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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

言い訳として正論をかざす品格

2009-08-16 07:47:53 | ココロ
ネットでよしもとばなな女史が飲み屋で持ち込みをしたら「店長に注意されたのだけど,それで客を失っただろうとか,その店は店長が変わるか店がつぶれるだろう」と書いているのに疑問を感じている文章が話題になってました。
正直わたしもこの文章を読んで,よしもと女史の方にあまり好感をもてなかったのですが,ネットでも「自分達を特別扱いしろ」みたいに書いているのが不快だとか,「昔は良かったのに」と言いたげなのが不快だとか,そんなことが書いてます。
まぁ確かにわたしも同じようなことを思うんですが,ただ一番一番よしもと女史に共感しないのは,よしもと女史自身がその店長に注意,もしくはよしもと女史の行動で店員が店長に怒られたことの原因になっており,つまりよしもと女史が当事者であるのに,あたかも自分が客観的に「あの店は今後商売に失敗するだろう」と評してるからです。まったく利害の外にいる第三者が,この一連の流れを目撃して評していれば,まぁそういう見方もあるわな…とは思うのですが,怒られた当事者が,そういう客を大事にしない店は良くないと,しかもその「客」というのが自分たち自身だったりするわけですから,単に自分達がまずいことをやったことを正当化するために,言い訳を考えたように見えるのです。これって冷静に書いているようですが一種の逆切れですよね。「冷たい逆ギレ」と銘しましょうか:-)。
どんなに正論であっても,当事者だけで評している場合,それが本当に正しいことなのか?平等なことなのかわかりません。もしかしたら,よしもと女史が自分で飲食店を経営して,持込をする客がいても持ち込みは客を大事にするために許容すべきだといえるのでしょうか?。よくわかりません。こういうことは,当事者が語る上では客観的な意見じゃないのだと思います。それを頭がいい人は客観的な事実の様に語ろうとする,でもそれははたから見ると,自分を正当化するために言い訳してるとか,逆ギレしてるって言う風にもみえるんですよね。だからなんとなく,わたしはこの文を読んだときに品がないなぁ…とも思いました。ただ,一方でこの文が売っている本に書かれている…ってことを観るに,こういう文を支持する人も結構いて,それを計算して,こういう文を書いているのか?とも思うと,わたしがこう書くのも計算のうちなのかと思うと,だとすると向こうがさらにもう一枚以上上なのか?などとも感じてしまいました。品がないのも芸風…というか。
いずれにせよ,わたしが普段医療とかの話で書いているように当事者の意見は貴重だけど,それを一般論の様に,さらにまるで相手や世間のための様に語るのは,ちょっと違うような気がする,というようなことを,このことでも思いました。
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わが人生に悔い無し?

