というわけで昨日の追記…,またうまく言えないかもしれないけど…。
要は「科学的立場」でものをいうか,それ以外の立場でいうか,ということかなぁ…と。
人間は議論したりするときに科学的立場,もう少し広げると論理的立場で物事を語らないとなかなか相手に伝わって行きません。感覚的だったり,思い込みだけで話すと誤解されます。ですが,科学的所見や論理的な思考だけで人間は生きてるわけじゃなくて,ココロの中の多くは非論理的でしょう。
「偽薬には効果があるものもある」というのはほとんど科学的立場から言って当たってます。ですが,偽薬の中身というのは非科学的です。方法論として捕らえると正解ですが,中身を取り出すと間違いであるという意味で偽薬の話はややこしい。
宗教とかその他のセラピーとかだってそういう部分がたくさんあって,中で言われている言葉を科学的立場で問うと間違ってる場合がたくさんあるでしょうが,それが人間にもたらす効果を説き明かすとそれは科学的に説明できると。だから(害がある部分もあるけど)役に立つ場合もある。方法論として用いればいい場合もある。
人間は物事を語るときに自分が科学的立場で語るかどうかをあまり宣言しませんし,自分でもわかってない場合が多いです。学術的な場ですら勘や経験則だけで答えることもあります。
思考自体がそういう非論理的なものだし,外部から来たミームでココロの状態が変わることもある。それをいい方向に使うために利用しようとするとメタな視点がないと危険ですが,メタな視点だけだと入り込めなくてあまり効果がない…。この辺が「思い込み」を有効に使おうとする場合の難しさだし,下手をすると悪い方向に連れていかれることもあります。
…ということ。科学的論理的だけで人間が幸せになれない以上,「思い込み」が必要だけど使い方は難しいと。単に科学的じゃないと批判することはできるけど,それで幸せになれるかというとそうでもないと。批判するのは簡単だけど…「幸せになる」というのを生きる最大の目的にすると,科学的批判を表に出すことは,それと少し遠ざかる様な気がするところが難しいと思いました。
要は「科学的立場」でものをいうか,それ以外の立場でいうか,ということかなぁ…と。
人間は議論したりするときに科学的立場,もう少し広げると論理的立場で物事を語らないとなかなか相手に伝わって行きません。感覚的だったり,思い込みだけで話すと誤解されます。ですが,科学的所見や論理的な思考だけで人間は生きてるわけじゃなくて,ココロの中の多くは非論理的でしょう。
「偽薬には効果があるものもある」というのはほとんど科学的立場から言って当たってます。ですが,偽薬の中身というのは非科学的です。方法論として捕らえると正解ですが,中身を取り出すと間違いであるという意味で偽薬の話はややこしい。
宗教とかその他のセラピーとかだってそういう部分がたくさんあって,中で言われている言葉を科学的立場で問うと間違ってる場合がたくさんあるでしょうが,それが人間にもたらす効果を説き明かすとそれは科学的に説明できると。だから(害がある部分もあるけど)役に立つ場合もある。方法論として用いればいい場合もある。
人間は物事を語るときに自分が科学的立場で語るかどうかをあまり宣言しませんし,自分でもわかってない場合が多いです。学術的な場ですら勘や経験則だけで答えることもあります。
思考自体がそういう非論理的なものだし,外部から来たミームでココロの状態が変わることもある。それをいい方向に使うために利用しようとするとメタな視点がないと危険ですが,メタな視点だけだと入り込めなくてあまり効果がない…。この辺が「思い込み」を有効に使おうとする場合の難しさだし,下手をすると悪い方向に連れていかれることもあります。
…ということ。科学的論理的だけで人間が幸せになれない以上,「思い込み」が必要だけど使い方は難しいと。単に科学的じゃないと批判することはできるけど,それで幸せになれるかというとそうでもないと。批判するのは簡単だけど…「幸せになる」というのを生きる最大の目的にすると,科学的批判を表に出すことは,それと少し遠ざかる様な気がするところが難しいと思いました。