たろの日記ページ,gooブログ版

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肯定しても自分を見失わないようになりたい

2009-01-10 10:54:04 | ココロ
9月に書いた「権威の否定がいきづらさにつながる」という文に,有名なブロガーの弾氏に「違うよ。全然違うよ。」と書かれてしまったので,昨日は枯れ木も山の賑わいでした(_o_)。普段こちらからリンクさせていただいていることが多いので,少しだけコメントがてらに書いてみます。
といっても,わたしの文章は全然違うといわれてしまいましたが,わたしは別に弾氏の文章を否定するつもりもなく,はぁなるほど…という感じです(^^;)。
まぁでも,「肯定するというのは、楽過ぎてつまらない」といわれてしまうと,弾氏みたいにエネルギッシュな人はそうなんでしょうね,と思います。わたしは最後に書いてますが,本当に大事なことにエネルギーを注ぎたいので,わたしみたいにエネルギーが足りない人は,色んな権威に反発していると本当のところに注ぐエネルギーが足りなくなってしまうのです(苦笑)。だからどうでもいいことは,権威や周囲が示していることに従っていてもいいかな,と思ってます。もちろんそうやってすべてにしたがっているうちに,本当の部分に注ぐエネルギーもそがれてしまう場合もあるので,それはそれで注意は必要かしら。
あと「権威の否定というのは、自らが権威となることで完成する」というのはちょっとわたしはピンと来ないのですが,「権威というのはまさに挑戦され、否定され続けるために存在するのである」というのはわからないでもありません。もっとも権威を追い求める人がみんなそう思ってるとも思えないのですが。というか子供が自己を確立するために,乗り越える壁として権威が必要だというのは同意します。子供は「嫌だ嫌だ」と否定して自我を作っていきますから。
もっともそれも小さいときはいいのですが,いくつになってもそれでいいんだろうか?という気がします。権威やものごとを否定しないと自我を確認できなかったり,楽しく生きられないというのは,壁がないと,立てない様にもみえます。だから壁が(権威が)なくなったときにどうしていいかわからず,右往左往していきづらい人がでてくるのではないのか?という気がします。 そういう人には否定すべき権威が見つからないから生きづらいという意味では,まったくその通りかもしれませんね。そういうときにでも無理やり敵を作り出し,戦う人もいますが。
小さいうちはいいのですが,ある程度自我が出来てきたら,逆に権威や周囲を肯定しながらも自分というものをしっかり持てる様にしたほうがいいんじゃないか?と今の自分は思ってます。周りを負かして自分の勝利を確信するのではなく,周りがいなくても自分の勝利を確信できるように,もしくは周りを称えたほうが,さらに自分の勝利が光るというか。
それから余談ですが,わたしは人と話すとき,人を批判するより,人をほめるほうが,自分が有利な立場にいるように感じます。戦う気満々の相手のやる気をそいで,自分の好きなほうに話をもっていける…まぁこういう議論の仕方を小さい子供がやったらいやらしいと思いますが:-p。
そういうわけで,エネルギッシュで権威に立ち向かうのが楽しい人は,戦えばいいとは思いますし,人の自立の過程で立ち向かうべき権威は必要で,それを被ろうとする弾氏は偉いと思いますが,壁を壊していったら壁がなくなって立てなくなっちゃう人やガス欠を起こす人もいるんじゃないかな?ってことで。
それから,余談に追記ですが,弾氏は人を誉めるのがすばらしくうまいと思うので,楽過ぎてつまらないとは思ってないじゃないかな?とは思うこともあります。
コメント
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