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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

成功に必要なことのイメージがなければ教育は出来ない

2009-01-24 15:21:43 | ココロ
内田樹先生が学生が勉強しないのは,相手に勝つために全体のレベルを下げようとしているからというのを書いて,本当なのか?すごいなぁ。なんかピンとこないけど,現実に大学の先生が言ってるからそうなんだろうか?と思っていたら,山口先生はそうじゃなくて勉強(競争)に勝ったときの報酬が目減りして,一方で負けても罰が減ってるからではとおっしゃってます。正解は今のわたしにはわからないのですが,山口先生の方がわたしにはピンと来ます。
もっとも今のご時勢は,正社員・派遣格差がひどい,みたいな感じで,決して社会で成功しようがしまいが同じように生きていける時代じゃなくなっている様な風潮ですが,ちょっと前までは,あまりこういうのは表層化してませんでした。不況はあったんですけど,個人レベルの格差として見えなかったというか。
これから変わっていくかもしれませんが,今までは,勉強しまいがしようがどこでも良ければ大学までいけて,まぁそのあとはなんとかなるでしょ?。フリーターとかやっていってもいいし,みたいな感じだったのかもしれません。フリーターが20代は良くても,30代,40代とかなると結構大変とか言い出したのは,ここ10年くらい。そろそろ社会に出ようと思っていた学生がそんなことに気づいても,もう間に合いません。
そういう罰の方は,もしかしたらそろそろはっきりしてきてるのかもしれませんが,一方で報酬の方は今でもよく見えないように思います。いい大学に出たら大企業や官僚になれるのかもしれませんが,官僚なんてまるで悪人の様にTVでは言われてます。企業は個人が見えません。個人で成功が見えるのは一流のスポーツ選手や芸能人とかでしょうが,これは勉強でなれるものではありません。ベンチャーとかで成功して金持ちになった人も少数ながらいますが,結構これらの人々は,「学校の勉強なんて役に立たない」とか言うものだから,ますます勉強をしなくてもいいのかな?とか思ってしまいそうです。実はそういう人たちは学校ははみ出ていても,勉強は出来ていたりしてるんですけどね。
成功しないと大変なことになるといわれても,どうやったら成功するのかがイメージできなければ,努力のしようがないなとも思います。
ついでに書くと,今の親は子供に何をさせないといけないと思ってるんですかね?。今の社会は犯罪が怖いとか,学校でのいじめが怖いとか,そういうのを声を大にしているのは聞こえますが,子供の将来に対して,どういう風に子供を育てるべきとか?,あまり聞こえません。のびのびと自由に育ってほしいというのはあるのかもしれませんが,それも大事ですが,それだけで子供が大人になって大丈夫なんだろうか?とか。
結局大人の中にも,どういう大人になれば良いかがイメージできてなければ,子供がわかるわけもないよなと思います。わたしが子供の頃は,そこまできつくは言われませんでしたが,やっぱり勉強をしていい大学に出ないと楽できないとか好きなこと出来ないと親に言われてました。そこで親が勧める仕事には嫌悪感を持っていたけど,勉強が出来るにこしたことはないちょっと思っていたように思います。勉強熱心なのは良くない,みたいな事を言われて久しい気がしますが,実はあれはいい教育だったのかもなともおもいます。
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統計は人間(の心情)にマッチするのか?

2009-01-19 19:56:35 | ココロ
科学的思考を求められる現代では確率という統計量を使ってものごとを語ることが増えている気がします。わたしが一番身近に感じるのは病気に関することで,ある病気にかかったときの死亡率とか発病率とか。他にもいろいろなことで確率はよく使われますが,時々あれ?と思うような使われ方もしており,もしかしたら,確率統計というのをわたしは正しく理解してないのか?とか世の中の人は理解してるのか?とか思うことも多々あります。先日読んだ本にわたしが今ここにいる確率は限りなく零に近いので奇跡だみたいな事が書かれていて,わたしはそれを読んで,確率の使い方が違うだろう?と思ったのですが,もしかしたら,わたしの方が間違ってる?。

