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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

iPad

2010-06-01 21:48:52 | 社会
iPadが日本でも発売された…ということで,普通のニュースとかでも偉く話題になっております。折角ですので今のうちにちょっと突っ込みを。

私はiPadが発表になった時に,欲しいと思いました。今でも欲しいんですが,値段を聞いてちょっと高いかなと思ってるし,ちょっと様子を見るかも。まぁ今年中に買う可能性もありますが。

TVの取りあげ方で一番気になるのが,電子書籍端末として紹介されていること。わたしはiPadが欲しいけど,電子書籍を読みたいとは全然思いません。電子書籍端末としての魅力を感じてないというよりは電子書籍に魅力を感じて無いからなんですが,みなさんそんなに電子書籍読みたい?。

わたしがiPadを欲しいと思うのはPCの大半の使い方をそこで出来るように感じるからです。そしてそれをPCより手軽に出来ると思うからです。

わたしがPCを自宅で使う場合,使い方としてWebの閲覧,メイルの閲覧がほとんどです。そのほかに日記を書いたり,エクセルで計算をしたりというのはありますが,それは時間的にはわずかで,ほとんどはマウスで画面をクリックしてるだけです。このマウスでクリックしてるだけのことはたぶんほとんどiPadで出来るのではないか?というのがわたしの考えです。

あとわたしはPDAを長らく使ってますが,これもiPadに集約できないか?と少しは思いますが,こちらはiPod touchも使っているし,ザウルスも使っているし,ちょっと使い勝手がまだ良く見えません。

iPadがPCの代わりに使いたいというのは,いくつか理由があります。一つはiPadの方がPCよりも起動が速く(というか常時立ち上げ),使いたいときにすぐ使える様に思います。あと良く思うのがWebを閲覧する様な用途と,プライベートなデータが入っているPCを分けたいということ。よくPCはなんでも出来るといいますが,わたしは以前から機器は用途ごとに分けるほうが,安全だし使いやすいと思ってます。

ところで,iPad…つまりは単なるタブレットPCの様にも思いますが,なぜこれまでのタブレットPCとまったく違うように語られるのか?。iPod touchが出て,買って使ったときにわたしが思ったのは,これまでのPDAにはスタイラスが必ずあったのが,touchには無く,これが逆に凄く使いやすくなったということ。これまでのタッチ式のPDAには必ずスタイラスがありました。これは文字入力を手描き認識でやるためと,あと機能を増やしすぎて画面にたくさんのボタンを並べる必要が出てきて,そして小さいボタンを押すためのスタイラスなんでしょう。iPod touchはスタイラスをなくし,指の腹で押すことでタッチパネルを使えるようにしました。それにはたぶん画面のタッチを検出するアルゴリズムの高度化という技術の部分と,画面のデザインを大きく考え直したという部分,つまりユーザインタフェースの大きな改革があったんだと思います。スタイラスを無くすことでスタイラスが無いと使えない,指でタッチするときは爪を立ててやるというのが無くなり,また画面を押さえてスライドするということもやりやすくなりました。

iPadがこれまでのタブレットPCよりも使いやすいのでは?と期待するのもそのユーザインタフェースです。一言で言うと,年寄りでも使えるようなネット端末がようやくできたんでは無いか?とわたしは期待してます。ただし現在のPC向けにデザインされたWebがiPadで使いやすいかは分かりません。というか,これからはiPad向けにWebのデザインも変わっていくんだろうな…と思います。
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子供へのネット教育は具体的にどうすべき?)

2010-05-30 22:32:19 | 社会
子どものメディアリテラシー教育がますます重要に」という記事。書いていることを以下に書くと,携帯とかもどんどんネットサービスが発展し,ユーザが子供の方にも広がっていく,そうなるとネットを使用する上での注意をきちんと小さい頃から教育したほうが良いということで,あるNPOが提案したら,そもそも子供に携帯を持たせてはいけないという声が大きく実際に教育を受けるのに人が集まらなかった。石川では小中学生に携帯を持たせないという条例が決まったらしいとのこと。

リンクの文の著者はこれは危険の先送りであり,むしろきちんと小さいときから教育すべきだと言ってます。私のその意見には思想面では大賛成です。子供を危険なものから遠ざけるのではなく,小さい頃からきちんと危険性を教育すべきだと思います。

