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たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

心変わりの足跡

2010-07-26 22:02:31 | ココロ
fujiponさんが「永遠の0」という本の書評で,戦時中の日本の大衆の身勝手さと現代の大衆の身勝手さを比べて語っているのを読んで思ったこと。

fujiponさんはワールドカップの前後で自らが岡田監督の評を変えたことを自覚していて,そこに自らの勝手さを恥じていらっしゃるようです。fujiponさんは良心的だから,こういうことを自覚して表明してますが,こういう風に,最初自らが言っていたことが,状況が変わって180度意見を変えるか,もしくは過去に自分がそういっていたことを表明できなくなるとか,そういうこと最近多いんでは無いでしょうか。

例えば1年前に政権交代が起きましたが,あの時に民主党とか鳩山代表を応援した人たち…,みなさん今でも同じ意見なんでしょうか?。その前の小泉さんや郵政民営化に対して意見は当時と今と変わって無いのでしょうか?。他にも芸能人が不祥事を起こすと,ものすごいバッシングをするのに,5年もするとその人の作品を再び楽しんでいたりすることもあります。タミフルだってあれだけ危険な薬扱いをしていたのに,去年のインフルエンザが流行りだした際には,あっさりなし崩し的に使い出したし,更にそのインフルエンザも今はたいして怖くないと思われているようだし。

もちろん状況が変わっても自分の意見を変えない人も多いでしょうし,逆に最初からどれに対しても「どうでもいい」と思っていた人も多いでしょう。でもはたから見てると,ある時にはある意見が大勢を占めていて,他の時期には前の意見を否定するような意見が大勢を占めているように見えます。単にそれぞれ違う人が声を大にしてるだけならわかりますが,同じ人がその時の大勢をみて,意見を変えている可能性もあります。

もちろんこういうことは昔から良くあったことでしょう。別に日本に限らず,どこかの政治家に扇動されて,他の国を攻撃することを熱狂的に支持するどこかの国民とかを見てると,世界中というか人間の性分の様にも思います。そういう意味では反省は出来ても,なかなかこういうことは無くならない様にも思います。

ただ思うのは,以前はそのときの個人の意見が形跡として残らなかった。誰かに話しても狭い範囲のことだし,声で伝えても,相手もはっきり覚えていなかったりします。でも今の様にブログでもメイルでも,文章として意見を表明すると,後から意見を変えてもしっかり過去の考え方は残ります。また文章にするということは,頭で漠然と思っていたことも強い表現になるし,はたまたネットで自分の意見をもっともらしくいうために,周りを見てなんとなく思うことを,あたかも自分がそう思ったんだ…強く書いてしまうことも多いです。だから,書くほうもそう書いたことをはっきり覚えているし,後で状況が変わって,以前の意見をいい続けることに支障がある状況になると,やばいなぁ…とより強く思うんでは無いでしょうか?。

わたしはこういう状況が続き,それに合わせて人間が進化したら,もしかしたら,だんだんニヒルというか物事にみんなが一歩引いた意見の書き方をする様になるかもしれないなと思います。断言しなくなり,他人事の様に書いたり…。学者が物事を断言しないといいますが,彼らも自分達の見解が絶対で無いことを意識してるから,そういう言い方をするのです。それが「知的」といえばそうなのかもしれませんが。一方で,断言しない意見は一般に受けが悪いです。

というわけで,発散したのでまとめると,意見がコロコロ変わるのは,人間の性かなぁ,それを避けて思慮深くなると,物事を断言できなくなる,でも受けるために断言する人もいるので,結局どういう風になって行くのかはよくわからない…という話でした。人は賢くなれるんでしょうか?
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怖れるから不親切になる

2010-04-03 10:27:10 | ココロ
突っ込みを怖れるあまり不親切になる…,ということをふと思いました。いや,なんとなくそういうことよくあるなと。

ちょっと生活の中で,外部の人からお願いが書かれた文書をもらったのですが,それが最低限の要件しか書いてなくて,お願いをするのであれば,もう少し背景とか狙いとか書いてくれれば意図がわかるのに…と軽く憤慨。…が良く考えたらわたしも仕事の上でそういうお願いの文書やメイルを書いてしまうことはよくあります。

