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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

崩壊の原因

2006-11-11 09:56:58 | 社会
前に魚食の話を書きましたが,最近魚の話がちょっと盛り上がってるようで….例えばあと50年で海には魚がいなくなるって話をイギリスかどこかの研究者が発表したようで,それに関しての話とか,先日はマグロの件とか….

ニュースそのものはいろいろ突っ込みがあったり,鯨が増えすぎてるからではないか?…とか言われたりもしてるので,信憑性は良くわからない,けど,イワシは採れなくなってるし,そうじゃなくても世界中で魚食が増えれば,そりゃ今のようなバランスってわけにはいかなくなるだろうな…とは思います.
とはいえ,この危機感の扇り方というか警告を観ていて思い出すこともあります.というのは,20年か30年くらい前はあとン10年で石油が無くなる…と言われた時があったのですよね.もちろん石油のなくなる危険性が去ったとは言いませんが,相変わらず,いやますます石油は大量に消費されてます.

これから思うことは二つ….
一つはこういう警告をしてもたぶん効き目が無いって事.石油はここ1年の急激な高騰で若干危機感が出てる気はしますが,一体何年言われていたのだろう?…と言う気がします.ついでに書くと温暖化も危機感としては扇られてるし,異常気象が増えてるけど,あまり世の人の対応は変わらないな…と.
そして,もう一つ思ったのは,結局最終的には食料問題で人は滅ぶ(か,人口激減する)のかな?と.昔は石油とか核とか公害とか,そういうものが人間の危機の原因の様に言われていて,意外に食糧難は言われてませんでした.そりゃそうで,もし言われていたら,日本はこんなに自給率の低い国になってないだろう…ってわけで,ここにも何らかの意図が感じられるのですが….
ちょっと前に文明崩壊だっけ?そういう本を読んでいたのですが,それも森林資源の枯渇とかそういうので人類が滅んだ…って例もあったのですが,最終的にはそれは食糧難に反映されたようです.つまり緑がなくても石油がなくても最終的には食べ物がない…って事が人を殺すと….

そう思うと,結構イメージができるので,怖いな…と.今でも世界中には飢えで苦しむ人もいるけど,それが身近になるわけです.
結局のところ,人にとって…というか動物はみんなそうでしょうけど,「食」が重要で,最終的にはそれによって戦争とかも始めるのかもしれません.魚不足の警告はなにか政治的な意図も感じますが,そういうことも感じました.
ついでに書くと,海は世界中につながってるので,地域だけの問題ではありません.日本はかって鎖国をしていて,人口は半分以下だったけど,化石燃料を使わず自給自足してました.ただ飢饉とかに弱くて,良く餓死者も出てました.ある意味そういう世界が正常なのかもしれませんが,たぶんそうなったら他国を攻める国があったりして,今更あそこには戻れないのだろうな…とは思います.
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語る事でしか寄与できないものは,語ることの是非を議論できない

2006-11-08 11:25:33 | 社会
本当はきちんと考えてから書きたかったのですが,ちょっとまだ迷いもあるためいろいろまた考えて,そのうち同じことを書くかも知れません。

さて本題.
昨今TV報道で盛んに取り上げられてるのは,学校でのいじめによる自殺の件と,必修科目漏れの件.全然別の事件なのだけど,学校という共通で括りやすいのか,続けて取り上げられることが多いように思います.で,必修漏れの件は置いておいて,自殺報道の件では,一つだけ引っ掛かることがあるので,それだけちょっと書きます.

というのは,自殺報道は自殺を促す可能性がある…っていうのが言われたことがあると思うのですが,あれは否定されたのでしょうか?.そして否定されてないのであれば,報道はそれに対してどう自覚してるのでしょうか?….
と検索してみたら自殺は感染する?という指摘はやっぱりあるけど,逆の説もある…ってことで,良くわからない.でも良くわからないから,自分に都合の良いようにとって良い?…ってものなのか?というとどうなんでしょう?.
ただ思うのが,報道にしてもWebのブログとかにしても,「語ること」を否定された場合,そこでそれらはどう影響力を与えることができるのだろうか?ということ.だから報道やブログは語ることの是非自体を問われることに弱いんではないか?…というのが,今回書きたいことの本題です.

