たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

国が幸福を決めることの恐ろしさ

2011-12-11 18:00:44 | ココロ
国が国民の幸福度を規定するらしい。ぞっとする。

ブータンのマネなんだろう。でも貧しい国が貧しい中で幸福を噛み締めるのと,豊かな国が幸福であることを求めるのは意味が違う。特に今豊かだが,この先(本当かどうかともかく)お先真っ暗…という風潮が蔓延している日本で,国が幸福を規定するのは,「貧しくなったが幸せだからいいでしょ?…」といういいわけに使われる公算が大きい。幸せというのは,案外不自由な中で感じることも多く,自由であればあるほど幸せが見えにくくなるから,幸せを感じさせるのは不自由にすればいい…なんてなりかねない。本家のブータンでさえ,情報が自由化されていく現代で国民総幸福で政治をするの難しくなってきてる…って話じゃなかったっけ?。

個人的には幸せを国が規定するなんて真っ平という想いがある。もちろん経済的な豊かさと幸せはイコールじゃないと思うし,経済的豊かさばかりを追い続けて不幸せになるという現実はあるので,幸せに目を向けるのはいいと思う。豊かさよりも幸福を重要視するのはいいことなのかも知れない。でも幸せを数値化するのはおかしい。全体で幸せを規定するのもおかしい。

幸せは最終的には個人の問題とは思うが,個人の問題とした結果,見えない人には見えなくなる。だから個人の外から幸せを規定する…というのは,あることはあるのだけど,これは一種の宗教感みたいなものなんだと思う。

それでも経済成長時みたいに,国民の大半が同じ未来をイメージしてるときは,そのイメージ(この場合は経済的豊かさだった)を幸せに結び付ける事は良い意味があったのかも知れないが,右肩下がりになってる時代に幸せを規定するというのはどういうことなんだろうと思う。まさか「困ってる人を助けるのが人の幸せ」とか言って(その事自体は間違いではないが),社会福祉向け増税をするってことはないですよね;-p。

いずれにせよ,国(役所)が,こういう事を数値化するのはろくなことがない。行政というのは,一般的に数値目標を決めて政策を行い,無理やり結果を合わせようとするものだから。豊かになった上での結果として幸福を測るのなら良いのだけど,逆になりそうな気がする。
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だから僕はホームページに書く

2011-12-01 21:58:28 | ココロ
はてなの人が書いた「なぜ今、ブログなのか」という文を読みました。Twitterでは「個」を綴りづらいというのはそうだと思います。でもだったらブログじゃなくてホームページの方がいいんじゃない?と思ったりもします。ブログだって時系列順に文章がアップされ行き,構成を後からいじることはとても面倒です。自分のホームページだと,章立ての前書きと結論から書いて,後から中を入れていくとか可能ですが,ブログでそれをやるのは大変な気がします。

まぁブログのほうか書くほうに特別の技術が要らないし,ファイルの管理をしなくていいという意味ではいいんでしょうけど,ブログの管理のしやすさと,ホームページ的な,構成の自由さを組み合わせたような,他の新しいものを作ったほうがいいんじゃ無いかなぁとか思います。

まぁ書かれている内容には賛同できることも多く,たぶんまたTwitterでは物足りなくて新しいサービスが生まれるとは思います。でも,それはブログじゃないんじゃないかなぁ。わたしの経験だと,主流のサービスが移り変わるのは,移り変わることによって話題がリセットされて,再度新鮮な気持ちで書き込めるという点が大きいと思います。そうですから,古いサービスに回帰するのではなく,見た目が古いサービスと同じであっても,新しいカテゴリーであることが重要な気がします。

もしあたらしいビジネスを探るのであれば,ブログ的であっても新しい概念を取り込んで新しいサービスを模索したほうがいいように思います。

まぁ現状ではわたしはパーマネントに個人を綴るなら,ブログよりはむしろホームページの方が適してると思うし,そういう意味ではまだまだホームページをメインコンテンツとしてやっていこうと思ってます。
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自分が死ぬことをイメージできるか?