2009-06-22 22:11:38 | ココロ
週末会社の後輩が演奏会をするというので見に行きました。それはまぁ良かったのだけど見ていて,アマチュアながら演奏の場を持っていて,楽しそうだなぁと少しうらやましく思いました。
他にもわたしの知り合いで趣味で音楽をやっている人で,演奏の場を持っている人は何人かいて,うらやましく思ったりもしますが,じゃぁ自分もそうできるか?というとやろうと思うとできるんだろうな…とは思うのですが,いろいろステップがあるよなぁ,まず練習しないと(苦笑)とか思います。
最近すっかり楽器の練習をしなくなってますが,わたしの一番の趣味は一応音楽のはずで,聴くだけは聴いてますiPodで。そのほかの趣味というとマンガを読んだりアニメを見たり,読書をしたり…,そんなことが多いですが,マンガとかアニメはちょっとやると頭がやわらかくなっていいな…とは思いますが,あっという間に時間が過ぎるので,そればかりになってしまうと,あまり生産性がよくない。コンテンツを消費してるだけなので,何かそれでわたしに能力がついたり新しいものを生み出しているようなことはないように思います。
学生の頃楽器を演奏するのは好きでしたが,大学の頃は演奏をするよりも音楽を聴いていろいろ考察したり,あとジャズの理論書を読んで,いろいろ考えたりすることに時間を割いたりしてました。それはそれで得ることはあったのですが,もっと何も考えずひたすら他人の演奏をコピーしたり,人前で演奏をしていたら,なんかもっと違った音楽との関わりになっていたかもなぁ…などと思います。
無心に行動するよりも頭で考えることが好きなのは性分で,仕事とかも手を動かして実験とかするよりも頭の中でシミュレーションをしてる時間の方が多い気がします。そんなことする暇があったら,実験して論文を書いたほうが成果が出るんじゃないか?と思うので,それに関しては,少し按分を変えようかとか思ったりもします。
…などと考えながら,わたしは「あの時ああすればよかった」という想いがあるのだろうか?などと急に思い出したのですが,以前もそう思ったけど,わたしは,そういう風に思うことはほとんどありません。確かに「ああすれば人生変わったよな」と思うことはありますが,あの時はそれが最良の選択だと思ったし,そうじゃなくても楽しかったらそれで良いし…みたいな感じ。今のわたしの人生が,すべて順調か?といわれるとわかりませんが,致命的に困った状況でもないし,まぁ将来がバラ色かは不明ですが,まだまだ人生あきらめたわけでもない。
だからといって,例えば自分に子供ができたとしたら,自分と同じような人生を歩ませようとするか?,自分が先生になったら生徒に,自分が歩んできた道を勧めるのか?…とかなると良くわかりません。他の人生もあったよなぁとは思うけど,じゃぁそこに自分が果たせなかったものを託すかというと,あまりそういう気分でもないか?。
教育熱心な親は,「自分の様に生きろ」というパターンと「自分が果たせなかったものを託す(言い換えればルサンチマン)」のパターンとかある様に思いますが,自分の場合どうなるんだろう?とふと思いましたが,結局のところ良くわかりませんでした。
まぁ自分の人生に悔いがなくても,それがベストな人生だとも思ってないってことなのかな?。そんな感じのことをいろいろと総括しておいたほうがいい時期なのか?などと思ったりしてちょっと書いてみました。
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思考と言葉と聴覚と脳

2009-06-18 22:28:50 | ココロ
弾小飼氏のところで脳がよくなる耳勉強法の書評を読んで。
わたしも必ずしも思考は言語で行うわけでもないと思ってるのですが,行うわけではないと断言はしません。実際言語で行うと思ってるときと,そうじゃないときがあります。思考を外部に取り出すときは言語を使ったり,記号を使ったりしますが,内部でも言語の階層と非言語の階層が両方動いているときもあるし,どっちかだけのときもある気がする…という感じか?。意識して言語を使わずに思考することは可能だけど,複雑な思考を組み立てるときは言語がないとうまく思考できないこともあります。人間の短期記憶ってそんなに容量がないので,論理を言語という道具を使って組み立てると,コンパクトに物事の関係が表せるので,少ない記憶で複雑なことを考えられる…って気はします。
その後の耳が目より優勢というのはわかるようにも思うけど,実際は個人差もあるのでなんともいえないかな。わたしは人と感じ方の違いを考えるのが好きなのでよくやるのですが,視覚にしても聴覚にしても人によって全然違って,比較自体が無意味な気がします。わたしは普段からいろいろと音を聞いている様で,周りの状況を音ですぐ気づくのですが,でも結構空間的に音を聞いていて,むしろわたしの聴覚は非言語的にできている気がします。
この辺はあまり断言できるものはないのじゃないか?という気がします。むしろあまり自信ありげにいわれると胡散臭く感じるというか。
後,もうひとつ。「脳が良くなる」というフレーズ。これは紹介されていた本のフレーズですけど,まぁ脳なんてどう刺激を与えるか?だから,これも回答がひとつなわけじゃない。ダイエットと一緒で,どれだけ新鮮味を維持できるか?みたいなもんじゃないかね?と思います。そんなところで。
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自我の目覚めは動物の本能?