とはいえ,一方でこうも思います。具体的にどう教育すればいいのか?と。

ネットは大人にとっても危険が一杯。犯罪に引っかかることもありますし,そうじゃなくても,ゲームやネットサービスにはまって,時間を多く費やして仕事や勉強が手につかなくなることもあります。また噂話やいじめなどの手段としても使われるようです。犯罪に引っかからないようにというのは教育でなんとかなるかもしれません。でも,ネットにはまって無駄に時間を消費する…というのは,子供どころ大人でもそうなっている人がそれなりにいます。ネットに不慣れなお年寄りや主婦に限らず,ネットを仕事に使っている社会人ですら,休日ネットにはまるだけならいいにしても,会社でも休み時間や…,もしかしたら仕事中にアクセスしたりとか,そういうこともあるかもしれません。

またいじめについても,大人でも噂や村八分みたいなことはあるでしょう。これはネットの問題というよりは社会性の問題の様にも思います。

理性のある大人でもうまく制御できないようなことを,子供に教育すればわからせることができる…っていうのは少し甘い考えじゃないか?という気がします。具体的にこういうことを教えれば大丈夫という何か具体的な方法は確立されてるのでしょうか?。

…。余談がてらに私の昔話を。

わたしがネットをはじめたのはまだインターネットという言葉が無い頃で,最初はnetnewsとMLが主なコミュニティーサービスでした。自身,結構はまって一日何時間かをこれに費やしていた気がします。ただ,一方で当時は一般人はネットを使っておらず,使うのが大学の研究者か企業の技術者だったので,雑談をしているようで,結構技術の情報交換も出来ていました。

その後インターネットとしてネットワークは拡大し,ホームページを作るのが流行り始め,また掲示板という場も増え始めます。実はわたしはあまり掲示板にははまらず,netnewsはもう廃れてましたが,MLはそれなりに活発でわたしはMLは相変わらず続けてました。その後ネットゲームが出てきましたが,これもわたしはやらず,MLもだいぶ廃れて,自分のコミュニティーの場が無いなぁと思った頃SNSが出てきてmixiにはまりました。mixiはたぶん1年くらいは毎日足跡をチェックして,マイミクの日記にまめにコメントを書き込む様なことをやってましたが,ある日突然,憑き物が落ちたようにどうでも良くなりました。同じ頃blogを読むというのも盛んにやってました。これは,若干まだ続いてます。その後twitterが出てきて,今に至ってますが,twitterにはあまりはまってません。

ネットにはまっているとき,常に「これは無駄に時間と情熱を消費してるな」 という罪悪感がありました。気分転換にやってるくらいならいいのですが,明らかに他の事に支障が出るほど疲れたり時間を割かれる使い方をしていたこともあります。「この情熱を何に使えばもっと有意義に過ごせるだろうか?」という自問自答を常にやっていました。

…というほど大人にも怖いネットの呪縛ですが,さて子供にはどう教えればいいのか?というのは子を持つ親としては結構リアルな悩みだったりします。教育方針が確立されていれば,教育を受けさせるのは正論ですが,それが無い場合,それが確立されるまで子供から遠ざけたいという親の心理も分かります。

というわけで,悩ましいわけです。これは親としてもそうですが,ネットワークの上でのコミュニケーションを考える立場からしても,なんとかしないとな…と思います。
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グーグルの帝国主義

2010-05-27 06:00:56 | 社会
fujipon さんの書評でグーグルの話を 読んで,これって植民地支配みたいだなぁ,って思いました。

グーグルの場合アメリカの国力をバックに圧力をかけているという感じではないので,帝国主義みたいな言い方をすると過剰なのかもしれません。でも,一方的にやってきて,自分達の都合を押し付ける,一方でたぶん多くの一般人には一見それがいい事の様に思わせるのに成功してるように思います。

想像ですが,かっての帝国主義時代の西洋の列強だって,軍事力で無理やりあちこちを植民地化したわけではなく,武力をちらつかせながらも,実際はそこに自分達の文明を紹介して,生活が便利になったとか 食べ物がうまくなったとか,病気で死ぬ人が減ったとか,そういうので人心をつかんだ…という気がします。「西洋人って怖いかと思ったけど,文明も悪くないね」と庶民は思う。でも気がついたら,その国に元々あった 産業の構造が大きく変わり,旧来の産業は滅ぶ。そういう産業を運営していたのは,元々権力者や金持ちだから,彼らが最初に列強に反発するのだけど,そういう連中には躊躇なく圧力をかける。庶民は金持ちや権力者が「ぎゃふん」と言うので,「ざまぁみろ」って賛辞する。でも気がついたら,新しい列強の農場や工場で働かされる。その農場は旧来の小作より現金収入はあるのかもしれないけど,その農場が生み出している富の多くは実は彼らに還元されているのではなく,列強の本国に流れている。もともとの産業は破壊されてしまったので,今更列強無しでは独自に産業を興す力も削がれてしまう。