2011-11-26 12:10:46 | ココロ
先日がんによる死はましか?という話を書きました。マシじゃないのかな?と私は思ってるってことです。こういう話をガンじゃない人がすると「ガンの人の気持ちがわかるか?」とか怒られそうですが,私はガンを経験したので,多少こういうことを語ることができるという意味では特権なのかもしれません。折角得た立場なので;-)もう少し書きます。

ある見方をすると,ガンは脳卒中や心臓病の様に不意の死亡や,長期の寝たきりで衰えていくような病気に比べ,適度な長さで死の準備ができるという意味でマシな部分があるかと思います。ただ,ガンは進行すると止めることすら出来ないという意味で,若い人がかかる場合はかなり悲劇だと思います。でも高齢になった場合は,そういう死に方もありなのでは?と思います。

でも世の中的にはガンの撲滅というのは目標になってます。若年性のものだけが対象かというと,高齢者にもガンの検診を勧めたりするので高齢者も対象なのでしょう。そういうのを観てると,さて,人はどういう風になくなりたい…と思っているのかなぁと思います。みなさん,どういう風に死にたいと思ってるんですか?。

良く「老衰」で死にたいとか「ぽっくり死にたい」とかいう話も聞きますが,老衰で死ぬっていうのは,ある意味徐々に死に近づいて行くわけで,どういう状態なんでしょう?。

私の父親は割りと高齢なので,一度聞いてみたいと思ったことがありますが,なんとなく考えてないのかな?とか思って止めました。まぁ洒落にならないとも思うので。高齢になって欝になる人もいるし。

そういう意味でいうと,fujiponさんの「死にたい老人」という本の紹介はとても興味深く思いました。高齢で断食をし安楽死をしようとした老人が空腹で辛くて断念するという実話らしいです。あぁ,この歳になっても結局人は死ぬということをあらかじめイメージできてないものなのだな,と思いました。具体的に死ぬイメージが無いから,断食等で綺麗に死ねるだろうと思い込んで実行し,そうもいかなくて断念のだと。80歳を越えているなら,戦争なので死ぬ人をたくさん見ているはずで,それでもそうなのですから,目の前で人が死んでいくのをほとんど見てない戦後の世代等は,本当に自分が死ぬことをイメージできないだろうなぁと思います。

もっとも私もガンになるまでは,全然わかってなかったなと思います。良く映画などで死ぬとわかったら何をするか?などの話がでますが,実際に死ぬと思ったら,そういうことを考える気分にならなかったし,いろいろと「想像と全然違っていた」と当時思いました。まぁこれも現在一旦生き延びたわけですから,また歳をとって死が見えてくると,やっぱり想像と違ったと思うかも知れません。例えば老化が思ったより辛いとか,気分を落ち着けて死を待つなんて出来ないよ…と思うとか,まぁそういうことはあるだろうな,と。

でも,個々の人が死をイメージできないのはしょうがないとして,なにか社会自体が死を無い物のように扱うのはどうなんだろう?とも思います。それが都市化といえばそうなんですが。死ぬことのお手本がみえないので,良い死に方がイメージできないんだよなぁとか時々思います。
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叩きたい人

2011-10-28 22:38:29 | ココロ
日本人…と言っても単に外国のことを知らないので,ほかの国でもある事なのかもしれませんが,とにかく,日本人というのは,誰かをたたき出したら際限なく叩くという集団なのだな,と最近良く思います。頻繁にあるのが政治家に対してで,一旦たたき出すと,ちょっとした失言だったり…ならともかく食事をしたこととか,いい間違えたとか,読み間違いしたとか,そんなことまで叩かれます。政治家以外でも,今ひそかに広がっている花王叩きとかも,直接関係無い人も叩けるから叩いているんじゃないか?という気すらします。

はたから見てると,そういう叩き方というのは,叩く理由があって叩くのではなく,叩ける人が見つかったから叩いているとかいう風に見えます。良くいじめが問題になりますが,根本的には同じものがあるんじゃないか?という気もします。叩いても叩き返さないし,周辺も「止めろ」と非難を向けない…という相手が見つかると,どんどんエスカレートしていく様に見えます。