そうである一方で,どうも世論は確率が低いような危険性について大騒ぎすることもあります。BSEの問題もBSEにかかる人や死ぬ人が,他の病気に比べ遥かに少なくても,最優先事項の様に大騒ぎします。一方で自殺で死ぬ人や,交通事故で死ぬ人の割合が結構バカにならないくらいあっても,なぜか大騒ぎしません。

この辺の違和感がずっと気になっていて,もしかしたら人間は確率を正しく理解できない思考構造を持っているのではないか?とか思ったりもします。一方で現代の科学の問題は確率統計の手法を使って証明される問題がものすごく増えてます。解析的というか,システマチックに解ける問題が減っていることや,システマチックに理論を作れても,実際の問題に適用するときその他の不特定な要因で100%起きるとか起きないとか言うことが難しいので,確率的(有意検定とか)に証明することが増えてるのでしょう。

わたしも自分で研究していると,数式で理論を構築していくことより実験を行い結果を統計的に検定することが結構多いです。そういうわたしですが,上に書いた病気に関する確率での表現と人々の反応についてどうも非科学的なことが起きえるのは,致し方ないな,と自分の実感としてあります。

というのは,確率というのは母集団を規定して,その全体の中でどれくらいの数がある状態になったかみたいな話であり,非常にマクロな視点でものごとを語ります。しかし実際に自分にその問題を当てはめるとそれはあくまでも「個」の問題であり,つまりミクロな視点になります。あと事前の確率と事後確率と確率は異なりますが,社会で確率が語られるときに,そのことがあまり意識されないので,話がこんがらがることが多いように思います。

自分のことがわかりやすいので自分の事情を書くと,わたしはとある癌にかかりましたが,わたしがかかった癌は数十万人に一人がかかる癌だそうです。癌としては珍しい癌ですが,かかったわたし自身からすれば,珍しかろうが誰でもなりえようが,そういうのは関係ないのです。誰でもなる癌だから安心で,珍しい癌だから怖いってことはありません。癌が怖いかどうかは,その癌の進行のスピードや再発のしやすさでしょう。また癌はよく生存率が語られます。でも,やっぱり自分の例で思いましたが,生存率がたとえ90%でも怖いし,逆に10%でも助かるんじゃないか?という都合のよいことを考えるわけです。

いや,もちろん冷静に考えれば,生存率が90%と10%じゃ90%の方が断然安心でしょう。でもそもそも非常に稀な癌にかかったということで,稀だから大丈夫だということは信じられなくなっているわけです(苦笑)。

いや確かに100人がいたら,90人は助かるかもしれません。でも,自分が10人のうちに入らないという保証はどこにもないわけです。これじゃ確率で安全性を語る場合,人類全体の安全性を語ることは出来ても個人の安全性を語ることは出来ません。また,わたしは稀な癌にかかったわけですから,その時点で,わたしにとってはその癌は稀な癌ではないわけです。自分にとっては,病気というのはなるかならないかということで,50%だけなるというのはないわけです。

結局BSEとか他の病気でもいいのですが,危険率をどんなに語っても,自分がかかるかもしれないという不安は払拭されません。こうしたらかからないという100%なことを示してくれないと,それを実践してくれないと不安な人は不安なわけです。そういう意味では,確率は個人の心情にはあまり訴えません。社会システムを運用する上では有効な手法なんでしょうけど。

少し話はそれますが,わたしは人間の脳には統計的に処理されていることが結構あるんじゃないかと思っているんですが,人間が意識する上では,そのあいまいなものを無理やりどちらかに倒して表層化してくるので,そういう意味でも確率をそのままじゃ理解できないのかなぁとか思ったりもします。
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ショッカーの戦闘員だって生きている