最近の「日本の核の保有について議論」するしないで問題視された時も,さすがにTV報道は両方の意見がありましたが,ブログは結構「議論はしてもいいのでは?」という意見が目立ちました.それは議論すること自体を否定されたとき,文章だけでしか戦えない,寄与できないメディアというのは存在自体を否定されるからではないかと.
実際,ブログや報道以外でも現代思想というのは,議論自体を否定する事はないように思います.ただ,じゃぁすべてにおいて議論は否定されないか?…というとそうじゃなくて,旧来…というか,社会…とか組織とか,家族とか,そういうものは議論を否定し,「決まっている」とか「風習」とかで議論を否定することも多いのです.しかし社会は実態があるので,議論がなくても,存在否定されません.逆を言うと議論で成り立つ,思想とか報道は実態がない故に,議論が必須なのかも知れません.なにも寄与できないから,言葉で干渉してくると….
そう思うと,TV報道とかブログとかそういう言葉だけで物事を捕えようとすると,世の中の半分…というかある面だけしか捕えられてない気もします.ですから,言葉で議論することが本当に正解なのか?,というと,どうなんだろう?…と思ったりもします.

ちなみにちょっと話が自殺のはなしに戻るとリンクの先に,古い社会では自殺を防止する儀礼とかがあったという話を読んで,そういえば,以前は親より早く死ぬのは親不孝だとか成仏できないとか言われていた…ということを思い出しました.これも議論で掘り起こす以前に必要な考えかたな気がします.
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学校と居場所

2006-10-21 06:11:14 | 社会
福岡のイジメで自殺の話。相変わらずニュースで取り上げられてます

わたしはイジメを肯定するつもりもありませんが,正直,今回のケースがどう特別なのかは良くわかりません。もちろん,お子さんが無くなったご両親にとっては特別なことであり,彼らがあらゆる手を使うことは,心情的にわからないわけでも無いのですが,離れてみると「何かに原因を集約」することはなんにでも出来るわけではない…とも思います。

余談ですが,あんまり自殺したことを騒ぐと…,今一人で悩んでいる人が,こうやったら世の中は大騒ぎになるのか?…と考えないか?,そういうことも心配してしまいます。

話を戻します。
今回の話をチョコチョコと聞いていて思うのは,どうして学校にすべての原因を集約しようとするのだろう?…ということです。もちろん学校にもたくさんの不手際もあったし,先生のやったことにも問題があったとも思います。でも,学校にその原因を集約し,そして学校の中でのみ解決策を問うことは,結局子供達を学校の中という狭い社会にのみ押し込むことになり,結果としてその中で適応できない新たなはみ出しものをつくってしまうのではないでしょうか?…。
わたし自身は,いじめられた(というかクラスに馴染めなかった)ことも,いじめた意識はないけど,イジメを黙ってみていた様な経験もありますが,クラスに馴染めなかったら部活に精をだしたり,放課後に楽器屋さんにたまったり,親戚の家に遊びに行ったりとか,なんか学校やクラス外のいろいろな場所があったゆえに,クラスに多少の違和感があっても,それなりにやれた気がします。もっともわたしは転校生だったので,あるクラスで居心地が悪くても,いずれまた転校するし…っていう意識はある場合もありましたが。
思い返すと小学校や中学校の頃は,学校というのはクラスというよりは仲が良い何人かの小グループの集合であり,クラス全体に居場所があるない…という様な感じではなかった気がします。だからクラスだろうが部活だろうが,遊び相手がいればそれで良かったと。もちろん学校の外でも…。
わたしはイジメというのは人間の本質的に無くすことは難しいと思ってますが,そこで悩む子供達を救うには,学校に限らず,その子の居場所があることが大事なのではないか?…という気がします。もちろん,いじめの中にはそれ以上に悪質なものもたくさんあり,行為として何かを禁じることは必要なのかも知れません。しかし,あることを学校ですることを禁じても,それだけで子供が疎外感を感じることを防ぐことは出来ません。
ついでに書くと,わたしが子供の頃は,学校は体罰とか校内暴力とかの方が問題になってましたが,それを厳しく取り締まったため,いじめが表層化した気もします。学校は常に何かの問題を産み出す場なのです。ですから,わたしはなるべく閉じた場にしない方が良いのではないか?…という気がしますし,それゆえに,いじめを学校の問題にするのではなく,社会全体で子供の居場所をつくることを真剣に考えた方が良いように思います。
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ピアスと就職