そういう場合って,仮に凄く相手に申し訳ないとか思っていて,詳しく説明しようと思っていても,背景とか狙いとか外部状況とかいろいろ文書に書いて整理していくうちに,だんだん文書自体がわかりにくくなったり,誤解を産みそうな記述が入ってきたりして,伝えるのが難しい…とか思っていて,最後はしょうがないので最低限の要件だけ残して消してしまう…っていうことになることが多い気がします。実際に部下とかの文書を推敲するときも,部下が詳しく書こうとするほど,だいたいわかりにくくなり,「要件だけシンプルに書いた方がいい」と指導してしまう気がします。

まぁ会社とかで実際にあって説明する場合は,そういう細い話は付録とか参考情報としてつける場合もありますが,メイルなどで送る場合はそういう部分は省いたりもします。

というわけで,無味乾燥な依頼を受取ったときは,案外裏にそういう葛藤があったのかも知れないな…という気もします。

よくよく想像すると,良く医者を訴える患者…というのも「説明不足」に怒って訴えるケースが多い気がしますが,それも医者からすると,本当は詳しく説明しようと思ったんだけど,専門的だし,ややこしいし,それにいろいろ書くと,まぁそこにいろんな落ち度が見える場合もあるし,落ち度がなくても,妥協点や,状況が許さなかったこととかそういう部分がいろいろカイマ見えて突っ込まれると,辛いなとかそんなことを思ったり,結局わかりにくいからシンプルに要件だけ書いたというという様なことが起きていたのかも知れません。

詳しく丁寧に書けば,相手がその気持ちを受取って友好的に対応してくれる…ならいいんですが,逆に揚げ足を取られる場合もある…というか普通はそういうのを想像するのでしょう。

そういうことあるよな…ということで,無味乾燥な文書の裏に潜むその意図を想像するのでした。
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年寄りの説教じみた話ですが…

2010-02-17 23:18:40 | ココロ
ネットで最近の新入社員が「新人に電話を取らせるのはおかしい」といったとか言わないとかいうのが話題になっていました。

まぁ,他愛も無い話だなぁ…と思ったりもします。なんか「最近の若い人」というくくりになってますが,自分が若い頃も,なんで若い人に雑用やらせるんだよ…とは思っていた気もします。面と向かっていわなかったけど。だからこういうの昔からあるんじゃないですか?。

で,電話の話。わたしは若い人にやらせるべきと思いますが,それぞれの職場の事情があるので,それが絶対だとはいいません。ただ,なんとなく思うのは,若い人は自分は電話応対が出来るけど,面倒だからやりたくないと思ってるような気がして,それは間違った認識だなと。面倒なことをやるのが仕事なので,面倒だからやらないのは仕事をえり好みする人ということになり,仕事を任せられません。あと,もっと大きいのが,電話できると本人は思っていても,案外出来なかったりするんですよ。友達と電話するわけじゃなくて,お客さんとか業者とか,そういうところに電話して,相手のいうことをきちんと理解して,相手を不快にしないように伝えるとかそういうの。

若いときは頭では自分は出来ると思っていても実際にやってみると出来ないこと。また自分は出来てると思っても,相手は不快に思っていたりすることって結構あります。だから訓練という意味でやるべきでしょう。

もっとも上司も手分けして半分くらいはやってあげてもいいとは思いますけどね。わたしは新入社員の頃,上司がバンバン電話かけまくって情報を集めてるのを観て,こういう風に仕事とはするのかと思ったことがあるので,うまく電話ができるというのは,結構難しいし,できれば武器になると思ってます。

とかいうことを考えると,最近オリンピックで話題になった国母さん。けしからんという人と,騒ぎすぎとかいう人いろいろあるんですが,まぁわたしもあんまり引っ張る問題ではないと思いつつも,一度はしっかり怒ってあげたほうが良いと思うので,現状くらいでいいんじゃ無いですかね?。