もちろんすべての人がそうだとは思いません。でもそういう集団による特定の人に対する叩きがどうも日本では発生しやすいという風に感じてます。

さてそういう風に思うと,今の世間による東電叩きも,そういう動機で叩いている人が結構いるんじゃないか?という気がしてます。

もちろん,原発事故に対する東電の責任は重いと思いますし,わたしは原発は長期的には無くしていくべきだと思ってます。また筋としては本当は東電は潰すべきだろう…とも思ってます。でもだからと言って,東電がやることがすべて悪いことだとは思いませんし,消費者である我々が際限なく東電を叩いていいのか?というと少し疑問を感じます。

数日前にNHKでやった食事の放射線量の検査に対して,批判的な意見をネットで見かけましたが,「安全だ」というと無検証で「やらせだ」とか批判するのに,「危険だ」という報道には無検証で「ほら危険だ」と同意する人たちが冷静に物事を考えているようにはわたしには思えません。

あと地震や津波が起きるという可能性やそういう説があったことを,事後に取り上げて,予想できていたのにとかいうのも,フェアじゃなくM9の地震は来るという説もあれば,すぐには来ないという説もあったはずで,片方だけを取り上げて予想できていたというのは,あまり科学的な態度とは思えません。今でこそ災害に備えて設備投資を行えば,それを当然と多くの人が思うでしょうが,ほんの一年前まで事業仕分けで200年に一度の水害にたいしてスーパー堤防を作ることを仕分けした…事に対して,世間的にはほとんど異論がでないという空気だったのです。

「本当は東電はつぶすべき」と書いたのは,実際は難しいだろうなぁとわたしは思うからで,経済的な影響が大きく,回りまわって,国や銀行が損失を負い,それは普通の預金者や納税者に回ってくる可能性もあるでしょう。あと東電を潰してもたぶん役員は追放になるでしょうが,電気事業は誰かが続けないといけないので,見かけ上は看板を付け替えて,続くはずです。また潰れることで保障を放棄することもありえます。人々はそんなのを望んでいるんでしょうか?。発電送電を分離すべきという意見には同意する部分もあるのですが,法的にそれを行うなら,たぶん東電以外の電力会社もそうする必要があり,それが適当なのか?という話になるでしょう。早急に電力改革を行っても,かえって電気代は上がるかもしれません。いずれにせよ理想はこう…というのがあっても,手続きや社会的合意を形成するにはかなり高い壁を乗り越える必要があると思います。

それでも原発廃止に着実に向かうべきだという風に考えると,ただ感情的に東電を叩いているような意見はむしろ問題をますますできもしないことにしてしまっているようにみえます。批判をするなら「こうすべき」というべきで「何がけしからん」というだけの話では一向に前に進みません。

いずれにせよ,現状の東電たたきには,論理的じゃなかったり,話が前に進まなかったり,結果的に普通の人がとばっちりを受けそうなことが結構混ざっている気がします。何とかしようという風なことを感じず,ただ批判するために批判するというような意見も良くみます。どうもこれは日本人の気質なのかなと思ったりしますし,原発をどう止めていくかという議論に対してはあまりいい影響を及ぼすという気もしません。
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スティーブ・ジョブス

2011-10-06 23:34:19 | ココロ
わたしは自分にとって特別な人じゃないと,その人の訃報には反応しないことにしてます。ですからジョブスというのはわたしにとってはとても大きな存在です。

今朝彼の訃報が報じられました。56歳。ショックですが,CEOの引退の時から彼の病状が非常に良くない…という感じはしていたので,当然の流れだったのかも知れません。でも引退から一月ちょっとであり早いな…という感はします。まぁガンというのは,そういうスピード感なのではありますが…。

彼の偉業などをわたしが書いてもしょうがないので,わたしにとってのジョブスがどう特別だったかという話を書きます。

…。

わたしがMacにはじめて触れたのは大学生の時,研究室の先輩がMac Plusを持っていたからです。わたしはAppleIIとかの世代ではありませんが,AppleII自体は会社に入って先輩から一度見せてもらったことあります。Plusはとても良くできたコンピュータで当時PC98が主流だった時代,かなり先進的でした。まぁ当時はわたしはゲームをしていただけですが。

社会人になりMacでドキュメントをつくるようになり,MacIIciを会社で使うようになりました。その後PowerMacとか何機種か乗り換えていくことになります。自宅にもMacIIciを中古で入手したり,その後PowerMac8100を入手したりしました。ちなみに8100はまだ持ってますが,先月の引っ越しで電源が入らなくなってしまったのは,今回の訃報と偶然なんだろうか…という気がしてます。もっとも8100は彼が手がけたマシンではありませんが。