2006-10-07 19:49:04 | 社会
ピアスをしてると就職に困るっていうけど…って話がリンクした文章以外も幾つか挙がっていました。
リンクのさらに先を見ると要はピアスや茶髪は就職面談でばれるので,正社員にならず,結果生涯賃金に物凄く差が出るよ…っていう説明らしい。

社会人をやってる人からみると,こういう説明は突っ込みどころが多いのでしょうが,学生がわかりやすい,説得力がある…っていうのであれば,こういう説明もありカナ?…とわたし自身は思います。実際は多くの企業が本当にそういうところを見るのか?…とか,茶髪やピアスをしていても高収入な職種はあるだろうとか思ったりもするし,そもそも,収入や上司が気にいるか?…ばかりを気にしている社員を本当に欲しいのかとかいろいろ思うことはあるんだけど…。
それから,ピアスとか茶髪とか…そんなに大事なことですか?…というのはむしろ学生に聞きたくて,周りを不快にさせてまでやりたいことですか?とか思ったりもするけど,まぁわたしも高校の頃とかは長髪だったし,それなりにこだわりとしては大事なんでしょう。単に余ってるエネルギーを浪費してるだけとも思わないけど:-p…。
それでも,やっぱり外見で判断したり,言うことを聞く社員を欲しがる企業や職種は結構あるんでしょうから,まぁそういうのは止めておいた方が無難かな?…,と一応は書いておきます。
…で,実はどういう人が出世するのか?…っていうのは,学生どころか社会人を何年もやっていても難しい…というかわからない人が結構います。自分が評価をする方に回ると,いろいろわかってきて,そういう見掛けも信用がある程度出来れば些細なことになるし,でも一方で実力というのもいろいろあって,単純に仕事が出来ればいいってわけでもなかったりもします。一人でものをつくっていく仕事なら別でしょうが,組織で一番大事なのはコミュニケーション能力だろうけど,このコミュニケーション能力っていうのもわかりにくい。というか,相手があってのことだから,一概にこういう行動をしていればいい…っていうのじゃなくて,相手の意向をどう読めるかとか…そういう事だと思う。TPOに合わせられるっていうのもコミュニケーション能力だろうし。

と,まぁそれだけの話です。ちなみに現在は今年度の上半期が終わったばかりなので,うちの周りでは評価が起きてますが…,今年はわたしは評価する方には絡んでないので,一方的に評価される方ではあるんだけど,はてさて…。
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コピー製品と発展途上

2006-10-02 10:38:45 | 社会
昨日の話を引き摺ってもうしわけないのですが,ギター…というかコピー製品の話。

昨日のリンク先を見ると,日本製の安い良いギターが出てきたからアメリカのギターの品質が下がった。だから70年代(80年代?)以降のギターは品質が悪い…と書いてました。これはちょっと驚きます。エレキギターは確かに60年代までがビンテージとして非常に高価がですが,これは別に今だから…というわけではなく,わたしがギターを手にし始めた80年代から言われてました。当時はある時期に良い材木が手に入りにくくなった(ワシントン条約関連)から…というような説明とかメーカの体制の変化(例えばフェンダーがCBSに身売りしたとか)が大きな原因か…と思ってました。日本製のコピーギターの品質が高くてオリジナルを駆逐した…というのは当時思いもよらなかったのですが,昨今の日本の状況をみてるとそれもうなずけます。