腰パンツがかっこいいとか,彼らしいとかいう人もいますが,それはきちんとした格好をできる人が,そうすればそうかもしれませんが,それしか着こなしが出来ないとか,深く考えずにやったとかであれば,別に誉められたものではないと思います。謝罪会見で,きちんとフォーマルな格好をしてきて,それも日本のサラリーマンとかの格好じゃなくて,ヨーロッパの紳士くらいの格好をして出てくれば,この人,きちんとした格好が出来た上で自分らしさで腰パンなのね,とますます評判を上げたでしょうに。

数日前の言戯に知ってることと分かってることって話が載っていて,あぁそうそう,若いときって実際にやったことないのに知ってるだけで自分は出来る…と思ってるようなことってあるよなぁとか思い出しました。だからきちんと手順を踏まえてやることを覚えるのも若いときは大事な訓練だと思います。
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ストレスの種類

2010-01-27 22:33:21 | ココロ
ストレスはがんを誘発するか?という文を見てちょっと思ったこと。「ストレス」って一くくりにするのをよくみますが,じっさいはいろいろあるのではないでしょうか?。よくストレスが病気を引き起こすという実験で,動物に常に物理的な刺激を与え続けるとか,うるさくして眠れなくするとか休めなくするとか,いろいろと辛い状況を与えて,そして病気にするとかいうのをみます。それをもって「ストレスが病気の原因」っていうのは,まぁその刺激が病気の原因というのは判るのですが,それ以外のストレスも同じように病気の原因…といえるかどうか?よくわからないなぁってこと。

ストレスというと精神的ストレスというのもあるのですが,そのストレスが無いと人間が動かなかったり成長しなかったりというのもあり,じゃぁストレスはあったほうがいいの?無いほうがいいの?というのが紛らわしくなるわけです。プレッシャーという言葉も,人にとっていいものをさす場合と悪いものをさす場合がありますが,同じような話でしょう。

もちろんまったく同じものが悪く働いたり良く働く場合もあります。ただそれ以前に本当はもっと綺麗に分類出来るようなストレスがあるんじゃないかな?という気もしてます。ストレスの分類を整理するという研究実績とか無いのでしょうか?。

身体的な刺激のストレスの実験をもって,ストレスは病気になるとかいっていると,それを利用して,精神的なプレッシャーを与えると同じように病気になる…みたいな解釈が出来上がってしまいます。現在精神的ストレスで病気にかかる人は結構いるのですが,そのわりには相変わらず,ストレスに関する分類や整理がイマイチされて無いか,されていても知られておらず,どうも雑な議論ばかりがされてるなぁと思います。
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宗教に自覚的な日本人

2010-01-04 06:31:17 | ココロ
あけまして,おめでとうございます。

さて,数日前にアメリカの掲示板でなぜ日本人は無神論なのに犯罪が少ないか?話題にというねたを読みました。
この手の話題…,それこそ開国の頃から言われていたはずなのであまり驚きません。
西洋はキリスト教と道徳が密接に結びついていいます。あと異教徒や無神論,特に冷戦時代は共産主義者を悪いものとして,戦争や侵略の正当化の理論として使っていました。ですから,非キリスト教徒である日本人が,案外礼儀正しかったり犯罪が少ないことがその理屈とあわずにうまく理解できないのでしょう。
日本人から観ると,教会に言われないと正しいことと悪いことの判断もつかないのか?とか,異教徒を侵略して殺した理屈が正しいわけ無いだろとかも思うのですが,そういうことをまだ自覚はして無いようです。とはいえ,日本人は無神論じゃなくて神道と仏教が社会に根付いているとか,宗教ではなく社会規範に縛られているという指摘はあってるので,まぁその辺はちゃんと理解されてるなとは思います。
もっとも日本人からすると社会というものをすっ飛ばして,個人と神が契約している西洋の思想もちゃんと理解できてるか怪しいので,同じように日本人は西洋の道徳規範はたぶん理解できて無いのでしょう。
それより興味深かったのは,このスレを観ている日本人の反応です。多くの日本人は日本人が多神教であったり,空気教であることを理解しているようです。これもたぶん30年以上前の日本人,つまり学生運動が盛んな頃だったら若い人は自分達は無宗教だといっていたんだろうなと思います。おそらく今でもあなたは神道ですか?仏教ですか?と面と向かって聞くとどっちも否定する日本人は多いでしょう。
ただ以前だったら神社に行くのを嫌がったり,天皇陛下の事に否定的だったりするのが若者だった気がしますが,今はむしろ,そういう事について肯定的な人が増えている気もします。あと占いとかのオカルトも好きな人多いし。
そういう意味では,ある時期にあった日本人の宗教アレルギーは流行というか,一時的なものだったのかな?という気がします。個人的はそれでいいと思うんですけど,なんとなく時代が変わったなぁという事を実感しております。
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心理と心理モデルと数値