今も先進国と発展途上国ではこういう構造がたくさん残ってます。コーヒー豆とか良く例で挙げられてます。

この構造ってアメリカのIT産業にもそのまま当てはめられる気がします。最初の書評はグーグルの本のスキャンの話をしてますが,グーグルがこんなに広がる前は,日本の中にも独自の検索エンジンが開発されていたりしたし,地図サービスはまだあるけど,いま苦戦してる。グーグルじゃなくてマイクロソフトが広がったときも,日本のOSが滅んだし,今アンドロイドの携帯端末や家電が出てきて,トロンとか大丈夫なんだろうか?という気がしてます。
ユーザの使い勝手としてはグーグルやアンドロイドやアマゾンやマイクロソフトとかが便利なのかもしれないけど,我々が何らかの形で消費したお金のいくらかは海外に行ってしまう。国内に流れていれば,日本人の給料になったり,国内で消費されていたするけど,お金はたぶん本国の方に行ったっきり,それは返って来ない。

もちろんこれこそがグリーバリゼーションなんだけど,自分達が散々帝国主義をやってきたヨーロッパはこういうの敏感で,アメリカのIT産業に対する排斥運動とかかなり盛です。Windowsに対して(フランスだっけ?)公正取引委員会が指導したりしてるし,先日フィンランドの飛行機乗ったら,ビデオのOSがLinuxだったりして,マイクロソフトのOSの浸透に歯止めをかけてる気がしました。

日本でグーグルやアマゾンやマイクロソフトに対して排斥を訴える運動なんて市民レベルどころか,産業界ですら見た事ありません。BSディジタル放送が入ってきたときにNHKが虚しくアナログ放送の継続を訴えたけど,残念ながら敗れ去りました。

別にそれは仕方ない部分もあるのだろうとは思うのだけど,あまりに日本の庶民は無頓着すぎないか?という気もします。ネットのサービスを便利に使うときに誰にお金が流れていって,それは自分達の雇用を圧迫して無いのか?そういうことを少しは考えたほうがいいんじゃないか?という気がします。

今日本人が海外製より日本製が良いと選んで買うのは,肉や野菜とか食料品と家電くらいでしょうか?。自動車もまぁ安いからとかサービスとかの理由で国産の方買う人も多いでしょうか。ってことは,実は,日本の将来はこれらの産業しか期待できないって事?って気もします。日本って失業率が高いと今騒いでいる割りには,あまり雇用を生み出すにはどうしたらいいかが議論されません。大企業や国が何とかすればいいと思ってる人が多いのでしょうか?。でも国が雇用を生み出すために公共投資をすると無駄遣いだというし…。

日本でももっと,自分達が消費することが,どこに雇用を生み出すか?をもう少し意識したほうがいいんじゃないか?という気がします。
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Twitter

2010-05-05 12:03:47 | 社会
今話題のTwitter,遅ればせながらわたしもようやくアカウント作りました。完全に乗り遅れたので,もうこのまま通り過ぎるのを待とうか,とかも思いましたが,まぁちょっと思うところあって。

そういえばわたしはblogもかなりやり始めるのが遅かったように思いますが,mixiはわりと早かった。ネットの新しいコミュニティには若い頃はすぐに飛びついていた気もしますが,30過ぎた辺りから,そうでも無くなったかなぁ。2chとか書き込んだことも無いし。

というわけでTwitterのことは何も分からないのですが,今日,Twitterは良すぎるのかしら?という文章が話題になっているのを見ました。要はTwitterがはまりやすくて危ない…ということを書いているようです。その結果,現実のコミュニティが希薄になったり,物事を深く考える習慣が無くなったり,ということも
警告してます。

…これを読んで最初に思ったのは,そういう特性というかはまりやすさとその危険性は,たぶん,ネットニュースにもMLにも掲示板にもSNSにもあったんじゃないかな?ということです。やったことないけど,オンラインゲームにもあったんじゃないですかね?。通常のゲームとか普通のメイルとかブログは良くわかりませんが,要は一対多,もしくは個対多でコミュニケーションが出来るこの手のネットサービスにはいずれも通常の生活に変化を及ぼすくらいの中毒性があったりします。あったりするけど,経験的に言うと,自分の場合は永遠には続きません。そういえばmixiも初めて1年か2年か忘れましたが,それくらいになって急に「もういいや」と憑き物が落ちた…と感じたことあったのを思い出します。それまでは足跡が気になったり,自分の日記への書き込みにはすべて返事をしないといけないと思ったり,コミュの書き込みもマメに読んだりと。でも,ある日それはどうでも良くなりました。

もう10年以上前だけど,MLもかなり中毒的に書いてました。ただMLやニュースはルール(空気)が結構厳しくて,脊髄反射的な文章を書きにくかったので,はまっても,そんなにポンポン書けないような感じはありました。

