fujiponさんが「永遠の0」という本の書評で,戦時中の日本の大衆の身勝手さと現代の大衆の身勝手さを比べて語っているのを読んで思ったこと。
fujiponさんはワールドカップの前後で自らが岡田監督の評を変えたことを自覚していて,そこに自らの勝手さを恥じていらっしゃるようです。fujiponさんは良心的だから,こういうことを自覚して表明してますが,こういう風に,最初自らが言っていたことが,状況が変わって180度意見を変えるか,もしくは過去に自分がそういっていたことを表明できなくなるとか,そういうこと最近多いんでは無いでしょうか。
例えば1年前に政権交代が起きましたが,あの時に民主党とか鳩山代表を応援した人たち…,みなさん今でも同じ意見なんでしょうか?。その前の小泉さんや郵政民営化に対して意見は当時と今と変わって無いのでしょうか?。他にも芸能人が不祥事を起こすと,ものすごいバッシングをするのに,5年もするとその人の作品を再び楽しんでいたりすることもあります。タミフルだってあれだけ危険な薬扱いをしていたのに,去年のインフルエンザが流行りだした際には,あっさりなし崩し的に使い出したし,更にそのインフルエンザも今はたいして怖くないと思われているようだし。
もちろん状況が変わっても自分の意見を変えない人も多いでしょうし,逆に最初からどれに対しても「どうでもいい」と思っていた人も多いでしょう。でもはたから見てると,ある時にはある意見が大勢を占めていて,他の時期には前の意見を否定するような意見が大勢を占めているように見えます。単にそれぞれ違う人が声を大にしてるだけならわかりますが,同じ人がその時の大勢をみて,意見を変えている可能性もあります。
もちろんこういうことは昔から良くあったことでしょう。別に日本に限らず,どこかの政治家に扇動されて,他の国を攻撃することを熱狂的に支持するどこかの国民とかを見てると,世界中というか人間の性分の様にも思います。そういう意味では反省は出来ても,なかなかこういうことは無くならない様にも思います。
ただ思うのは,以前はそのときの個人の意見が形跡として残らなかった。誰かに話しても狭い範囲のことだし,声で伝えても,相手もはっきり覚えていなかったりします。でも今の様にブログでもメイルでも,文章として意見を表明すると,後から意見を変えてもしっかり過去の考え方は残ります。また文章にするということは,頭で漠然と思っていたことも強い表現になるし,はたまたネットで自分の意見をもっともらしくいうために,周りを見てなんとなく思うことを,あたかも自分がそう思ったんだ…強く書いてしまうことも多いです。だから,書くほうもそう書いたことをはっきり覚えているし,後で状況が変わって,以前の意見をいい続けることに支障がある状況になると,やばいなぁ…とより強く思うんでは無いでしょうか?。
わたしはこういう状況が続き,それに合わせて人間が進化したら,もしかしたら,だんだんニヒルというか物事にみんなが一歩引いた意見の書き方をする様になるかもしれないなと思います。断言しなくなり,他人事の様に書いたり…。学者が物事を断言しないといいますが,彼らも自分達の見解が絶対で無いことを意識してるから,そういう言い方をするのです。それが「知的」といえばそうなのかもしれませんが。一方で,断言しない意見は一般に受けが悪いです。
というわけで,発散したのでまとめると,意見がコロコロ変わるのは,人間の性かなぁ,それを避けて思慮深くなると,物事を断言できなくなる,でも受けるために断言する人もいるので,結局どういう風になって行くのかはよくわからない…という話でした。人は賢くなれるんでしょうか?
fujiponさんはワールドカップの前後で自らが岡田監督の評を変えたことを自覚していて,そこに自らの勝手さを恥じていらっしゃるようです。fujiponさんは良心的だから,こういうことを自覚して表明してますが,こういう風に,最初自らが言っていたことが,状況が変わって180度意見を変えるか,もしくは過去に自分がそういっていたことを表明できなくなるとか,そういうこと最近多いんでは無いでしょうか。
例えば1年前に政権交代が起きましたが,あの時に民主党とか鳩山代表を応援した人たち…,みなさん今でも同じ意見なんでしょうか?。その前の小泉さんや郵政民営化に対して意見は当時と今と変わって無いのでしょうか?。他にも芸能人が不祥事を起こすと,ものすごいバッシングをするのに,5年もするとその人の作品を再び楽しんでいたりすることもあります。タミフルだってあれだけ危険な薬扱いをしていたのに,去年のインフルエンザが流行りだした際には,あっさりなし崩し的に使い出したし,更にそのインフルエンザも今はたいして怖くないと思われているようだし。
もちろん状況が変わっても自分の意見を変えない人も多いでしょうし,逆に最初からどれに対しても「どうでもいい」と思っていた人も多いでしょう。でもはたから見てると,ある時にはある意見が大勢を占めていて,他の時期には前の意見を否定するような意見が大勢を占めているように見えます。単にそれぞれ違う人が声を大にしてるだけならわかりますが,同じ人がその時の大勢をみて,意見を変えている可能性もあります。
もちろんこういうことは昔から良くあったことでしょう。別に日本に限らず,どこかの政治家に扇動されて,他の国を攻撃することを熱狂的に支持するどこかの国民とかを見てると,世界中というか人間の性分の様にも思います。そういう意味では反省は出来ても,なかなかこういうことは無くならない様にも思います。
ただ思うのは,以前はそのときの個人の意見が形跡として残らなかった。誰かに話しても狭い範囲のことだし,声で伝えても,相手もはっきり覚えていなかったりします。でも今の様にブログでもメイルでも,文章として意見を表明すると,後から意見を変えてもしっかり過去の考え方は残ります。また文章にするということは,頭で漠然と思っていたことも強い表現になるし,はたまたネットで自分の意見をもっともらしくいうために,周りを見てなんとなく思うことを,あたかも自分がそう思ったんだ…強く書いてしまうことも多いです。だから,書くほうもそう書いたことをはっきり覚えているし,後で状況が変わって,以前の意見をいい続けることに支障がある状況になると,やばいなぁ…とより強く思うんでは無いでしょうか?。
わたしはこういう状況が続き,それに合わせて人間が進化したら,もしかしたら,だんだんニヒルというか物事にみんなが一歩引いた意見の書き方をする様になるかもしれないなと思います。断言しなくなり,他人事の様に書いたり…。学者が物事を断言しないといいますが,彼らも自分達の見解が絶対で無いことを意識してるから,そういう言い方をするのです。それが「知的」といえばそうなのかもしれませんが。一方で,断言しない意見は一般に受けが悪いです。
というわけで,発散したのでまとめると,意見がコロコロ変わるのは,人間の性かなぁ,それを避けて思慮深くなると,物事を断言できなくなる,でも受けるために断言する人もいるので,結局どういう風になって行くのかはよくわからない…という話でした。人は賢くなれるんでしょうか?