現状の日本はアジアの安い電化製品に圧されて非常に苦心させられてます。三洋電機が白物から撤退したというニュースを今日は聞きましたが,白物は既に利益を得るほどの値段をつけられないということでしょう。また偽のゲームボーイをつくったというニュースも今日は聞きましたが,これはさすがにオリジナルを駆逐するようなものではありませんが,日本製品が海外製品に真似されてトラブルになるというものでしょう。

さてこういう状況になってみて,改めて当時の日本をふりかえって見ると,日本のエレキギターメーカはレスポールやストラトキャスターとかのコピーモデルをたくさんつくって売ってましたが,これらはオリジナルにライセンスを払っていたのでしょうか?…。良くわかりません。でも,後にフェンダージャパン…とかが生まれた以降はともかく,それ以前のすべてのメーカが払っていたとはとても思えません。実際に1,2万の通信販売で売っていたレスポールの劣化コピーモデルとかもあったので,そういうのが払っていたかどうか…。まぁ10万円代の高級コピーモデルはオリジナルの輸入代理店と同じメーカだったりもしたので,何らかのものは支払っていたのかも知れませんが。
ギターに限りません。プロジェクトXとかじゃ誇らしげに取り上げてましたが,当時の日本は欧米の製品を買ってきてばらして真似するというのを日常のようにやってました。当時の日本が「オリジナル製品がない」と言われたのも,今となっては否定できないな…と思ったりもします。

いえ,そういうものだ…といえばそう思います。先進国は発展途上国に真似される運命だと…。だとすれば現在日本製のバイクとかのコピー製品がつくられるのも批難できません。もちろんロゴを真似したり名前を偽るのは問題でしょう。でも,車や家電はともかくエレキギターに関しては明らかにコピーモデルが山の様にあり,悪貨が良貨を駆逐したのか…と思うといろいろ複雑な気分です。
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著作権と先進国の利益構造

2006-09-27 20:10:52 | 社会
著作権の保護期間を『死後70年』に延長を求める」というニュースをTVでやってるのをチラリと見た。松本零士さんが訴えていたりして,ちょっと応援したくなったりもするのですが,ふと疑問に思いました。70年というけど,70年後にその著作物で利益を得てるのは誰なんだろう?…と。

作家が著作物で利益を得るのは当然です。それと著作権には利益を得ること意外に,作家の意図にそぐわない使われ方を禁止する…という重要な意味もあり,これも当然の権利です。ですから,作家が生きてるうちは保護されるのは当然でしょう。さて死後…。遺族に自分が残した遺産として利益を渡したいという考えも当然でしょう。また自分の意図に合うように著作物をコントロールしてもらいたい…と思うのも当然でしょう。しかしそれは70年なんでしょうか?。
70年というと子供じゃなくて,孫の世代です。どうかすると曾孫も生まれてます。一族末裔迄…っていう気持ちもわかりますが,三代目までに作者の意図が伝わっているか疑問です。
いや,はっきり言うと,そこまで来ると,莫大な利益を産み出しているなら,著作権は遺族だけじゃなくて,会社の管理になっていたりし,利益を産み出していないのなら,埋もれているのではないか?…という気もします。
そういうところが疑問なのです。作家のみなさんが訴えるのはいいのですが,70年後に利益を得ているのは,貴方の知らない,血縁も何も無い人がほとんどじゃないのか?…ということ。

