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審美眼は表現力の本質だと思う

2011-12-14 21:56:30 | 音楽・アート
fujiponさんがジョブスの伝記の感想を書いていました。彼の人となりはまぁどうでもいいとして,興味深かったのは,なぜジョブスが「クリエイターたちの神様」になったか?という話。それに対し,ジョブスは誰も持っていなかった「審美眼」を持っていたと書かれてます。

なんとなく不思議なことと思われてる様に読めましたが,わたし自身は,それこそが大事なこと…と思ってます。まぁ成功した人を後付けで理由づけるのは,無理があるのですが,でもわたし自身,表現をすることで一番大事なのは作品を評価する力だと思ってます。

技術者にせよ,芸術家にせよ,クリエータは普通,なにかを作り上げるや「技」を持ってます。でもその技をどういう風に使って作品として完成させるかは,その作品を観る力だと思います。どんな作品でも作れるような卓越した技術を持つ人が,必ずしも成功するとは限らないのは,その作品が人々に伝わるように,技術を制御することがうまくいかないからだと思います。また技術的には稚拙でも受け入れられるのは,その自分限られた技術をうまくつかって人々に受けいられる形として仕上げることが出来るからだと思います。

優れた表現者は自分のスタイルを持ってますが,それはそれしか出来ない…というわけではなく,自分の技を作品に結び付ける取捨選択ができ,そして完成を見極めるには審美眼が必要なのだと思います。

そういう意味で言うと,いろんなクリエータを集めてきて,映画とか音楽とか…いろいろと作品を仕上げるプロデューサも自分自身は技を持ってなくても審美眼だけは持っていることになります。

ここで誤解をして欲しくないのは,ここでいう審美眼は評論家や消費者の持つ「目」ではないということです。作品作りにおいて,作る側と受取る側の目は決定的に違うと思います。成功するプロデューサは消費者だけの目だけだけではダメで,作る側の目を持っていないとダメでしょう。ユーザは自分が真に望むものをわかっていない…というのはジョブスの言葉だったかも知れませんが,そういうことだと思います。

そういう意味で言うとジョブスが卓越した審美眼を持っていたというのは,確かに成功した理由かもしれません。ただ彼の凄いのは,マックにせよ,iPodにせよ,ほとんど彼の審美眼のみでデザインが選択されているような感じがするところです。絵や音楽のように少ない人数で作る作品であれば,一人の審美眼で方向性と仕上がりが決めれるかもしれませんが,工業作品は普通は,一人の美的感覚だけでは作れないものです。それを彼はずっとやってきたように思います。

デザインは世の中の需要を汲み取って作る様なところがありますが,下手にいろんな人の意見を採り入れると,純度が下がるというか,機能優先になったり,特徴のないものになったりするように思います。ですから出来るだけ少ない人の意見のみで作った方が,多分デザイン的にはわかりやすいものが出来るのですが,ただそれが世の中の需要に合わなく失敗する可能性もあるわけです。

ですから普通は複数の人の意見を採り入れて,中庸なものを作ります。結果イマイチになることも多いのです。

晩年のジョブスは多くの成功をおさめていたので,彼の審美眼に従わない人はアップルにはいなかったのかも知れませんが,若い頃の彼の取捨選択を良く周りが納得したな…と思います。その時彼が観ていたコンピュータ像は時代のずっと先を行っていて,他の人がピンと来るものではなかったはずだし,実際は失敗も多いのに,良く融資先が付いてきたな…と思います。

結局のところ,それをずっと貫き通せたのは,彼のキャラクターの方の問題だったのかも知れません。まぁでも彼のように強引で,周りに理解されない人って多分沢山いて,その中に審美眼も持ってる人はいるんでしょうが…,そういう意味は結局のところジョブスがなぜ成功したかはそれだけでは語れない気もします。
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