日刊海燕さんの21日の話,およびニートについて書かれた本の感想で書かれていることは,ほぼ同じことだと思う。ニートやひきこもり,フリータに対して現在社会(マスコミ?)が異常にきつい言い方に対しての弁明(反論というわけでもない)の様に読めます。
現在の日本は,自分達の理解できない事件が起ると,理解できない人達のせいにして理解や許容することを避けている。いわゆる思考停止なんですが,たちが悪いのは理解できない人達がいっしょくたんにされてしまうことです。ですから,下手をするとニートや引き籠もりが現在経済的に云々言われているのが,そのうち犯罪予備軍のように言われかねないという恐れがあります(もうすでにそういう傾向は感じます)。
現在の日本は「人間のあるべき姿」というのをしっかり描いて,それから外れることに対して,非常に厳しい社会になっていると思います。別に若者の話だけではなく,社会人としてもそうだし,もっとも最近感じるのは子育をする若い母親や父親。躾が厳しく子供に虐待とよばれるくらい強く当るのも,わが子が一般の人に比べて落ちこぼれてしまうことに対する異常な恐怖心から起きることも多いように思います。また片親や婚外子についても,最近だいぶ緩やかになってきているとは言え,やっぱり肩身が狭い思いをするようです。
日本はもともとムラ社会で,周囲の目を気にし,また周囲と合わせることを強要される社会ですが,それでも昔からこんなに逸脱に対して厳しかったのだろうか?…と疑問に思います。だいたい昔の都市にしても農村部にしても,働かずに親や兄弟に食べさせてもらっている人はいたし,病気の人もいた,離婚して村に帰ってきて,ムラの男と関係を持ち食べさせて貰っている女性すらいたように思います。都市の長屋なんて間男が当たり前で誰の子供かわからずみんなで育てていたというような話すら聞きます。村八分とかきつい仕打もあったのでしょうが,結構な場合ムラで何とかそういうのを抱えてしまうという懐の広さがあったのではないでしょうか?。ムラ(所属する社会)単位という一体感は強かったけど,その中の個人が全て同じであることを強要していたわけではないと思います。
現代の日本は,そのムラ意識が残っているのに,核家族による地域の流動化,情報化による「あるべき姿像」の過剰な提示が進んで,自分がどこに所属しているかわからないまま,あるべき姿への脅迫意識だけが強くなっている気がします。つまり本来は逸脱した場合に守ってくれる集団があるはずなのが,それが無くなった状態で周囲を気にするという,つまり丸裸で皆がさらされている状態。だから個々が集団の中での自分の役割を考えることなく一つの理想的な像との距離感のみで物事をみるようになっているのでしょう。
かってのムラ社会は,相互干渉強い中でも清濁あわせ飲む面があったのが,その「濁」を許容してくれる団体がいない,全ての人が一人の個人として社会にさらされているので,逸脱した人達に対して,誰も寛容になれないという,非常に息苦しい「今」を作っているような気がします。
ムラ社会の崩壊が,皮肉にもかえって個人の多様性を制約してるのではないでしょうか?。
現在の日本は,自分達の理解できない事件が起ると,理解できない人達のせいにして理解や許容することを避けている。いわゆる思考停止なんですが,たちが悪いのは理解できない人達がいっしょくたんにされてしまうことです。ですから,下手をするとニートや引き籠もりが現在経済的に云々言われているのが,そのうち犯罪予備軍のように言われかねないという恐れがあります(もうすでにそういう傾向は感じます)。
現在の日本は「人間のあるべき姿」というのをしっかり描いて,それから外れることに対して,非常に厳しい社会になっていると思います。別に若者の話だけではなく,社会人としてもそうだし,もっとも最近感じるのは子育をする若い母親や父親。躾が厳しく子供に虐待とよばれるくらい強く当るのも,わが子が一般の人に比べて落ちこぼれてしまうことに対する異常な恐怖心から起きることも多いように思います。また片親や婚外子についても,最近だいぶ緩やかになってきているとは言え,やっぱり肩身が狭い思いをするようです。
日本はもともとムラ社会で,周囲の目を気にし,また周囲と合わせることを強要される社会ですが,それでも昔からこんなに逸脱に対して厳しかったのだろうか?…と疑問に思います。だいたい昔の都市にしても農村部にしても,働かずに親や兄弟に食べさせてもらっている人はいたし,病気の人もいた,離婚して村に帰ってきて,ムラの男と関係を持ち食べさせて貰っている女性すらいたように思います。都市の長屋なんて間男が当たり前で誰の子供かわからずみんなで育てていたというような話すら聞きます。村八分とかきつい仕打もあったのでしょうが,結構な場合ムラで何とかそういうのを抱えてしまうという懐の広さがあったのではないでしょうか?。ムラ(所属する社会)単位という一体感は強かったけど,その中の個人が全て同じであることを強要していたわけではないと思います。
現代の日本は,そのムラ意識が残っているのに,核家族による地域の流動化,情報化による「あるべき姿像」の過剰な提示が進んで,自分がどこに所属しているかわからないまま,あるべき姿への脅迫意識だけが強くなっている気がします。つまり本来は逸脱した場合に守ってくれる集団があるはずなのが,それが無くなった状態で周囲を気にするという,つまり丸裸で皆がさらされている状態。だから個々が集団の中での自分の役割を考えることなく一つの理想的な像との距離感のみで物事をみるようになっているのでしょう。
かってのムラ社会は,相互干渉強い中でも清濁あわせ飲む面があったのが,その「濁」を許容してくれる団体がいない,全ての人が一人の個人として社会にさらされているので,逸脱した人達に対して,誰も寛容になれないという,非常に息苦しい「今」を作っているような気がします。
ムラ社会の崩壊が,皮肉にもかえって個人の多様性を制約してるのではないでしょうか?。