2009-01-17 23:56:31 | ココロ
匿名日記に「100億年すれば、宇宙は消滅する。だから、生きていることに意味はない。 」というのが載って,結構ブックマークされている様です。昔から思春期に考えそうなネタですが,いまのわたしの心境からすると,「人間(生物)は意味がなくても生きていける,意味なんか求めなくてもいいんだよ」ってところかな。
一方,弾氏が「遺族にとっての意味」と書いているのは,ミームとかもそうだし,そういえば,2年ほど前にわたしも「死ぬというのは一部の自分はいなくなるけど,全部の自分がいなくなるわけでもない」と書いたのを思い出ししたしそういう面もあると思います。
と,書いたけど,やっぱり上に書いたとおり,仮に遺族とかが存在しなくてもやっぱり生きていていいというか,生きていくべきだと思います。「個」を見ると確かに他人と関係性をもてなかったりしたら遺伝子もミームも残らないし,いてもいなくても関係ない存在かもしれません。でもそういう個体も含めて,何十億という個が集まって人類を形成してるわけです。まぁ人間は生態系的に必要な種なのか疑問ですが(^^;),でも地球上に存在している今の種であることには違いありません。
つまり個人の存在に意味がなくても全体が存在することには意味があるので,構成員は必要なのです。ショッカーの戦闘員みたいなものです(笑)。
話がそれますが,ミクロの問題はマクロの問題に直結しないような気がします。個人の存在を統計的に語ることに対する違和感…がわたしの中にあって,それで思うのですが,それについて書くと,今日は話がややこしくなるので,またいずれ。
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肯定しても自分を見失わないようになりたい

2009-01-10 10:54:04 | ココロ
9月に書いた「権威の否定がいきづらさにつながる」という文に,有名なブロガーの弾氏に「違うよ。全然違うよ。」と書かれてしまったので,昨日は枯れ木も山の賑わいでした(_o_)。普段こちらからリンクさせていただいていることが多いので,少しだけコメントがてらに書いてみます。
といっても,わたしの文章は全然違うといわれてしまいましたが,わたしは別に弾氏の文章を否定するつもりもなく,はぁなるほど…という感じです(^^;)。
まぁでも,「肯定するというのは、楽過ぎてつまらない」といわれてしまうと,弾氏みたいにエネルギッシュな人はそうなんでしょうね,と思います。わたしは最後に書いてますが,本当に大事なことにエネルギーを注ぎたいので,わたしみたいにエネルギーが足りない人は,色んな権威に反発していると本当のところに注ぐエネルギーが足りなくなってしまうのです(苦笑)。だからどうでもいいことは,権威や周囲が示していることに従っていてもいいかな,と思ってます。もちろんそうやってすべてにしたがっているうちに,本当の部分に注ぐエネルギーもそがれてしまう場合もあるので,それはそれで注意は必要かしら。
あと「権威の否定というのは、自らが権威となることで完成する」というのはちょっとわたしはピンと来ないのですが,「権威というのはまさに挑戦され、否定され続けるために存在するのである」というのはわからないでもありません。もっとも権威を追い求める人がみんなそう思ってるとも思えないのですが。というか子供が自己を確立するために,乗り越える壁として権威が必要だというのは同意します。子供は「嫌だ嫌だ」と否定して自我を作っていきますから。
もっともそれも小さいときはいいのですが,いくつになってもそれでいいんだろうか?という気がします。権威やものごとを否定しないと自我を確認できなかったり,楽しく生きられないというのは,壁がないと,立てない様にもみえます。だから壁が(権威が)なくなったときにどうしていいかわからず,右往左往していきづらい人がでてくるのではないのか?という気がします。 そういう人には否定すべき権威が見つからないから生きづらいという意味では,まったくその通りかもしれませんね。そういうときにでも無理やり敵を作り出し,戦う人もいますが。
小さいうちはいいのですが,ある程度自我が出来てきたら,逆に権威や周囲を肯定しながらも自分というものをしっかり持てる様にしたほうがいいんじゃないか?と今の自分は思ってます。周りを負かして自分の勝利を確信するのではなく,周りがいなくても自分の勝利を確信できるように,もしくは周りを称えたほうが,さらに自分の勝利が光るというか。
それから余談ですが,わたしは人と話すとき,人を批判するより,人をほめるほうが,自分が有利な立場にいるように感じます。戦う気満々の相手のやる気をそいで,自分の好きなほうに話をもっていける…まぁこういう議論の仕方を小さい子供がやったらいやらしいと思いますが:-p。
そういうわけで,エネルギッシュで権威に立ち向かうのが楽しい人は,戦えばいいとは思いますし,人の自立の過程で立ち向かうべき権威は必要で,それを被ろうとする弾氏は偉いと思いますが,壁を壊していったら壁がなくなって立てなくなっちゃう人やガス欠を起こす人もいるんじゃないかな?ってことで。
それから,余談に追記ですが,弾氏は人を誉めるのがすばらしくうまいと思うので,楽過ぎてつまらないとは思ってないじゃないかな?とは思うこともあります。
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年寄りとアル中