で,この頃にMacを使っていてMacはとても好きなマシンでしたが,ジョブスの事はまだ意識してません。意識したのはこれと平行して会社でNeXTをプラットフォームとした開発をはじめたからです。NeXTは非常に優れたコンピュータでわたしはここで多くのプログラミングをしました。でもNeXT自体は結構マイナーな存在だったので,逆にユーザは情報を得るためにいろいろ調べ,その頃からジョブスのこともわたしは意識するようになりました。NeXTは会社で何台も購入したし,自分でももってました。最後のバージョンのOSまで所有していていました。この頃からわたしはジョブスに非常に愛着を感じはじめました。

その後彼はAppleに復帰。NeXTが無くなったのは残念でしたが,そのOSの基本構成がMacOSに引き継がれたのはとても嬉しかったです。その後のアップルの快進撃はみなさんのご存じの通り。とても良い製品を出し続けていたと思います。

そして,もう一つ,わたしにとって彼が特別な存在だったのは,彼がなった膵臓のガン。病名がきちんと報じられてませんが,おそらく内分泌腫瘍で,わたしがなった癌と同じです。部位は微妙に違うのかも知れませんが…。わたしがなったのは2006年。ジョブスが手術したのは2004年。彼は2005年に自分が膵臓のガンで手術したことを語ってます。内分泌腫瘍と伺える内容でしたから,わたしにとって,彼は自分の先行事例だったのです。

私自身が手術の後,どれくらい生きられるんだろうか?とずっと悩んでいるときに,彼が元気にしていることはとても勇気づけられました。一方で手術から数年後から彼の体重が減ったり,休んだりしたニュースや映像は,自分にすぐに起きるような事のように思えて,恐ろしく思えたものです。私にとってはまさに他人事ではありませんでした。そして肝臓移植を受けたというニュースを聞いたとき,あぁ,肝臓転移したのだな…とすぐにわかりましたが,自分が転移しても多分移植を受けることは出来ないので,それは複雑な心境でした。

そしてわたしは先月,手術か5年が過ぎ転移が起きてません。一山乗り越えた心境です。ジョブスは癌の手術をして7年くらい生きたことになりますが,おそらく転移がわかったのはずっと早いはずです。多分体重が減ってるときに抗癌剤をはじめたのではないか?と思ってましたから,3,4年目には転移がわかっていたのでしょう。そういう意味では5年目に転移がないわたしは,彼よりもずっと病状が良いのだとおもいます。うまく行けばわたしはこのまま逃げきれるかも知れません。

ある意味,わたしは彼を自分の病気の先輩としてみてきました。彼の病状が悪化した事自体は,単純に好きな人が病気になった以上に,身近な問題のようにずっと思ってました。ですから,彼の今回の死もわたしにとっては特別なことです。でも,たぶんどこかで道がわかれてしまのかなとも思います。わたしがあちらに行かなかった事自体は,私には幸せなことですが,彼にはずっとわたしの先行事例を続けて欲しかった。膵臓内分泌腫瘍になって手術をして,仕事に復帰し,そして元気に人生を全うする…というのをこれからも見せてもらいたかったです。そういう意味で,大きな目印をわたしは失った気がします。残念ですが,わたしが一番辛かったときに,彼が元気であったことにわたしは元気付けられました。ありがとうございます。
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怒ることは必要か?

2011-07-31 21:47:06 | ココロ
知り合いが「本気で世の中を変えようと思ったら,怒ったらだめ。怒りは怒りを呼び寄せるのでよい世の中にならない」とつぶやいてました。同感…と思うのですが,怒りを使わずにうまく人や世の中を動かせるのだろうか?…という悩みが一方でわたしにはあります。

卑近な話になるのですが,わたしは人前で,大声を出したり,手をだしたりして怒ったことがほとんどありません。実際怒ることは得意ではない…というのがあります。ただいい歳をして仕事上部下をもつ人数が増えてきたり,自分の子供を育てる(しつける)必要が出てきたり,はたまた教育者になって若い人達になにかを教えるときに,怒らずにすることが可能か…というより,怒った方がいい場合はないのか?…という事にずっと悩んでます。実際に会社とかで大声を出したり,机を叩いたりして部下をしかる先輩を見たりすると,それなりに効果があるように見えます。