Twitterはまだ良くわかりませんが,他のサービスと違うはまりやすいところが
あるとすれば,「なにをしてるか?」という書くテーマがサービス側から与えられていて,しかも字数制限があるので,本当にそういうことしか書きにくい。つまり凝った文章や,難しいメッセージを書きにくいので,結果的に文章が初心者レベルに統一される。だから初心者でも気軽に書き込みやすい…っていうのがあるなぁとは感じてます。逆にわたしは自分が今なにしてるか?なんてネットに書きたくないと思っているので,書くテーマが無い…とか思ってしまいますが。

さて,今話題のTwitterがいつまで流行るのか,定着するのかはよく分かりません。mixiも徐々に廃れてるという感じがしますが,まぁネットのサービスなんてそんなものです。そうしたら,また新しいサービスが生まれるでしょう。

最後に,わたしがこれまで経験してきた,流行ったネットコミュニティのサービスにある重要な要素と感じていて,あまり言われないものが一つだけあるので,それだけ指摘します。それは,「仕事(学校)の合間に出来ること」じゃないか?という気がします。いや,それは本当はまずいでしょ?実際はみんなやってませんよね(^^;)。やってるとしても,移動中とか,休み時間に携帯電話でとかですよね。

でも,当初のネットニュースやMLも,当時はインターネットの業務利用が禁じられていた時代もあって,むしろ会社のネットを使っても外部と学術目的なら情報交換がしやすかったように思います。SNSだって職場のパソコンでやるのが禁じられているくらいだから,やろうとした人がそれなりにいたってことでしょう。Twitterだってどうも昼間に書いているサラリーマンとかいるんですよね?。

こういうサービスって仕事中の息抜きに使えるってことが少なくとも日本の場合は普及に効いてくるような気がします。だからたぶん携帯で使えないと広がらない。まぁ携帯だと会社のパソコンのデータ流出とか無いから,休み時間にやる分には問題ないのかもしれませんが…,つまりは,移動とかの手持ち無沙汰の時間,そして,ふっと気分転換したいときに,その「場」を与えられるか?がこの手のサービスにはまらせるためには必要なんじゃないか?と言う気がします。そういう意味では,Twitterの様に,深く考えなくてもとりあえず書ける…様な仕掛けが優れていたって言うのはあるんだろうな,と思います。
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理不尽を理解して利用したほうがいいと思う

2010-04-09 12:43:35 | 社会
ネットで見かけた文章,ある企業のおじさんが学生に怒鳴ったという話。学生が「やりたいことことがある」と言ったのかな?それを怒ったんですが,実はおじさん的には「見込みがある」と思ったとのこと。

最初これを読んでわたしは「ツンデレかよ,わかりにくいな」と思ったんですが,はてなブックマークを見ると結構このおじさんが批判されている様なので,少し思うところを。

まぁ会社においてどういう人材が望ましいかは会社によるし,教育方針も会社によるので,わたしはこのおじさんの様にはやら無いけど,こういう教育が望ましい職種もあるんでしょう。批判が多い文ですが,わりと共感できる部分もわたしは多いです。

一つは学生が1年程度で考えたことは,実際に社会にでたらあっという間に壁にぶつかって頓挫することが多いということ。社会経験が少ない人はうまくいくケースをイメージできていても,そこにある障壁は案外イメージできてません。ですから一つ大きな壁にぶつかっただけで,そこから先に進めなくなったりします。それが出来るようにあらかじめいろんな異常系の想定が出来る様になるために社会経験が必要だったり,人とのつながりが重要だったりするのです。

というわけで,タイトルで上司と飲みにいったほうがいいというのも,情報を得たり,協力を得る体制を作るために重要で,決して年寄りの機嫌を取るためではないのです。まぁすべての飲み会がそうだとは言いませんが。

ブックマークを読んで思ったのは,ブックマークでこのおじさんとか文を書いた人を批判している人は,いったいどういう論拠で批判してるんだろうな?ということ。確かにこのおじさんの態度は理不尽だと思うけど,その理不尽さをこの文はさらしてるので,ある意味ネタバレという意味では親切でもあるんだけど。で,ネットで理不尽だといって批判していても社会にでたらその理不尽さを避けられないケースが多いんじゃないですかね。だとすれば,それとどう付き合っていくか?ということを考えたほうが良いように思うけど。

ちょっと話が発散して今いましたが,一番思ったのは,この文に対する文句を読んでると,やりたいことを批判される事とか,やりたくないことをやれといわれることとか,そういうことに対して単に理屈をつけて反発してる様に見えるなぁということです。実際の世の中はやりたいことをやってやりたくないことをやらないだけでは,逆にやりたいことが出来なかったりするんですけどね。