2009-01-07 22:33:24 | ココロ
高齢者にアル中が広がっているって話を聞いて,別に変な話じゃないなと思いました。どうすりゃいい?っていうか,どうにもならないし,どうにかする必要があるんだろうか?とも少し思いました。
とか書くとひどい人と思われるかもしれませんが,高齢の父親が,内臓悪くしたり,体の制御が悪いのに,お酒を飲んでいたり,わたし自身が20年間酒を浴びるように飲んで,そして病気になったりとか,まぁそういうのを経験してるので,他人事というよりも,自戒と言うか,人間てそういう面もあるよなと思って書いてます。もちろん違う人もいるから,一概にはそういえないのでしょうが。
なんとなく最近の自分の父親を見てると,息子である自分や,妻であるわたしの母親より,早く死にたがっているのではないか?とか漠然と思ったりします。わたしと母がたて続けに重い病気になったから,まぁ精神的に消耗したとは思うけど,自分だけ長生きしようとか思わないのは,そんなに不自然なことじゃないように思います。そうじゃないとしても日に日に老化で体の自由が利かなくなっているのを感じているのであれば,そこにどういう希望というか,「生きていりゃいいことあるよ」とか言えるのか?とかむしろ思います。そしてそれに向かい合いたくなくてますます酒を飲むという心境は,元アル中だった自分からすると一応わかるんですよね。一人で飲むお酒は,楽しいというよりは,何かと向かい合うのを避けるような行為の様な気がします。
そりゃ,酒を飲んで気持ちよくなるのはいいけど,体を悪くするような飲み方はやめてほしいし,やめてしまえばそれなりに頭がすっきりしないのかな?とか思ったりもするんだけど,それも若い人間の感覚かもしれません。
リンクした文章はうちの父親より10歳以上若い人だし,もっと健康で長生きしたほうがいいようには思うけど,長生きを勧めるには,健康とかアル中じゃないとかいうことより生き甲斐が必要だと思うし,でも高齢者がいくつになっても「長生きしたい,死にたくない」とあがいて生きるのが幸せなことなのか?と少し思ったりもします。
正直よくわからないのだけど,一般にイメージされる「幸せな老後」という中に「死」はどのようにイメージされているんだろう?と時々思います。
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仕事納め

2008-12-27 12:17:00 | ココロ
昨日は暦どおり仕事納めでした。といっても特に何かがあるわけでもなく,机の掃除をやってる人もいましたが,わたしは特にせず。ちょっとやっておかないといけない仕事を片付けましたが,他の部署も人が少ないのか,新たなオーダが流れくることもなかったので,あわてることもありませんでした。
夜は会社の人と飲みましたが,職場とかではなく別件。そんな感じで普通に終わり,来週は一週間出社はしませんが,その次は普通に月曜から出社。ある意味,区切りがいい年末年始だなぁ。
今年の仕事のことを振り返ると…何やってたんだろう?。いろいろと細かい仕事に追われ,あまりやりたかったことは出来なかった。学会で発表か論文でも書こうかと少し思っていたけど,実験すら出来てません。9月以降は幹部会議に出ることが多く資料作りに追われていたのは良く覚えているのだけど,前半って何やってたんだっけ?(^^;)。