良く研修とかでコーチングについて習ったり,本やWebの記事でも部下の指導方法とかの話を読むと,部下を怒ったり脅したりする事を勧めているのは見たことがありません。でも一方で,多分創業者が仕切って業績を伸ばしたような会社では,社長が罵声を部下に浴びさせて会社を回してるような話も聞きます。社員がどういう風な気持ちだとか,その後の精神的な影響はという話はわかりませんが,業績を伸ばしているということは,それなりの効果があるわけです。

わたし自身がこれまで後輩や部下に大声で怒ったりせずに,それなりにやってこれているのは,自分の周りにいた部下や後輩が優秀だったからということがあります。理詰めで説明したり,冷静に叱ったりしたらそれなりに理解をする人がほとんどでした。会社は声や暴力で恐怖を与えなくても,人事や予算や決裁で部下を縛ることは出来ます。わたしはそれと上司の意見の説得力,あとまぁ信頼とかそういうものをうまく組み合わせれば,ある程度は人を動かせるという経験をしてきてますが,これからもっと部下が増えたり,自分と全然違う経験をしてる人とか,あと子供とか…そういう人達にわかってもらおうとした時に,本当にそれだけで十分か…,それ自身悩むわけです。

実際にいざ部下を怒れ…と言われると,実はうまい怒り方が出来ません。うまい怒り方が出来る人を見たことがありますが,怒りは感情を載せる必要があるため,なかなかマネがしにくいということがあります。

怒りが必要というつもりもないのですが,いざ怒る必要があったときにうまく怒ることができるか?,それに怒りが不要だ…と思うのは単に自分が怒るのが苦手なのを隠すためじゃないか?とか少し思うのです。

世の中にはいろんな人がいます。怒ることで引いちゃう人もいれば,感情を露にしないと共感をしてくれ無い人もいます。だから大きく世の中を動かすとか,多くの人を動かすときに,人にうったえる手段として,怒りを使うということが必要なときもあるかも知れない…と少し思います…が,実際は使ったことありません。悩ましい。
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信用できないは信用できない

2011-07-11 22:00:46 | ココロ
良くある報道や論調を見て思うこと。

問題を指摘されていてすっかり悪者になっている組織がとある発表をしても,よく言われるのは「信用できない」ということ。今わかりやすい例を挙げると,東電とかが何を発表しても「信用できない」とか「隠蔽してる」とか言われてます。まぁ実際に信用できないというか,真実をあからさまに発表してるわけじゃない場合もあるだろうなとは思いますが,一方でじゃぁ信用できないと言っている人たちは,どうすれば信用できると思うんでしょう…ってことです。

こういう状況は過去にも何度もあって,主に大きな企業や,行政が不祥事を起こすと大体において,なにを発表しても「信用できない」と言われます。もちろん発表するほうもなるべく痛くもない腹は探られたくないので,ある程度取り繕って発表する,するとますます信用されないわけです。

良くわからない状況を信用させるだけの情報を出すとはどういうことなのでしょう?。すべての状況を何も手をつけずに公開しても,おそらくほとんどの人は何のことかわからず,ますます信用できないというかわけわからないと言われるだけのような気がします。信用できないと言っている人は,むしろ自分が信じたいストーリを裏付けるような事実が出てきたら,その信憑性を細かく精査することはなく「これが真実だ」と信じてしまうんじゃないか?という気もします。信じたいストーリの証拠が出た時に,これですべてとはいえないとか逆に言わないのではないでしょうか?。

というわけで,わたしが思うのは「信用できない」という意見もあまり当てにならないということです。信用できない人をその人が信じたくないストーリで信用させるのが,たぶん素人相手だと無理だからです。専門家であれば,物事を証明する手順がある程度確立されているのでそれに沿って話を進めることは出来るんでしょうが。

一言で言うと「信用できない」というのは根拠としてはあまり使わないほうがいいと思います…ってことです。
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統計と人の話を再び