…という疑問もあるのですが,もう一つ思ったこと。このリンクを見ると70年にするのは欧米に合わせるため…とのこと。じゃぁなぜ欧米は70年なの?。というか基本的に著作権は先進国の方が長く保護しようというのが今の流れな気がします。
これは,一言で言うと,先進国では著作権を主要ビジネスと考えているから…ではないでしょうか?。かって欧米は貿易で諸国から安く買ってきたものを,世界中に売り捌いて巨額の富を得ました。その後には技術的に高度な製品を発明し,それをそうでない国に高く売り捌き,さらにそこから安い労働力や原料を得て…そして加工して…という風に人件費や技術の格差を利用して利益を得てきました。これを搾取…というかは微妙ですが,この格差をコントロールしてきたのは欧米先進国です(日本も含む)。
そして,今,ハイテク製品(特にハード)がアジアでつくられ始め,欧米では利益を得にくくなってきてます。そこで次に利益を得るために用いようと思ってるのが,文化であり,コンテンツであり,そのために著作権の保護が必要…って事なのではないでしょうか?。
そう考えると,欧米で著作権保護が熱心なのも,それに日本が追従しようというのも別に作家の利益の問題ではなく,先進国というグループの産業界の思惑な気がします。ですから,作家と利用者(読者,リスナー)の問題ではないわけです。日本という国の今後の国家利益の上で重要な問題なのかも知れません。

…と,まぁその辺をふまえて考えていれば,著作権を延ばすのも短いのも…どちらの意見でもわたしはいいように思います。著作物は知的工業所有権(特許)みたいに陳腐化しにくい…っていう意味でも,まぁ欧米の人達がうまく金儲けの仕掛けを考えてるのだなぁ,と思いましたけどね。
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愛国心とか国家とか

2006-09-01 06:37:02 | 社会
ちょっと古いネタですが。一週間ほど前山口浩さんのブログに「『愛国者』の3つの責務」というのが載っていて,ふーん,と思って読んでいたら,その後普段わたしが巡回している404 Blog Not Foundさんや,finalventさんのところもしっかり突っ込んでいて,ちょっと面白かった。っていうか,わたしが普段見てるところがそういう関係なのか,それともαブロガーだからなのか…。
まぁfinalventさんのところのコメントに山口さん本人のコメントが寄せられていて,最初の文章はとある人に向けて書いた話で決して一般論として書いたわけじゃない…ってことの様でしたが,他の人の突っ込みどころも,それぞれ違っていて面白い。404 Blog Not Foundさんは「国」を「社会」と読み替え,そことの利害関係というか持ちつ持たれつの部分みたいなところを突っ込んでいるし,finalventさんは,そもそもそれは国じゃなくて共同体だろう?って感じで突っ込んでいます。
まぁ確かにそうで,ここは突っ込むというより,どうも「国」っていう言葉が,どういう社会単位であるか?とか,共同体と混同しているって事が,日本人の愛国心音痴があるように思います。わたしもこの辺は明るくないので誤解していると思いますが,国家を共同幻想としてとらえ,それは実態というよりは「法」つまりシステムそのものというのが西洋的な国家感なのかも知れません。だとしたら,それを愛するというのは約束ごとを支持しているっていう意味であり,民族主義的なものではないように思います。
とはいっても,日本で愛国心という人達がそういうことは考えておらず,また一般の人も国をそういう風にとらえてないのであれば,ここであまり西洋風の国家論を持ち出すのもどうかと思います。まぁ日本の愛国心における「国家」は明治時代に無理やりつくり出したものであることは容易に想像できますが…。
わたしが思うには,明治以前にムラという共同体は田舎には存在していたし,都会にも隣組みたいのはあったように思います。じゃぁそれ以上の単位はなんだったのかというと,「オカミ」だったのではないかと。もちろん武家にはお家とか藩とかいう単位はあったかと思うけど,農民町民はオカミが自分達を支配している(税を払えといってくる)力だったのではないかと。
で,オカミしかなかったからオカミが将軍様から天皇に変わっても大して変わらなかった…。でもそのオカミがなぜ国家になったかというと,その辺はいろいろあったんでしょうな…って気はしますが,それについては書き出すとすごく長くなりそうだし,考えがまとまらないので,今日は止めておきます(^^;)。
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ペット