ちょっと今年の後半は仕事方面で壁みたいのを感じていていたりします。ふとネットで「才能がない、ということに気がつくということ。 」という文章を見かけました。以前のわたしだったら,「わたしはほとんど挫折感を感じたことはない」と書くところなんだけど,今の心境だとちょっとうーんという感じか?。というかわたしの場合挫折とか才能がないとか思う前に,「やり方を変えるべきか?」,「目指すところを変えるべきか?」とか考えて変えるので,挫折はしないのだと思います。でも今はそういう意味では少し悩んでいる時期のようです。
会社での自分の評価のされ方からして,どういうがんばり方をしたらいいのか?。会社を辞めた後の事も視野を入れて考えないとなとは思っていて,今の仕事と将来の仕事と両方で頑張ればいいのだけど,体調的な面もあって,両方はつらいからどっちに重点を置くべきだろうか?とか少し考えたりもします。
リンク先の文章は周りの人を見て自分の才能の限界を感じているようですが,わたしはあまり身近な人と自分を同じものさしで比べることはせず,むしろ人がやってることとは違うところで自分が必要とされればいいと思うので,そういう意味では誰かみたいになれないとは考えません。でもだからこそ,今の職場で自分がどういうポジションでやっていけば,一番存在感が出せるのかな?ということはやっぱり考えます。
まぁ仕事で欲が出てきてるって事だろうし,そういうことを考えること自体,体のほうの不安というか悲観がかなりなくなってきたってことか,と思うと,それはそれで喜ばしいことかもしれませんが,まぁそんな感じの今年の仕事納めでした。
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マインドコントロールと疑似科学

2008-12-17 23:23:28 | ココロ
今年すごく売れた本として血液型占い(診断?)の本があるらしいです。…って話を会社で誰かが話していて,「研究者が占い信じるのか?」みたいな話がちょっと出ました。
血液型による性格診断は一時期はあたかも科学的なことのようにとらえている人もいたようですが,最近はマスコミも微妙に科学的根拠はない…という感じのことを匂わせているように思います。まぁ嘘を言って訴えられるのを避けてるのかもしれません。
しばらくネットでは,疑似科学の話題がずっと続いていて,基本的には疑似科学を悪いことの様にいいます。疑似科学が非科学的なことであり,それを科学の様に言うのは確かに嘘なんですが,じゃぁなぜ悪いかが,ちょっと不明瞭の様にわたしは思います。嘘だから良くないというのでしょうけど…。
わたしは一応研究者だし,工学者という方が正しいのでしょうけど,自然科学の上に工学は成り立っていると思ってます。ですから,ある意味唯物論だし,世界は自然科学の法則で成り立っているとは思ってます。でもだからこそ自分が見たり感じたり考えている「意識」の正体がなにか?というのはずっとよくわからず悩んでます。自分の周りに科学的法則で成り立つ世界があるのは確かでしょう。でもわれわれの体はそれに直接組み込まれていても,われわれの意識はそこには直接は組み込まれてません。われわれはわれわれの体の感覚を通して世界にアクセスしているし,意識は脳や神経や体のいろんなものつながり,ものごとを捕らえているのでしょう。
それで,どう考えても人間の感覚は物理現象や化学現象を客観的に捕らえられてません。錯覚があることからも明らかです。それは科学的にわかってます。あとプラシーボ効果がある様に,感覚じゃなく知識や思い込みで体調が変わることもあります。これもこのこと自体は科学的にわかってることでしょう。
つまり自分の意識が科学的じゃない以上,そしてその非科学的な意識で体調までが変わる以上,科学的な視点だけで世界を捉えていても,たぶんうまく行かないだろう,というのがわたしの考え方です。言い換えれば,自分のココロは非科学的なのだから,それをコントロールするために非科学的なものを利用するのは別に非科学的ではないと思ってます。
というわけで,占いとかを引き合いに出すと,占いで自分のココロがコントロールできるのであれば使うのも有効だと思います。疑似科学だってそう。ただし,疑似科学を嘘と思ってる人には効かないので,誰に有効かそうでないかというのは,一概に言えません。有効な疑似科学を擬似と暴くことは,有効な手段をひとつ失うことになるので,まぁデメリットもあるわけです。
宗教とか呪いとか,そういうのもそういう側面もあるでしょう。薬物とかにたよって気分を変えるよりよっぽどリスクが少ないと思うし,ライフハックとか自己啓発より簡単な場合もあります。
じゃぁわたしが疑似科学賛同派かというと,まぁそうでもなくて,ココロのコントロールはあくまでも個人の中の話なので,あまり組織だって強制的に人に信じ込ませたり,世間に広げるのはどうかとも思います。わたしは自分に有効なおまじないは利用してますが,誰かにだまされて,財産を取られるのも嫌です。その辺の判断だ出来ないと,まぁ痛い目にあうかなとは思います。
危ない擬似科学かどうかというのを,冷静に判断できるものさしが必要だとは思っています。
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物欲の終焉