2011-07-07 19:09:15 | ココロ
以前わたしはガンにかかり(また終わってませんが)悩んだ時の心情から統計は人間(の心情)にマッチするのか? というのを書きました。ガンというのはどこまでも確率で語られる病気です。生存率や再発率,また発生率など。原因がある程度特定されているガンでも同じ生活をしていてもなる人とならない人がいて,それは統計で語られます。

学者であるわたしはそれはそれで理解できるのですが,一方患者としては自分が助かるのか?治るのか?が「視点」であり,マクロに語られる治る見込みというのは,まるで心に響かないという気がしました。正直90%治るという数字があっても,10%に入ったらどうしようと悩むし,80%が助からないとう数字があっても20%に入るかもしれないという希望を持ちます。実際わたしが今ここで文章を打っている確率は50%無かったかもしれません(わたしのガンは症例が少ないのか細かい統計値が見当たらないので,はっきりとしたことはいいにくいのですが)。

そういう経験から,学者であるにも関わらず,わたしは「人」に語る時に統計で納得させるのは無理だろうという感触をもってました。そしていま世の中を見ると,原発,放射能,ガンの発生,地震の発生等,多くが確率で語られ,そして見事に「人々」を納得させることが出来ずにいるように思います。

実際に数百年から1000年に一度しかこないといわれた大地震がきてしまったわけですから,確率的に低いということが,何の安心にもならないという印象を人々の心に刻み付けられてしまったのではないでしょうか。こういう中で,ガンにかかる人の数が数パーセント以下だとかいわれても,たぶん安心できるはずはありません。

がん患者が感じていた,統計でしか語れない事象にたいして確率のみで語られても何の安心も出来ないという感触を,この大地震は一般の人まで広げてしまったのではないか?という気がします。

少し話が脱線しますが,これまで公害というのは多くは化学物質が悪さをしていて,「化学」によって語られていた様に思います。生物も化学反応を起こすし,医療も化学を使うので,なんとなくそれは自然のことのように思ってました。しかし今放射能,および放射性物質が問題になってる時に,放射能が「物理」で語られること,そしてその物理で語られるものが,生物や医療(病気)へ影響する事にたいして,多少の違和感を感じてます。まぁ実際は化学にも生物にも医療にも物理のテクニックを使う領域はたくさんあるんですけど。

化学反応は科学の領域だけど,原子の世界は物理なのねと思うとちょっと不思議な感じがします。更に物理は非常に数学的です。物理に統計を持ち込んだのは割りと新しい(というか数学でも統計は新しいのですが)とは思いますが,統計で原子を語るのも数学,または物理的な技術なのかも知れません。あと物理って「物のコトワリ」なんですよね。

話がそれましたが,実は心理学でも統計は良く使います。今の科学は統計を非常に便利に使い,人の心も統計で表そうとします。そもそも統計は理屈がわかってない事象を扱うことが出来るから便利なのです。ただ実際に「一人の人間」の視点に立ったとき,統計や確率があまりに心情とかけ離れているという感覚はわたしの中では日々強くなっていきます。確かに科学として,学問として統計が便利だというのは良くわかります。でも統計で人の心を動かせると思うのはたぶん間違いです。いま,多くの「専門家」がそういう間違いを犯してないでしょうか?。今の世の中の論調を見ていると,少しそういうことを感じます。
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権力欲の根源

2011-06-12 21:53:03 | ココロ
WIRDに権力者が性的に堕落する理由が書かれてました。よると,権力者は他人の視点に共感しづらくなっている…ということです。人の気持ちが分からない…って意味でしょう。あと自分の倫理違反を正当化する…とかいう話も書いてました。

ふーん…というか,相関としてはそうでしょうけど,因果関係としてはどうかなぁ…とも思います。

わたしが思うのは,そもそも人…というか男はなぜ権力を欲しがるか?…ということじゃないか?ということです。少なくとも猿やライオンが群れの長にになる理由を考えると,権力者が性的に問題を起こしやすくなる理由の一つが分かります。財産や衣食住が充実するからじゃないですよね。

昔某人気歌手が音楽をはじめた理由を「モテたかったから」と言うネタがあって,結構受けてましたが,一方で本質をついてるな…と多くの人が思ったと思います。少なくとも男性は社会的な成功を修めたい…というもっとも原理的な理由はもてたいからでしょう。昔の権力者は多くの子孫を残している…ということからも分かります。もちろん,そういうものではなく,社会貢献をしたいとか,作品を残したいとか,人々を正しく導きたいとか,そういうことを思う人も結構多いんでしょうが,そういうのは根本的な欲求が文化的に捻じれて,そうなったんではないか?と思います。