2006-08-25 09:14:22 | 社会
作家の坂東眞砂子さんが猫を殺しているということを述べたことを知りました。知ったのはSomething Orangeさんの文章なのですが,気が付いたら新聞でも取り上げられている様子。

板東さんは作品も含めて全然知らない人なんですが,おっしゃられていることを読んだときに不快感はありましたが,わたしには反論するだけの材料がないってことで,「こういう人もいるのか」と思ったくらいです。それよりもSomething Orangeさんが書かれていることの方が,実に冷静に書いていてコメントも含めて関心してました。ちなみにSomething Orangeさんはちょっと前に,(人間の)人工堕胎の話を書いていたので,それの踏まえての上での事なのだと思います。要は良くわからないと…。猫を飼うのも不妊手術をするのも子猫を殺すのも人間が決めている…ということ。

まぁ確かにそうなのですが,じゃぁ自分はどうかと考えると,わたしの場合猫は飼ったことがありません。飼っていた動物を繁殖させたことはない(籠の中で飼うような動物しか飼ったことない)のでそういう問題にぶち当たったことはありません。でも将来猫や犬を飼うことがあれば,多分避妊手術とかするんだろうな…と思います。それをかわいそうか?というと思うけど,わたしの場合は産んで捨てたり殺すよりはそっちの方が自分にとっては若干ましです。ちなみに自分が飼ってない野良猫や野良犬(最近少ないけど)が,死んでいくのには,(自然の環境という意味での興味はあるけど)積極的に係わろうとはしません。ひどい言い方をすると,それも自然の一つだろうと。
この辺の感覚は,そう普通の日本人と変わらないのではないかと思ってます。もっともわたしの場合は,川に流れてきた自然界の動物とかもほっておいた方がいいのでは?と思うので,その辺は世間と多少ずれているようですが…。

飼ってる動物は責任を感じて避妊手術をして,野良動物は知らないというのは,基本的にペットとして飼っている動物というのは,疑似家族だと思うからです。そこが自然動物や家畜とは違います。疑似家族であれば,人間と近いように扱わないといけないはずです。そうなると避妊や人工堕胎は許せても,子殺しは抵抗がある…となるわけです。もっとも人間でも避妊手術や堕胎を当人の意思なくおこなえば犯罪ですが,ペットの場合当人の意思は確かめようがありません。まぁでも当人の意思を確認しない変わりに,当人の気持ちを勝手に酌んでしまうのは,相手が動物であろうが,子供であろうが似たようなところがあるのがどうも人間のようです。

そういうわけで,少なくとも当人の意思を確認せずにやってるって意味じゃ避妊も子殺しのいずれも絶対的な正義ではないと思いますが,家族(人間)に近い…という見方をすれば,人工避妊と子殺しのどっちが許されないか…というのは,少なくとも日本の社会の中では決まっているように思います。もっともこれは社会が決めることなのかもしれません。日本は人工堕胎が多いので,もしかしたら他の国だと若干感覚が違うかもしれません。

ところで一つだけ引っ掛かるのはこれだけの騒ぎになるのは予想できていたかと思うのですが,なぜ板東さんはこういう事を新聞で述べたのでしょう?…。作家がわざわざこういうことを書くのは何か伝えたいものがあるのか?という気がします。その辺の文脈が良くわからないので,なんとも言えないというか。
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最近の右傾化の話

2006-08-23 08:27:12 | 社会
ちょっとネタに困ってるので,自分語りをしてみましょう。右翼かどうか…って話。このネタは以前書いたかも知れませんが。