2008-12-07 21:48:23 | ココロ
森先生の「ものを欲しがらない若者」という文章を読んでなるほどと思う。今の年寄りはものがない時代に育ったから,ものを買うことにカタルシスやステータスを感じるけど,今の若者は,ものがあるのが当たり前なので,ものを買っても餓えは乾かないと言うことらしい。
自分の父親を見てると,昭和一桁だけど,もうつまらないものばかり買う。そして物を捨てない。ふとお店で見かけたり勧められたりすると,すぐかって,それを家族に与えようとする。こちらが要らないというとすごくがっかりする。だって必要がないもの買ってくるのだもの。ものを買うことにも喜びを感じるけど,それを家族に分け与えることにも,なにかステータスを感じている様子。
まぁ物を捨てないのは,ものがない時代に育ったからだとは思ってたけど,わたしはむしろ家の空間の方が物よりも高価だと思ってるので,場所をとるものは捨てたいと思うのだけど,捨てるとひどく怒る。
わたしの場合は確かにものを買うこと自体に快感を覚えなくなったのは,もしかしたら大人になってからかもしれない。若い頃はほしいものがそれなりにあったけど,ほしい物を一通り買って,あとほしくて買ってないものは,家ぐらいなので,ちょっとすぐには無理だよなという感じ。
実は10年位前に,「身体の拡大の終焉」という文章を書いた。これは,バイクがモデルチェンジをするたびにスペックが上がっていた時代が終わったので,新型を買うことに成長を感じなくなったという話。バイクや車はそれに乗ることで自分自身の拡大を感じるのだけど,バイクは買い換えても更なる成長はなくなったし,車もやがてそうなるだろうと。実際今の車はそうなってると思います。そして,これからは物理的な拡大ではなく情報の拡大が人自身の拡大となるだろう…と書いてます。
森先生が書いてる話とわたしが書いてる話は少し違うのだけど,今の若い人がものを買ってそれにカタルシスを感じることがなくなっているという意味では似てます。わたしは理系だし技術屋だし,バイク屋楽器やメカが好きなので,新しい方式の機械を手に入れるということにかってはカタルシスを感じていたので,森先生が言う若者とはすこし層が違うのかもしれません。歳も20歳くらい違うし。
まぁ,でも今の年寄りが未だに物欲があり,お金があるのに金がないとか言ってるのに対し,どうも若者はそうではない様だというのはよくわかりました。そして若い人の枯渇はいったいどうすれば解消されるのか?,難しいなと思います。
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好きなものをさらすこと