ちなみにわたしがこのおじさんのいた場所にいたら,話をニコニコと聞いて「ふーん,頑張ってね」と無責任にいうか,もしくはもっと論理的に,論破することをするような気がします。わたしは自分の方が意地悪だなぁと思うんですけどね。
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若者の消費とコミュニティーとしての消費

2010-03-24 05:48:08 | 社会
クローズアップ現代の消費しない若者の話をみました。
最近の若者が消費をしないって話は最近よく言われていて,車を所有しない,スキーとかにも出かけない,ブランド物とかも持たない人が増えているということです。
ネットとかの議論を読むと若い人の所得が少ないからだ…という話もよく聞きますが,そういう論調は今日は無く,むしろ価値観の変化と主な理由を述べていた気がします。確かに今の若い人の所得が少ないというのはよくいわれますが,では今回も一瞬映像が出てきたバブルの頃に,本当にみんなが所得が多かったか?というと少し疑問に思うこともあります。例えばわたしの会社の初任給は当時と今では,今の方がたぶん多いはずです。確かに給料がいい会社自体の数が減ってるっていうのはあるんでしょうが,じゃぁ今の給料がいい会社の若者が消費を続けていて,逆に当時の収入が少なかった若者は消費をしてなかったか?というと本当か?という気もします。
今回のTVでもでてきましたが,親元に暮らしている20代の女性が,100円で買った中古のブラウスを会社にも着ていっているというのは,単純にお金の有無ではなく,そういうのを問題ないと思うか,みっともないと思うかという価値観の方の問題でしょう。今の物差しで見るとバブルの頃の若者は分不相応なお金の使い方をしていたと見ることもできます。
今回のTVでは,そもそもエコロジーとかそういう考え方が広がる中,また価値観の多様化により消費をステータスと考えないとか,ものを大事にすること自体を価値ととらえる若者が増えているという感じでしたが,それ自体以前はいいことの様にいわれ続けてました。今もものを売るほうからすると売れなくて困るのでしょうが,一方でTVでは,ここぞというところにはお金を使う若者がいるということで,そういうニーズをうまくとらえて商売をしている例もでてました。まぁ同じ規格品を作って大量に売る商売はやりにくいのかもしれませんが,今の若者は,お金を使うところには使う…ということを言いたかったようです。
なんとなく番組からもにおってはいたのですが,あまりはっきり言われなかったのであらためて書くと,わたしは若者の消費というのは「コミュニケーション」だと思ってます。ですから,ニーズというよりも若者がお金を使うことでコミュニケーションを生み出さないと,お金を使わないだろうと思います。バブルの頃にお金を使っていたのも,それが欲しかったとか,お金が余っていたというよりは,当時,車に乗ったり,スキーやディスコに行ったりすることが若者のコミュニケーションだったからですし,ブランド物も価値観を共有するためにつけていたのでしょう。今の若者はコミュニケーションについては,ネットという共有ツールで直接的につながっているため,共有の場としての車やスキーがそこまで必要ない…ということなのだと思います。また価値観の共有という意味でのブランドものや他の遊びも,マァ別に今でもそういう価値感が広がればまたみんな買いだす気がしますが,今はそういう流れではないのだろうという気がします。
わたしとかは実は誰のコミュニケーションとも関係なくCDを買い集めたりライブに出かけたりしてますが,こういう趣味を一人でも楽しめるというのはある程度歳を取ってからで,若いときはコミュニケーションが無い趣味というのは持ちにくいのではと思います。歳を取ってからでも新しい趣味はコミュニケーションが無いとはじめにくいというのもあるかもしれません。
そういう意味では,番組はいい商売をすれば,若者の琴線に触れる商売ははじめられるという締めでしたが,ニーズというのは,そのサービス自体よりも,その若者のコミュニケーションになりうるか?ということ,そしてそれは以前よりも価値観が多様化,そして小規模化してるので,小さなコミュニティーに対応できるきめ細かさが必要ということなのだと思います。
考えてみたらネットというのはネットワークを広げるということより,コミュニティーを小規模化するという意味もあったんだなぁと思いました。
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無縁社会と若者が望んだ社会

2010-02-07 10:38:53 | 社会
NHKスペシャル 無縁社会をみました。

現在日本で身元不明の自殺者,または孤独死が増えている。また生涯未婚の人が増えており,歳を取るとやはり孤独死となっていくという話でした。

無縁社会という話はこの番組以外も9時とかのニュースでしばらくやっていた気がします。時々見てました。よくわからないのは,このような話が,あたかも現在の日本での問題の様にいわれますが,無縁仏というのは昔からあるし,それこそ長男以外は正式に結婚できないというような地方や時代もあったように聞きます。本当に今の日本の問題だったんでしょうか?。

