を観ていて疑問におもうは,こういう社会的な議論を受けて,判決が変わっていくことです。被害者の納得感や,犯罪者への罰で量刑を望むような声があるように思います。しかし私は,三権分立の原則だと司法はあくまでも法に照らし合わせて,事件を裁くものじゃないか?という気がします。良く行政に「市民感覚」という人もいますが,それもやっぱりおかしくて,司法も行政も立法がつくった法律に基づいて動いていて,法律は選挙で選ばれた議員がつくるのですから,市民感覚や世間の空気はそこで織り込むべきじゃないでしょうか。
市民感覚や世論が反映されると喜ぶ人もいますが,誰の声か分からず,どれだけの人が思ってるか分からないけど,報道が騒いで増殖していくような世論にいちいち行政や司法が振り回されていたら,大変…と思うのはわたしだけでしょうか。