2008-12-04 22:45:06 | ココロ
kaienさんが「胸をはって好きといえるものがありますか?」と書いてました。わたしは,「あります」といえます,別に胸張らなくてもいいけど。まぁマンガが例だったのでマンガでもいいのですが,音楽でも芸術でもいろいろ。ドラマとかはマジで観ないので,いえないのですが。
ここで書かれているように,何でも好きといわない人はいて,口を開くとケチばかりつけます。以前音楽系のMLにいたり,音楽批評系のネットニュースとか,そういうのも盛んに観てましたが,感想とか批評というと悪い点をあげるだけの人が結構いました。まぁ自分で感想を書いたりしてると,なるほど,ほめるって言うのは結構難しくて,八割がいいと思っても残りの二割のけちを書くほうが書きやすいのです。だからわたしはほめる批評の方が高度だと思っていて,それもあり自分はなるべく物事のいいところを取り上げるようにしてます。
kaienさんがほめるのはリスキーだと書いてますが,これは気持ちはわかりますが,一方で物事をポジティブに言う人の方が成功してるって気もします。ライフハックとかでも,ほめましょうとか挨拶しましょうとかいうのをよく観るので,実際は誉めたほうがいいことが多いようにも思います。
でもたぶん,物事をほめたり,好きだということは勇気がいるんだと思います。リスキーというのは印象だけで,実際はそうじゃないのに,そう思ってしまうのだと思います。
少し違うことを書きますが,子供は自我を確立するときに物事に対し否定的になります。「いやいや」といい始めることから始まり,思春期には親や,社会を否定します。これは乳児が周囲と自分を区別出来ないのが,成長するにつれて,自分という形を切り出していく,そうしてようやく自分という個が出来上がります。
つまり自分を周囲から切り出すために,一旦周囲をどんどん否定して行く必要があるのです。「周りと自分は違うんだ。あいつと自分は違うんだ」といわゆる中二病です(笑)。
さて戻ると,「他」に対して肯定的であるというのは,リスキーと言うよりは中二病が続いているようにわたしには見えます。趣味とかで好きであることを堂々というのも,もしかしたら他の人と同じものを好きといってしまうかもしれません。そういう意味ではリスキーなんですが,周りに嘲笑されるリスクというよりは,自分の個が揺らぐという意味でのリスクなのかもしれません。
まぁわたしは歳をとったのでいつまでも中二病をやっているよりは,周りとあわせて,物事をポジティブに捉え,自分の好きなものもどんどんと主張し,相手の好きなものも尊重するほうが,物事はうまく行くと思います。難しいんだろうなとは思いますが。
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不安の誕生

2008-10-30 22:54:56 | ココロ
思考実験をひとつ。
人間というのは因果関係を外から見ることができる生き物です。つまりある起きたことと,別の起きたことを結びつけて,原因と結果の様に結びつけることが出来ます。あることが起きると別のことが起きるという風に出来て,結果的に,今起きたことから未来を予想することもできるようになります。外からというのは,自分のことも想像でき,他人に起きたことから自分の未来を想像することも出来るという意味です。
他の人の頭の中はみたことありませんが,たぶん人間は大抵それが出来ると思われます。
この因果関係を外から見ることが人間以外の動物に出来るのかは知りません。でも,パブロフの犬みたいなことがありますから,動物もあることが起きたらあることが起きるということを,意識してるかどうかはわかりませんが,行動に結びつけることは出来るようです。もっと本能レベルで,因果関係が結び付けられていることはありますが,後天的に因果関係を習得するということが,結果的に外から見ることができることにつながっているように思います。
つまり人間は因果関係を想像できるので,目の前にある種籾を食べずに土に植えて我慢すれば半年後にもっとたくさん食べることを可能としたり,気候の変動に備えて衣服や住居を作ったりと,より多彩な環境に適応出来るようになったのだと思います。つまり進化論的に因果関係を外から見ることが有効だったから,そうなったのでしょう。
ところがそうやって因果関係を常に外から見るというのは,今目の前にある事象から未来を予測して,いろいろと備えることを常に行うようになります。そうなると逆に未来が想像できない,想像できるだけのに十分な情報を得られない,経験したことがないことが目の前にある,どうしてそうなったのかわからない結果があることが,とても不安になります。
自分はどうしてこう不幸なんだろう?ということを明確に誰かが答えてくれ,腑に落ちたときに,ある教えに人は染まることがあります。宗教にはそういう面があったりします。さらに,未来に備えようと無意識にしますから,目の前にある経験したことがないことは,きっと悪いことの兆候に違いないと思います。何がたいした問題じゃなくて,何が重大なことなのかわからなくなります。そうして人は不安を覚えるようになります。
不安というのはそうやって生まれたように思います。
最近食べ物にちょっと臭いがついていたり,何かが検出されたりすると,パニックのように皆さん不安になっているようですが,身体になんの影響があるかわからない,つまり少量ではすぐには影響がでないようなものでも,逆にはっきり影響がでないので不安になるのでしょう。影響がでないのに,なんで基準があるの?。基準があるから基準を超えると不安になるんでは?とかちょっと思ったりします。まぁでも不安というのは上に書いたとおり,因果関係を想像することの暴走みたいなものです。もちろん進化的に有利だから身についた能力でしょうが,今でもそうなのかは良くわかりません。
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