もっとも,そう思う一方で,子供が成人すると都会に出て行って年寄り夫婦が田舎に残されるという構図は現在の日本の問題かなとは思ってます。今回の話とは若干違うんでしょうが。

ただ,子供が親と一緒に住まないのも,はたまた男女が結婚をせずに一人で過ごすのも,都会化や近代化により利便性を求めた結果ともいえます。昔は結婚できないと暮らせないという状況だったのが,一人でもそれなりに暮らせるように社会を作ってきました。年金だって子供が親の面倒を金銭的にみなくていいように作られたともいえるでしょう。

結婚というと,あう相手を見つけて幸せになるためにするというイメージだって現在の日本で作られたイメージですが,一人では生きていけないから結婚するという社会だってかっての日本にはあったのでは無いでしょうか?

そういう意味でいうと,無縁社会というのは一人でも生きていける社会と表裏一体の様にも思います。助け合わなくてもやっていける社会を作った結果助け合いにくくなった…と。

少し話を広げると,ここ10数年ずっと思ってるのですが,わたしの世代にはTVや映画の影響もあって,以下の様なイメージをもっている人が多いと思います。「田舎はプライバシーがなくて暮らしにくい」「親の仕事を継がなくてはいけない人は自由が無い」「都会(東京)にでると未来が開ける」「都会は楽しいことが多い」というようなこと。それが進んで「田舎は仕事が無い」とか「嫁を取るのが大変」「田舎の人はお金をもってない」という印象もあるかもしれません。

一方で「都会は冷たい」「都会は怖い」「自己責任」というような印象も発せられてきてます。

もちろん,都会が怖いので田舎で親の仕事を継ぐのがいいと思ってる若者もいるかとも思いますが,上記の様なメディアからのメッセージから,多くの若者が,大人になったら親を田舎において都会にでて就職するという成功モデルを思い描いていたのではないでしょうか?。

さらに社会制度の年金や健康保険制度が整備された関係もあり,都会に出た子供が親を都会に呼び寄せる必要もなく仕送りもせずに暮らせる例も結構あります。親と連絡を取るのは数ヶ月に一回とか,田舎にかえって親と顔を何年もあわせてないという若者も結構いるんでは無いでしょうか?。

つまり近代の日本では社会制度もメディアのメッセージも,田舎から都会に若者を集めて核家族化させることを良しとしたということでしょう。なぜかというと,おそらく産業を伸ばすためにそれが都合が良かったからです。核家族は労働の流動化を促進し,いつでも若い労働力を好きなところに異動させることが可能です。

そして,これはそんなに長い時期発せられたメッセージでは無いかもしれませんが,女性が働いて経済的に自立するのが良い。恋愛も自由で,結婚なんてする必要が無い…というのを進んだことだというメッセージをドラマとかが流していた時期もありました。これも結局,女性の中から優秀な人を自由に選んで雇用することや,婚期を遅らせることで,若い男女が家庭にエネルギーを費やさないようにしていたのかもしれません。

そう考えると私自身が,田舎に両親を置いて上京してる身ですから,そういうイメージを見事に刷り込まれた世代です。さすがに人間が生きる理由は子孫を残すことということには気づき,結婚し子供を作ることはしましたが,仕事は親に縛られず自由に選んでいます。でもやっぱりこの歳になると田舎に残した親の事も気になりますし,自分が田舎育ちなだけに,子供を都会で育てることの不安もあります。大家族で自分の親に子供の面倒を見てもらい田舎で働くという幸せだってあるはずなのにと思いますが,現状は社会が十分に田舎に雇用創出できてないこともあり,難しい面もあります。

ただ,やっぱりそういうのって社会構造以前に,メディアから発せられたメッセージも大きいと思うのです。洗脳とは言いませんが,社会全体がそれを良しとした。でも,同じように上京しても,その成功モデルにうまく乗れない人もいた。その人がどうなるかは,当時の若者もイメージできてなかっただろうし,社会もうまく対応出来て無いのかもしれません。そしてその現実の一つがが無縁社会の様なものでしょう。

いまもしそのような都会での無縁者が問題になるのであれば,我々が若い頃にメディアから受けた,「若者は都会に出る」というモデルと違うモデルがメディアから示されるのか?。それがとても気になります。
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高校に行けば幸せになれるんだろうか?