2009-06-17 22:03:47 | ココロ
TVアニメでとある動物の子供を飼育していたら,その動物は飼育していた人を親の様に思うようになったという話をやってました。子供の動物は飼育していた人より,体格はずっと大きいという設定です。ちなみにそのアニメは架空の話なので動物の架空ですが,現実にもありそうな話です。
子供が親を親として認識して,ついていったりするのは,動物が生きていくためには必要な能力でしょう。餌をもらったり,守ってくれたりするからです。でも,通常の動物はいつまでもそうであるわけではなく,ある歳になると親離れをして独立して暮らし,今度はつがいを探すことになります。この流れだけを見ると人間も同じです。
では,なぜ親から離れるのでしょう?。成長すると体が大きくなり親が親に見えなくなるのか?というと,上記の様に自分より小さい他の動物を自分の親と思うことがあることから,別にサイズの問題ではないように思います。子供が大きくなり自分だけで餌を採る能力がついたり,他の危険から守る能力がついて,結果として,親を頼らなくても生きていける自信がつくことで,親から離れる…っていうのはありそうです。であれば,動物園に飼われているような動物は餌を採る能力を身につけませんが,彼らはずっと飼育員を親として慕うのでしょうか?。それとも身体的に生殖能力がつくことで,親を避けて,つがいを探すような本能があるのでしょうか?。
さて,上に人間と同じと書きましたが,人間の場合親離れは反抗期とか思春期とセットの様に思われてるので,身体的なものというよりは精神的な成長…と思われがちです。でも動物と同じ行動ってことは,動物も精神的な成長で親離れするのか?,それとも人間も単に身体的に成長したことで親離れするのか?…そのどちらかのような気がします。
人間は自分達を高度な生き物と思って特別視してますが,案外他の動物と同じように遺伝的に仕組まれている本能に拠って親離れをするのかも知れません。そうであれば,同じく思春期の頃に始まる,自我への目覚めとか世界観を確立したりするような思考行動も,単なる動物の本能の延長でしかないのかな?と思いました。
まぁ良くわからないけど,ふと思ったことを書きました。
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逃げ道を用意できないか?,そして対人は大事

2009-05-16 11:08:10 | ココロ
東北大で院生が自殺した件で指導に過失があったという結果が出たそうで。
まずは生徒さんにお気の毒とおもったのですが,それに加えて,大学関係者には知り合いが多い(東北大はいないけど)自身からすると,大学の方は大変そうだなぁ,と思いました。
大学の先生っていろんな人がいるので,おそらく問題が大きい先生もそれなりにいて,でもそうじゃない先生もいて,さらに生徒の方はもっと色んな生徒がいるから,自殺の原因はいろいろありえて,なので,個々のケースを調べないとなんともいえません。それで,今回は個々のケースを調べて,指導に問題があったという事なので,指導に問題があったのでしょう。
そういう個別のケースではあるのですが,それに影響を受けて,大学が色んな対策をうたなくてはいけなくなったり,指導するほうも,どう指導していいかわからなくなったりとか,そういうことがあり得るので,そういうのは大変だなぁと思ったわけです。
もっとも死んでしまった生徒の方は,そっちの立場に関係なく,大変だったわけで気の毒だったわけですが,まぁこちらも個々のケースによるので,あまりどうしたらいいとは言えません。
実はわたしは,あまり大学の先生で苦労をしたことはありません。でもわたしの知り合いには何人か先生とうまくいってない人もいたし,知り合いの知り合いぐらいになると,本当に先生が障害になって研究活動ができないような人も聞いたことがあります。ですから,今回の様な事件は,まぁあり得るだろうなぁ,とも思います。
一方で,学生ってこういう先生が障壁になっているときに,それをどうクリアするか?,どう乗り越えるか?が意外にみんな考えない。話題にならないし,実行する人も少ないので,お手本がなくて,ますます先生で苦労する学生は手のうち用がなくなってる気がします。
気軽に書くと怒られるかもしれないけど,担当の先生を変えたり,所属学部を変えたり,大学を変えるという手があったりするのだけど,実行する人はあまりいません。苦労して入った大学だし,先生といざこざを起こして他の先生や学校に移っても,業界が近いと,受け入れてもらえないというケースもあるんだけど,でも,そういうことやって,それなりにやってる人も知ってるので,可能といえば可能なんだろうなとも思います。
子供の学校のトラブルは,そこから抜け出る方法を当事者が思いつかず,深みにはまっていくというケースが多いという気がしますが,そういうときに抜け出る道があることを,もう少し意識させられないのかな?とは思います。