2009-12-19 19:01:43 | ココロ
膵臓がんサバイバーさんのブログにAHP(階層化意志決定法)というのが載っていて,興味深く思いました。その次のブログに,実際に計算したものが載ってました。
面白いなぁと思ったので,ちょっと突っ込みますが,批判するつもりはありません。ちょっと注意を…という感じで簡単に。
わたしは一応大学で心理実験を習ったし,いまでも評価実験とかやってます。AHPという手法は知りませんでしたが,一対比較とか,心理尺度の構成法は勉強しました。なので,計算の複雑さはとりあえず,置いておいて,一番気になるのが,この手の手法は評価語と数値の関係です。
「同じくらい重要」「少し重要」「かなり重要」とかいう評価語に1,2,3...みたいに整数を割り振ってますが,これが一番ミソ。言葉に数値を割り振るのは単なる順番として振る場合と,大きさとして振る場合があります。順番を振るというのは,例えば2は1より大きいということは示してますが,2倍大きいとは言わない計算法です。一方で大きさとして振ると2は1の2倍の大きさです。つまり1を二つそろえると2と同じになるとか,3よりも2が二つある場合が大きいとか,そういう計算が出来るようになります。
今回のAHPというのはどうやら評価語を「大きさ」として数値化しているようです。こうなると,この数値化が本当に心情にあってるのか?が一番大きな問題になります。「少し重要」が束になっても「かなり重要」にかなわないという場合には単純に1とか2とか振るのは,その前提からあって無いってことになります。
その後にやっている複雑な計算はあくまでもその評価語がきちんと数値化されているという前提での計算です。それはその前提(心理モデル)の上では正確でいろんなことがわかるのでしょうけど,その前提があってるか?はその結果をさらに現実の心情と照らし合わせたりしないとわかりません。
さて,この手法はあってるのでしょうか?。そのうち実際に計算してみて,その結果を自分の胸に手を当てて聞いてみることにでもしましょうか:-)。
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「友人」

2009-11-06 23:33:38 | ココロ
「友人はいません」……私の場合」という文を読んで,元記事「人付き合い - マイボイスコムのネット調査結果」を読む。
うーん,よくわからないのだけど,やっぱりわたしには言葉の定義の問題な気がする。
というか,わたし自身が「友人」というのはどういう人をさすの?と思ってしまいます。マイボイスコムのデータを見ると,むしろ分析の仕方によっては「友人と思う人」というのはどういうコミュニケーションを取る人で…とか判るんじゃないか?という気がしてしまう。そういう分析をすれば面白いのに。
で,わたしの場合,今の自分に友人がいるか?というとやっぱり答えにくいのですが,そういえば,大学くらいのときに「親友は誰々」という風に一人くらいの名前を想定していたことを思い出します。誰でも「親友」と呼ぶのは抵抗がありますが,一人くらい親友というカテゴリーを作っておくと,むしろ「友人」はそれ以外の親しい人,ぐらいになって,結構気軽に挙げられたりする気もします。
でも今は親友と呼べる人がいるって感じもしないし,それにあわせて友人と親しい人を呼んでいいのだろうか?という疑問も浮かんだりします。でも昔と今とで人との距離感が変わったか?というと良くわかりません。まぁ昔はもっと人と実際に良くあったり遊んだりしていたのは事実ですが,そういうことがなくなった現在,友人を失った…という感じはしてません。
わたしは子供の頃から引越しが多かったので幼馴染はいません。そして一人でいてもあまり苦にならない性格だったりします。そういう意味では友人は昔からいなかったのかもしれませんが,学生時代くらいまでは,あまりそうも思わなかったし,まぁ実際よく遊ぶ相手というものはいました。社会人になってネットの知り合いは増えて,実際に会う人もそれなりにいましたが,その人たちが友人というとそうかもしれないし,そうじゃないかも知れない,という感じかなぁ。
ただ,3年前にガンになった時に数人とても頼った人がいます。普段よく会う人とは限らないのだけど…。リンクの調査に「よりどころ」という言葉ありますが,その方々はいざというときに便りしにしたという意味ではよりどころでしょう。そして,その時に同じく思ったのは,やっぱりいざとなるという時に頼りになるのは家族だなとも思いました。ただ,今思うのは家族は友人というよりは自分の一部だなとも思います。
家族と違い友人ということに確証を持つ難しさは,友人とはお互いに友人と思わないといけない…というような感覚があるからじゃ無いでしょうか?無い?。自分が友人と思いたくても相手がそう思って無いかもしれないと思うと友人といいにくい。いつも一緒にいる相手だとそうでもなくても,長く会わないと,まだ相手は自分を友人と思ってるだろうか?とか思うかもしれません。
まぁよくわからないなと思いました。言葉の定義じゃないか?とか,友人という確証よりも,大切な人とか頼りになる人とか,一緒にいると楽しい人とか,そういう風な人が具体的に浮かべばいいようにも思います。
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目がテンで「時間」の話