2010-01-25 09:28:55 | 社会
紙屋研究所さんの「高校生に全面敗北・完全屈服した橋下知事」という文を読みました。橋下大阪知事と高校生が対談し議論したもので,報道では高校生が論破されたような印象だったのが議事録を読むと逆という印象らしい。そしてその後知事は高校生の要望を一部受け入れようとしているという話のようです。

確かに議事録を読むと知事の方が話をそらしている様に取れます。まぁどっちもどっちという部分もありますが,知事の方が行政のトップなんだから,きちんと納得できる説明を出来て無いという点でやっぱりだめかな,という気はします。で,知事が高校生の要望を取り入れてるというのは美談の様にも思いますが,知事の政治的な判断があったのかもしれません。

とはいえ,やっぱりこの手の話は難しいな…とも思います。確かに貧しくて生活に困窮していてなおかつ勉強をする気がある子供が普通の人並みの教育を受けられるようにするというのは必要だと思います。ただ,知事もいう様にどうして公立だとだめなんでしょう?というのはあります。公立がだめだから私立に行きたいという理屈と公立に通らないから私立に行きたいだとだいぶ事情が違います。地方によって公立と私立のレベルのバランスは違うので,なんともいえません。

公立に受かる学力が無いということで私立に行きたいけどお金が無いという人は,学校に行きたい気持ちはあっても,果たしてそういう高校に行って,なにか将来役に立つ事が身につくんだろうか?,高校に行けさえすれば,なにかが好転するんだろうか?と少し思いました。もちろん入試の物差しで使っている学力が適当か?というのはあるでしょう。

最後の教育を受ける権利の話をしてるのですが,教育は義務でもあって義務は中学まで,権利がいつまでかは規定されて無いと思います。学力も経済力も関係なくすべての人が高校に行けるようになったら,世の中からは中卒というのはなくなるのでしょうか?それとも本人が希望したときのみ中卒というのはありえるのだろうか?とか少し思いました。

ちょっと前に大学院で博士課程にいった人すべてが企業にとって欲しい人材じゃないという話を書きましたが,すべての人が学校教育を受けるのであれば,それだけ多様な人を学校から排出する必要があるでしょう。すべての人が高校にいって同じような価値基準で順番をつけられたら,それこそその人に合った道というのが閉ざされるような気もします。

難しい問題ですが,大学や高校の全入が必ずしも社会や本人に幸せを増やしている気もしないので,安易に全入ばかりを追うのはどうかなぁと思ったりもしてます。高校に行かなくても他の選択が十分にあり,そして高等教育を受けた人並みやそれ以上の収入を得られる道っていうのは無いのかなぁ…などと思います。
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研究の大学から教育の大学へ再び…

2010-01-12 22:40:19 | 社会
前回,研究現場として大学とか企業とかの話を少し書いたのですが,その後にネットでの巡回先を回っていると,山口先生が「大学の歴史」について書かれていたり,雑種路線でいこうさんの「成熟経済を蝕む仮定法の亡霊」というのを書かれていたりするのを読みました。後者はちゃんと理解できないにしても,思ったのは,昨日わたしは企業の話も書いたのですが,このところのこういう話は大学の問題を皆さんは論じているのだな…ということです。えっ,当たり前だろう?って(^^;)。まぁそうかもしれませんが,昨日は研究分野とか日本全体の研究の話かと思ったのです。世間一般には研究というと大学と思う方も多いんでしょうね。

わたしの感覚でいうと企業における研究は,バブルの崩壊の後に急激に規模が縮小したように思います。それまで大企業の多くで基礎研究をやっていたのが,やめて製品開発に重点を置くようになりました。これは分野によるとは思いますが,学会の発表も企業の発表は減り現在に至っているという気がします。ですが,大学の方は,10年位前に大きな変化があった様に思います。わたしは外から観ていたので,間違った認識をしてるかもしれませんが,博士課程が増え,同時期に国は科学研究に力を入れると言って,大学に多くのお金を公募という形で流した気がします。大学はその公募のお金を獲得する計画を出し,得たお金で,博士課程を卒業した学生を助手や研究員として1,2年程度の契約で雇いました。

しかし,博士課程卒業生は毎年排出されますし,再契約の競争は激しく,博士課程を卒業しても仕事がなかったり,助手をしていても更新が出来ず,次の研究機関にもいけないとかそういう人がどんどん出始め,高学歴ワーキングプアという言葉も生まれました。それでも何とか回っていたところを(?),新政権になり,国からの研究予算の先行きに暗雲が立ち込め,そして,研究者の雇用不安がさらに増えているのが現状じゃ無いのでしょうか?。

その前から,高学歴ワーキングプアは問題になっていましたが,これは,一つは企業が欲しがる人材と,大学が博士課程やその後の研究員として育成した人材像がずれていたことにも起因します。