もうひとつ,あくまで今回の話とは関係なく,よく若い学生とかがネットとかに書いてるのを見て思うのは,若い人は,実力があれば成功して,人付き合いとか対人的なものは,あまり重要じゃないと思っている人が結構いる気がします。だからSNSとかで研究室とかにいる学生の書き込みを見ると,先生といざこざを起こしながら,「認められない」と怒っている人がいます。でも,実際は社会に出てもそうなんですが,実力と人当たりと両方ないとうまく行かないパターンが多い。極端なことを書くと,たぶん実力より人当たりの方が重要だったりします。まぁ人当たりといってもいろいろあるんだけど。
そういえばネットである芸能人が干されていた理由というのを一般人があれこれ書いてましたが,やっぱり根本的には人当たりで干されてるんですよね。もちろん,誰かに目をつけられて,というパターンもあるんですが,人当たりが良くなったら,仕事が増えたという人が結構いる様です。芸能人もルックスや芸が大事の様に思うのですが,実際の社会はどんな才能がある人も一人では仕事ができないので,やっぱり人当たりというのは大事なのだと思います。
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人の人生と幸せ

2009-05-11 21:01:52 | ココロ
義理の弟の結婚式に出た帰り,義理の妹が「人の人生を観るのは良い」みたいなことを言いました。続けるに,人の人生を観ると,いろんな幸せが世の中にある事がわかり救われるとのこと。自分の人生だけを観ていると,人生の幸せは「これしかない」と思って袋小路に入ってしまうが,いろんなパターンの幸せを観ると,あぁーこういう幸せもあるんだなと思うから救われる…というような話だった。

fujiponさんの凡庸の哀しみというのを読みました。わたしは凡庸という言葉がイマイチ良くわからないのですが,ここに書かれた勝手の想いには幾つか共感しました。寝るのが怖いと思ったこともありますし,名前を残したいと思ったこともあります。わたしは親と比べてどうのこうのというのはありませんでしたが,若い頃は親とは違う仕事につきたいと思っていたし,人と違う何かオリジナルなものになりたいという想いはかなり強かったと思います。いや,今でも結構強いです。芸術が好きなのも,人より優れていることよりも人と違ってることを求めているからでしょう。
今では,歴史に名を残すのは無理かな?とは思ってますが,専門書のどこかに自分の論文が引用されたりすると良いなとは思っております。その程度。
自分は死を意識する病気になった事もあり,ある意味死ぬことについては諦めがついた様なところがあります。ただ,今はそれよりも自分が残していく人達の先行きが気になる,ただそれだけでしょうか。
人の幸せとはなにか誰が見てもオリジナルな何かになったりすることではなく,普通に生きて普通に自分の周辺の人達に何かを残すことかなと今は思います。それが世界に爪痕を残すということかも知れません。自分を残す人達とかかわり合いがしっかり持てれば,それが幸せであり,そういう期間が長ければ充実した人生だったと言えると思ってます。

世界中の誰が見てもこの人を知っている…という成功は数少ないパターンかも知れませんが,人間の一人一人のかかわり合いは,物凄いパターンがあります。その中には数得きれないほどの幸せなかかわり合いもあると思います。義妹のいう「それぞれにいろんな幸せがある,人の人生」,特別ではないという意味では凡庸なのかもしれませんが,「こういう幸せもあるんだ」という意味でもあるように思います。
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やる気もやらない気も必要ない