もっとも,権力者が複数の異性と関係をもつことが問題ではなく,権力者が相手の気持ちを省みずに無理やりに関係をもつことが堕落なのであれば,根本的な欲求よりは,相手の気持ちを分からないことが問題…という元の指摘はあたっているのかも知れません;-p。

それにしても,昔は権力者は複数の異性と関係をもつことを問題視されないどころか推奨されたりもしていたわけで,そういうシステムじゃ無くなったことが,むしろトラブルを起きやすくしてる面もあるかも知れません。

ちなみに男性の根本的な欲求という風に書きましたが,猿山の長になれるのはごく僅かなわけで,多くの男性はそういう競争から早い段階から脱落していきます。それこそ子供の時から競争をやめた子は,性的な魅力のため…という発想すらないかも知れませんし,頂点ではなく,多様性を目指すようになったり,そうすることにより,一人で多くの異性…というよりは,一人の好きな相手にたいして魅力的になるためとか,まぁそういう風に現実的な解(笑)を見つけていくわけです。ある意味,権力を得て多くの女性にチョッカイを出している人は,そういう方向転換をする必要がなかった人か,もしくはそういう挫折をしたけど,諦めきれずに,ついつい成功しちゃったもんだから,つい過剰にそれを実践したくなったりとか,そういうものかも知れません。…というか失敗するのは多分後者だな…とか思ったりもします。

折角成功したのに,一番やりたかったことも出来ずに可哀想ね…と思うこともありますが;-p,相手が納得してない…ってあたりで,まだまだ魅力が足りなかったことを自覚した方がいいんでしょう…とも思います。
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不安な人と楽観な人

2011-04-24 23:46:56 | ココロ
不安な人は自分の不安が周囲に共有されないと,凄く不満。だから不安じゃ無い人を不安にする言動をする。一方,楽観的で不安に思いたく無い人は,不安に思いたくないので,危ない事象に目をつぶる。または楽天的に考えたり,都合のいい安全宣言に飛び付く。そしてそういう人は不安をばらまく人に近づきたがらない。

この二人は物凄く相性が悪い。どっちもお互いを見ていらつく。

事象が深刻なのか楽観なのか,正解が見えない場合,実はどっちが正解だったかというのは分からない。楽観的に考えてたら船が沈んで気が付く場合もあるし,悲観的になって逃げ出したら,そこで怪我をする場合もある。

不安な人と楽観な人は,多分これまでの人生でもずっとそんな感じでやってきて,不安に思っていたら何も起きなかったり,楽観的に考えていたら痛い目にあったりしたかも知れないけど,それで考え方を変える…っていうのは,案外少ないように思う。不安な人は,あたらなくてもずっと「今度こそ」と不安に思うだろうし,楽観的な人は致命的な痛手をくらったら,そもそもそこで退場してるかも知れない。

わたしは多分性根は不安に思うタイプだけど,それに振り回されるのが物凄く嫌いだから,理性で楽観的になろうとするタイプ。ガンになったときも,半年後には死んでるかも…とか,免疫力が堕ちて感染症にかかるかもって異常に潔癖性になったりしたけど,頭では「今が異常で,そのうち落ち着くだろうから,それを待つ」とずっと思ってた。まぁ2,3年くらいして落ち着いた。

わたしの様に性根が不安なのを理性で楽観的になってるタイプは特に不安をまく人が嫌いで,頑張って不安を払拭してるのに,不安にするなよ…と思う。楽観的なタイプにもそういう人は多いかも知れない。

実際は状況が深刻かどうかは簡単には分からないから,データは欲しい。データを見て自分で総合的に判断したい。それでダメだと思えば行動をするだけ。判断を曇らせるような煽り文句は御免だ…とは思うけど,別にデータを無視してるわけでもない。ただ不安が優勢になれば行動をするだけ…だと思う。行動しないのに不安だけを増幅するっていうのは,わたし的には,ちょっと迷惑だな…とは思う。


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