わたしは高校の時あたりから,半ば洒落で「天皇陛下万歳」とか言ってたりしてたのですが,これには幾つか背景があって,うちの高校は日教組が強くて,生徒が君が代を歌いたいのを先生が止めるという様なことがあり,まぁ左翼ぽいのがウザかったこと。あと,自意識のつく時期だけど,どうも日本がアメリカ文化の追従や,アメリカにかなわない…とか言ってるのが気に入らなかったこと。つまり反共でもあり,反米でもあり…じゃぁ日本主義というか…そういうところから,ちょっと右翼ぽい考え方に流れていたのだと思います。
そうは言っても一応バランスがあるので,天皇制を肯定したり,明治憲法下の日本をある程度許容したりしても,当時は,過去の戦争の正当化なんてトンでもない…という時代だったし,天皇万歳とか言ってると,危険なやつだ…と思われそうな雰囲気もありました。まぁ学生の妄想が入ってます。
ただ,まぁ要はいわゆる自虐史観っていうのが嫌で,日本主義…というかアメリカのものがすばらしく日本のものはつまらない…という考えが少しは変わるといいな…という感じだったわけです。
そういう時代を見てきたわたしとしては,今のように,天皇陛下が部下に語った一人言に従うべきだ…というのを新聞が大きく取り上げたり,過去の戦争を見直そう…等という世論が広まるのは…ちょっと意外というか,当時のわたしよりも遥かに世の中の重心が右にずれたのかな?という気がします。
そういうわたしからすると,実はわたし自身は天皇をありがたいと思っているにしても,世間一般的にあたかも神聖にしておかすべからず…という空気が出てくると…それはさすがに違うだろ?…って気はします。
天皇の言葉を有り難がるにしても,天皇は人間であり‥いや神であっても日本の神は別に全知全能ではないので,間違いや失言はするわけで,それに対して「おかしい」と言えないような感じはおかしいと。
なんかそういう空気が例の靖国発言で出ていたので,おかしいな…と思いました。もっとシニカルに「天皇ってタダの人間だろ?」とか言う人がもっといてもいいと思うんだけど,TVでそういう発言をするコメンテータは皆無…。何か別の力を怖がってるんですかね?。
まぁ日本は今は貴族がいないので,高貴な人っていうのが皇室しかいないっていうのは,ちょっと問題な気がします。偉い人の扱いがどうも下手なような…というか…。
ちょっと最後話がそれましたが,要は,わたし自身が,バランスのために右傾化していたようなところがあるだけに,現在の全体的な右傾化にはかなり戸惑ってしまう…っていう感じがする…っていうのが本音です。
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上の戦い下の戦い

2006-08-14 09:10:56 | 社会
レバノンとかイスラエルの事とかは,あまり詳しくないので,わかったように語るのは良くないのだとは思いますが,ちょっと思ったのがフランスはどちらかというとレバノンよりなんだ…ってこと。アメリカはイスラエルよりだというから,ここにもフランスとアメリカの対立があると…。
とはいえ,これでフランスとアメリカが戦争をするとはちょっと考えづらい。フランスとアメリカ…というか大国同士の対立というのが全然ないわけではないけど,経済制裁みたいな話はあっても武力行使になることはあまり考えられない。
でも「代理戦争」という言葉があるように,大国の対立を小さな国同士の戦争にやらせる…っていうのはあるみたいです。今回のレバノンとイスラエルの件はフランスというよりシリアやイランがバックにいる…という話も聞きます。
いずれにせよ代理戦争で傷付き死ぬのはその代理戦争をやっている国の兵隊と市民です。

ここになんか命の重さというか階層があるように思えて気持ちが良くないです。ちょっとたとえは悪いけど,やくざ同士の戦いで,下っ端が命をかけてたくさん死んでもトップの人たちは穏やかに話し合いをして最終的に手打ちにする。もちろんその時にトップが責任を取って死ぬこともあるんだろうけど,どちらかの負けではなく,話し合いで妥協する場合は双方無事だったりする。
別に命の掛け合いに限らない。商売の場でも現場が相当きつい目をやって戦っていても最終的な手打ちはトップで穏やかに行われたりする。
中東の話に戻すとレバノンでたくさんの市民が傷付いているけど,レバノンやイスラエルの政治家は同じ様に傷付くことはないし,そのバックにいる人たちはもっと同じように傷付かない。先進国が仲介しようとしても,当然だけど命をかけることはないのだろうなぁ…と思う。

やるせない…。
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