2009-11-03 09:36:15 | ココロ
先日の目がテン!は「時間感覚」の話で,えらく面白かった。
子供と大人の時間の長さの感覚が違うよね…ってことで,子供と大人と老人に「5分」を答えてもらって,明らかに子供の方が短く老人が長いという結果を出していた。これって感覚的にわかるのだけど,実験で示してるのは初めて見た。子供の頃は一日が長く,歳を取るとあっという間にすぎてしまう…というのは,単純にその人の充実度だけではないってことみたい。
もう一つ,人が交通事故とか,体に危機を感じた場合に時間がゆっくり動くと言うのをこれも実験で示していた。これも経験があるのだけど,やっぱり実験で示したのは初めて見た。雪の斜面をそりで滑らせて,二枚の紙の壁にぶつけたときに,二枚あると知っている人は,二枚目の紙に書かれた字が読めなかったけど,知らない人は,よりパニックになったのに字は読めた。妙にはっきりと見えたとのことだった。
解説として,危険を感じると視覚のその辺の感覚が良くなるみたいな話だったけど,自分の感覚だと,いろいろその間に考えることも出来たので,視覚だけじゃなくてやっぱり,時間が変わってる気がする。ただし音は,やっぱり時間に縛られた感覚なので,音がゆっくりってことは無いかなぁ。
主観的な時間感覚って,実感としては変化があるのだけど,そもそも人間が示す「瞬間」とかだってどこの時間なのかわからなかったり,とにかく外部から観察することが難しいので,こういう方法で,示せるってことをやっていたのは,とても面白かったなぁと思った。
関係ないけど,先週のガッテンも記憶の話で,先週はどちらも人間の話で,面白かった。
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どうせ死ぬなら何かする…のは本能?