2009-04-11 09:17:04 | ココロ
ネットで「婚活・そもそも結婚自体に価値がない」という文を斜め読みして,なんか突っ込もうかなぁと思っていたら,「やる気出すより手足出せ」という文,というよりそこでリンクされている文を読んで,なんか先の文と同じような感情がわいたので,こっちについて先に書きます。結婚の話に限った突っ込みは,また別途。
実はわたしも,やる気がなくても体を動かしているとやる気が出ることは多々ある,と思っているので弾氏の書いてることはほぼ同意。まぁ細かいところはおいておいて。
リンクされていた文を読んで思ったのは,なんかネガティブだなぁということ。やらない理由を一生懸命理屈をひねって書いている。そういう意味で最初にリンクした結婚の話と印象がつながったのでした。
やる気が起きないからやらないとか,やる気を出さないととか,何かをするのに,感情の上だったり理屈だったりで理由を求めてます。そしてその理由が十分に得られないからやらないという。でも逆に理由がなくてもやるっていうのもあると思います。こういうときはやるって決めているとか,断る理由がなければやると決めておくとか,そういう理由でものごとをやってもいい。結婚だって,昔は歳を取ったらするものだったから,今みたいに結婚する理由や結婚しない理由を求めなかったとか。というか,今でも結婚するものだと思って結婚した人は,別に結婚した理由を語らないので,こういうことを語る人は,そうじゃない人なのかもしれません。
結婚の話は置いておくのだった(苦笑)。やる気が起きないときにやる気を待っていてもなかなか起きないものだと思います。とりあえずはじめてみるとなんか続く…というのはよくあることです。というかわたしは「得意なこととやりたいことは異なる」と思っているので,やる気満々でやったことの方が失敗して苦労したり,やる気がなかったけど,やったら成果が出たという経験の方が遥かに多いので,結構やることは外部要因で決めたりします。
単純作業が意外に楽しいというのはプチプチつぶしが楽しいことからも解ります(笑)。ただやる気が起きないけど,無理やりやる…のをあんまり無理にすると心身を壊す場合もあります。だからやり始めるきっかけとしてやる気は問題じゃないと思うけど,やっているときに,どういう心身状態かは冷静に自己分析する必要はあるでしょう。身体とか心に無理がかかっているようだったら,ペースとかやる順番とかを変えてみるとか,そういうことも必要かと。そして体やココロが喜ぶ方向を見つけるというか,そうするといいんじゃないな。
とにかく,自分がやることは自分の心が決めるとか,自分の意思が必要だとか,そういう風に思うことの方が負担になる場合もあるし,それって逆に逃げ場がなかったりしてしんどいようにも思います。意思を持ってやらないことが決してネガティブではないし,それが楽しくないわけでもないのではないか?とわたしは思います。
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間違いを信じる人を観る不思議な感覚

2009-04-09 21:25:34 | ココロ
北朝鮮で衛星打ち上げの報道が盛んにされているらしいという話。北朝鮮を戦前の日本のようだという表現は良くみるのですが,まさに大本営。世界中どこから見ても衛星は上がっていないのに,国内には上がったと報道し続ける態度がすごいなぁ。
これだけ堂々と間違ったことを報道するというのは,海外向けというより国内向けなんでしょう。かっての日本が海外で敗戦してるのに,国内では連勝していると報道していたのと同じようなものを感じます。日本ではそれは末期的症状だった…とみなされてますが,果たして…。
話は変わりますが。
愛煙家の人が駅が全面禁煙になったことに文句を言っているのを読んで。愛煙家の人が全面禁煙に文句をいうのは,まぁわからないでもありません。わたしはたばこを吸わないので,禁煙になるのは助かりますが,それまで吸えていた人にとっては何かと辛いでしょう。
しかしこのリンク先に書いてあることはむちゃくちゃ過ぎます。特にたばこと発ガンに関連がない…とあたかも科学的根拠があるかのように書かれているのに驚きました。そんなバカなという感じ。癌は遺伝で決まるというようなことが書いてます。それでは,マウスとかに発ガン物質を塗って人工的に癌を起こしている実験はすべて失敗してるとでも言うのでしょうか?。
もちろん発ガン物質をとっても100%の人が癌になるわけではありません。タバコは発がん性がある**らしい**という医学的見解ですから,タバコを吸ってもがんにならずに死んでいく人もそれなりにいます。わたしはこれまでタバコを吸う人は,その何割かのタバコを吸っても癌にならない人に自分が入っていると根拠もなく信じているのだろう,と思ってました。でもリンク先を読むと,そもそもタバコを吸っても誰も癌にならないと思っている人がいるんだ…と思ってこれは驚きました。
そういう人はもし癌になっても自分がタバコで癌になる人のほうに入ったと思うのではなく,タバコを吸っても吸わなくても遺伝で癌になったと信じるんだなぁ…。どうりでヘビースモーカーが癌になってもタバコ会社を訴えないわけだ…と思いました。
…というわけで,なんか今日は,「信じる人」を観て,なんか不思議な感覚でした。
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不幸を運命のせいにする知恵