子供の数が減る一方で大学の数は増え,国立大学は独立法人化され,さらに博士課程を増やす。学部生は全入時代で大量に増えますが,さらに以前にくらべて研究者としてスキルに問題があるような修士や博士も大量に増えた気がします。レベルの高い大学も国の助成金により研究員を増やしますが,助成金によるポストなので短期契約になります。大学の生き残りと基礎研究を強化してノーベル賞をとりたい国の思惑から起きた大学のあり方であり,社会に出て企業人や職業人として役に立つ人材を輩出するあり方になっていたのだろうか?と思います。

もちろん研究により身につけたスキルはいろんなことで役に立つかも知れません。でも企業にはいろんな人材が必要で,しかもその比率というのがあります。研究者肌の人間は意外に少なくていいものだったりもします。いくら優秀な人材を育成しようとしても,それが一様な人材であれば社会であぶれるのは当然のことでは無いでしょうか?。とはいえ,わたしは大学にも人材教育という意味で期待はしてます。全入時代であれば以前は企業のOJTや,丁稚奉公で覚えていたことも,大学で習得させる必要があるでしょう。修士や博士はそこまで入らないにしても,学士教育を変えて,社会に多彩な人材を輩出していくように変えていかなくてはいけないのではないでしょうか。

そういう意味では,大学の先生も今まで以上に多彩な人を使い,さらに企業と連携した形での教育をする必要があるのだと思います。
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大学の研究,企業の研究

2010-01-10 06:48:18 | 社会
ネットで「音声認識研究の閉塞感は他人事ではない」という文をから「「何かが欠けている音声認識研究」についての話」というのを知りました。わたしは音響研究者で音声認識研究者ではありませんが,一応音声認識の研究をやってる知人もたくさんいるので,なんとなく思うことを。

講演の話を読んで,こういう感覚は別の分野の研究でもあるだろうなと思いました。音声認識もあまり進んでないのかもしれませんが,わたしが携わっている研究分野ももさほど進んでいる感じがしないと思っている人もいるでしょう。でも何か未発見のものがあってそれが見つかるとまた火がつくだろうなという様な感覚はあります。個人的な経験では20年以上にやりつくされたものを,今の機材と精度でもう一度やってみると,見えてないものが見えたりすることがあって,結構有用な場合もあるんですけどね。行き詰まったら原点に戻ることは重要かなと。それについては,案外基本的な技術が継承されてなかったりするという問題意識もあります。

で,リンクしたtiharaさんは古井先生のおっしゃったことに引っかかりを感じているようですが,たぶん「成果」とか「積み重ね」というものが指すもののイメージが少しずれてるのかな?と思います。そう思えばこの方がおっしゃってることもさほど違和感はありません。

思ったのはtiharaさんもmamorukさんもおっしゃってることには同意するけど,視点が若い研究者というか,大学の研究者だよなぁということです。研究の場というと大学とか公的な研究機関で,しかも2年とか3年契約で研究をする若い研究者を想像してるんだろうなという気がしました。そういう人は,これから20年30年とやっていく職業としての研究分野,そして仕事のあり方としての問題意識でしょう。

わたしは企業で研究をしてるから,少しイメージが違います。成果というと論文を書くことだけじゃないし,むしろサービスや製品を可視化することですから,学術的には進んでなくても,アプリケーションで成果は出せるし組み合わせることも出来ます。あと企業にもよると思いますが,企業での研究者は成果が出ないと研究者としての職場は追われますが,会社をクビになることは少ないので,まぁそういう意味ではダメもとでやってみることも出来ます。上司が有能なら,そこで何らかの成果を出させることもあるでしょう。

ただし,大学でしか出来ない研究というのも山の様にあって,そういうものに企業が期待している部分がたくさんあるので,大学での研究のあり方が問題といえば問題だと思います。

わたしが今,思うは,バブル崩壊以降企業での基礎研究が非常に希薄になって既に20年。日本の企業研究者が非常に少ないこと,そしてその一方で大学で大量の博士が排出され,就職が出来ず短期契約研究者としていること。契約が厳しいので競争原理が働いて優秀な学生が増えてること自体はいいのかもしれませんが,ご指摘の通り,息の長い研究が出来なくなってると思います。

そういう意味で,危機感は分野に限らず,日本の研究のあり方としてあります。もちろん企業も大学もどんどん成果をだして盛んな分野もあるんでしょうけど,そういう中にも,本当に基礎的な成果が出ているところもあれば,どことはいいませんが,流行みたいな感じでリソースが集まってるところもありますから。

そういえば10年位前かしら?,日本政府が基礎研究に力を入れると研究費を増やしましたが,たぶん,そのお金は企業研究所ではなく,大学に投入されました。それは間違っているとは思いませんが,非常に不安定な職業研究者を大学に増やしてしまったなぁとも思います。

まぁ諸刃の剣ってことなんでしょうけど。
コメント
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