2009-09-23 23:33:30 | ココロ
はてなの匿名日記に「問題は、何かして死ぬのか、何もせずに死ぬのかというこの1点だけなんだよ」というのが書いていて興味深く思いました。
元の話は「日雇い派遣雇用禁止は格差を助長するのになんでみんな賛成するの?」って話で,この話の是非自体はわたしは論じませんが,要は,対案がよかろうがわるかろうが,人は追い詰められたら新しい何かに飛びつく…という話になります。
これは格差問題だけではないでしょう。高齢化問題とか少子化問題とか医療問題だって,現状の制度が効果的ではなくなってきてるとか,温暖化問題だって何も手を打てない状態がずるずると来ているとか,はたまた政治とは関係なく石油が無くなったり,物価が上がったり下がったりしてるとか。そういう事象が一応客観的に存在し,それが将来の不安を喚起してる場合に,人々が,現状を手放し何かに飛びつかなくてはいられない…って話をしてるのだと思います。
実際最近日本では政権交代が起きましたが,上記の状態はほとんどの人がそうだと思っているようです。そこで新しい政党が政策を新しい政策を挙げれば,従来の政権が従来路線を掲げても,みんな新しい政策に飛びつくのだろうなと思います。それがどんな政策だって…。そうやって政権交代した国はたくさんありますし,中にはその後独裁や国際孤立をした国だってあります。新しい政策の良し悪しは,飛びつく人には関係ないのだろうなと思います。
つまりこれは本能に基づいた選挙戦略ってことになるんでしょう。
自分の経験でも,仕事で問題が起きているときにじっと待つのは結構辛いものがあります。つい何かをやってしまいそうです。上に「待て」と言われても辛かったりします。
実は一方で人は閉ざされた部屋で防災ベルがなっていても,「故障じゃない?」とのんびりと構えるようなこともあります。さて上に書いたように,いい手かどうか関係なく飛びつくほどじっとしていられないというのと,防災ベルが鳴って焼け死んでもじっと待っていた…というのは,どのように場合わけできるんでしょうね?。
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無意味の幸せ

2009-09-02 22:24:26 | ココロ
fujiponさんが小林よしのりの本について書いていました。この本は読んでません。小林氏のマンガとかエッセイとかはまぁ雑誌で読む程度には知ってます。そこで得るちょっとした感触からは,ここで書かれている内容には何も異論は無く共感もします。ですが,ちょっと思ったのは別のこと。
このfujiponさんの文はいくつか印象的な言葉が書いてあって,小林氏の絵の力とか,小林氏が弱者の応援していてその弱者が力を得たら裏切られるとか,あぁ確かにそういうことは,小林氏じゃなくてもあるよなみたいな。
そして,死の意味づけの話。「社会のなかで人間が人間らしく生きるためには、「死(あるいは自己犠牲)を意味づける物語」が必要なのでしょう」という言葉は確かにそういう風に思いがちだと思う。以前書いたかも知れないけど,現代社会は意味が支配してる。養老先生のいうところの脳化社会もそういうことだと思う。そしてそういう中で人は自分を無意味とすることに耐えられず,いろんなことをする。それが自分の自由を奪ったり,命すら奪ってもとにかく無意味であることを恐れる,そんなことが増えているように思います。そしてその意味は自分で意味づけるのでなく,外部から見られることでようやく意味づけられると感じる人も多い。twitterとかにひたすら自分を書き続けるのも,そこで誰かに認識されて,意味を持つと感じるからでしょう。
でも,そういう現代の中で,わたしは「無意味でも良いじゃないか」とも思います。現在の日本で何の事件も起きずに平均的な人生を送ってただ死んで行く。一部の家族にだけ認識されて,後はごく近しい人くらいか,それぐらいの人が見取って消えていく,そういうのではいけないのだろうか?と思います。No.1どころかonly oneである必要も無い,othersではだめなのだろうか?と思う。世の中は一部のonly oneで動いているのではなく多くのothersやone of themで成り立っていると思う。そうであれば,その一部として存在することにも美はある様に思う。
わたしは若い頃は人と違ったことをやりたくて,人と違った人になりたくてあがいてました。それでなれたのかどうかはよくわかりません。でも,3年前にガンになって死ぬか…と思ったときに,なんかそういう人と違ったものを追求したことがバカらしくなりました。若い年で病気で死ねば人と違った目立ち方ができるかもしれませんが,そんなことはうれしくともなんともありません。むしろ人と同じような当たり前の人生を全うしたいと思いました。でもそういう中で,医療というのはある一定の確率で治ったり事故ったりするわけで,当たり前の様に治っても,たまたま事故にあっても,それはそれで人生だとも思いました。
なすがまま。ただ淡々と時間をすごし,親しい人の中だけで特別になれば良い,そういう美学だってあると思うのですが,そういう美学が語られなくなってしまいました。fujiponさんが意味づけを幸せか?と疑問視してますが,だからわたしもその無意味に生きる中に幸せは結構あるんじゃないか?と思ってます。
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