2009-03-12 06:34:01 | ココロ
何度も書いているネタのような気がしますが,また書きます。
某こんにゃく菓子を赤ん坊とか老人が食べて亡くなるという「事故」があって,遺族がメーカを訴えるとかそういう騒ぎが,最近話題になっています。それに対してとあるブログで,「やっぱり事故だと思う」という意見とか「誰かの責を問うことは、自分の責ではない事を欲することの対偶」とかいう意見を読んでいて,思うことを書きます。
こんにゃく菓子の事故自体についての考察をここに書くつもりはありませんが,基本的にはリンクした二つの文章には賛同します。特に反論はありません。そしてこれに反応をしたのはその事故のことよりも「誰かの責任にしなければならないという、いまの社会の残酷さ」をわたしも感じるからです。
リンクのブログは二人ともお医者さまですから,その境遇で強く感じていることでしょう。病院で患者が亡くなった時に遺族が医者を訴えるのは最近は良く聞きます。病院は体調を崩した方が集まるところで,当然普通のビジネスより人が死ぬ確率は高いはずなのに,人が死ぬことをまるであり得ないかのように訴えられるのは,たまらないだろうな,と第三者のわたしは思います。でも訴える方の心情を想像するに,遺族である自分のせいにしたくないというのもわかりますし,それ以前に理由無く人が死ぬことが納得できないというものもあるのかなと思います。
でもわたしは,人は理由無く死ぬことはあると思います。いや,死因はありますが,人為的な理由とか,普段の行いとか,そういうのがなくても,不意に人は死ぬものです。
…。
昔は,そういうのって「運命(さだめ)」って言っていたのではないでしょうか?もしかしたら神様の思し召しと言っていたかもしれません。そういうのってどうして無くなったのでしょう?。
昔は死が日常にありました。子供が産まれて良く死ぬ,母親も助からないとかいうのは良く聞く話でした。子供が遊んでいるときに事故で亡くなるとかもありますし,年寄りは夏場は水に当たり,冬場は寒さで亡くなってました。戦争や戦が日常茶飯事だった頃は,頑丈な大人でさえ,すぐにどこかで死んでました。そういう場は,いまでも世界中にまだまだあります。
そういう人達が個々の誰々が死んだのは誰のせいだとずっと訴え続けているのでしょうか?。そういう人もいると思いますが,それをさらに社会全体が担ぎ上げるということがあってるでしょうか?。死んで残された個々の方々の辛さは大きいでしょうが,それを乗り越えて行かなくては自分も生きていけないし,コミュニティも回らない。死が日常過ぎるのもあるでしょうが,それを和らげるための知恵やシステムがあったようにも思います。
…。
中近東で生まれた某宗教たちがなぜそれだけの強力なミームを持っていたかというと,その教えの中に「なぜ我々はこんなに不幸なのか?」を明確に説明しているからではないか?とわたしは思ってます。そもそもあれら宗教は原罪で始まってます。その子孫達も罪を犯してますし,神様は物凄い試練を与えてます。また仏教は宗教とは言いにくいですが,仏教の背景にあるインドの宗教には輪廻という概念があり,現世の辛さは前世に依るものだとしてます。仏教の救いとは輪廻からの解脱というのも,生まれ替わりが嬉しいことではなく辛いことであるとしている考え方でしょう。
いずれも今我々がこんなに辛いのは,今の自分でも,自分の社会のせいでもなくて,それ以外の何かのせいだからと説明したので,当人達も納得したし,それを社会や権力者のせいにしなくて,社会システムとうまく融合したのでしょう。
考えてみたら,社会システムとうまく適応できないカルト宗教は,不幸を現在の社会や自分達のせいにしてるからうまくいかないのかも知れません。
…。
人が強力な不幸に陥ったときに理由を求めるのは本能の様な気がします。それはその不幸を逃れるための手段を見つけるための本能でしょう。そうやって物事の因果性を求めるのが人間の思考です。
人は病気になっときになぜ病気になったのかを考えます。それは今の病気を治すために必要な情報になるし,次の人が同じ病気にならないための手段になります。でも,病気によってはあまり意味がない場合もあります。わたしはガンになったときになぜガンになったか必死に考えましたが,最初にガンになるときと,再発するときは原因が違う場合が多いので,最初にガンになった原因がわかって,それをやめたからといって,再発の確率が下がるかというと謎です。新たなガンになるのを予防する意味はあるかもしれませんし,ストレスとか免疫力という大きな範疇での体調コントロールにはなるでしょうけど…。
そしてわたしはガンになって死ぬ思いをした自分は何が悪いのか?,誰のせいなのか?必死に考えましたが,当然ですが,答えは出ません。キューブラー・ロスによると人が死ぬ過程で「取引」という状態があるのですが,これも死ぬ事の理由を見つけ取り除こうとする行為でしょう。
…。
話がそれましたが,かっては日本でも人が死ぬことに特定の誰かのせいじゃない…と,うまく矛先をそらす知恵を持っていた様に思います。いつからそういうのがなくなったのでしょう?。誰かのせいにしないと自分のせいにされるというのは,結局特定の誰かのせいにしなければいけないというシステムが動いているからです。そこで「運命」と言って納得することはできないのでしょうか?。
宗教を勧めているわけではありません。ましては人が死んでいくことを積極的に肯定しているわけでもありません。人が死ななくなるように知恵を絞り努力していくことは重要です。そのためには論理的に考え科学的に分析することも重要です。だからこそ,無意味に誰かに責任を負わせることも,再発を防止する効果がなければ意味がありません。医療従事者を減らしたり,遺族をイタズラに貶めるだけなら,論理的に考えても悪影響の方が多いです。
あることで人が死ぬことには原因があり,それは分析して防止策をつくることは重要でしょう。でもその事で,なぜその特定の人が不幸になったか?というのは,出口のない問いかけの様な気がします。なぜ自分(の家族)なのか?,それは運命のせいにしてもいいかも知れません。わたしは自分については,今はそういう心境にとりあえず落ち着いてます。
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「超人」としての親

2009-02-04 21:49:04 | ココロ
この間の日曜,TVの「目が点」で節分の話をやっていて,小さい子供がいる家では,父親が鬼を追い払うと,尊敬されるという話をやってました。鬼を追い払ったら「強い人」として父親を挙げていたけど,その前はTVのヒーローを挙げていたのが,ちょっとほほえましいというか,逆に豆まきしなかったら,子供は父親を強いと思ってないのか?(^^;),とか少し思ったりも。
先日ネットの匿名日記の中に,父親が子供に対して威厳を失う行動というのが書かれていたのを読みました。まぁそうだろうなという内容でしたが,子供の前でこういう行動をするのか,と思ったりもします。でも子供というのは,親をよく観ていて,大人だったら見逃すような,親の行動の一貫性のなさに気づいたりするものです。わたしも子供の頃に,親の言うことが言うたびに少しずつ変わっていたりすると結構反発を覚えました。大人だったらたぶん気づかないような些細なことだったかもしれません。
そういう意味では親というのは子供に対して反面教師になりやすいものかもしれません。子供に厳しく言うのは,子供にちゃんとした大人になってほしいからですが,その内容と,自分の行動が違っていれば大抵子供は気がつきます。「大人だからいい」と言っても簡単には納得しませんし,他人を批判していて,自分がちゃんとできてないとやっぱりそれは矛盾だったりします。
とはいえ,大人からすると,大人といっても人間,そんなにしっかりした人ばかりではありません。結婚するまでいい加減だった人が,子供ができたら急に考え方が変わって立派になろうとするのはものすごく良く見る光景ですが,そんな付け焼きが刃こぼれしないわけもなく(苦笑)。
大人だって一人の人間,そんな立派に生きられるものでもないでしょう。そう思うと,自分の親に対してたいして腹は立たないのですが,そう思えないのは逆に親離れできてない証拠の様な気もします。
わたしの場合,父親に対しては,尊敬というより反面教師的(わたしが親から一番受けた反面教師的教訓は,「ごめん」と「ありがとう」いえない大人にはならないということかもしれません)になった面と,一方で自分も似てるなぁと思ってしまう面があったり,そんな感じです。高校を出るとすぐに別居したので,それ以降ほとんどぶつかる事はなくなりました。最近は歳を取ってわがままになったり,情けなくなったり,言動に一貫性がなくなったり,そういう面が強く出るような気がしてますが,それはむしろ元々がそういう人間であり,わたしの父親として行動していた頃が,がんばっていたのかもしれないと思うと,少し微笑ましくも思えたりします。
人間はそんなに立派な生き物じゃないと思うけど,子供の前では立派であろうとするし,子供にとって親は絶対的なものだから,親には立派な「超人」であってほしいのでしょう。だからそうじゃないと,子供は親に失望しまします。
というわけで,世の中に文句ばかり言うと,子供から観ると相当失望されますよ:-p。
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