昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

北海道旅行No.34 「函館市写真歴史館」と田本アルバム

2011年11月10日 | 北海道の旅
北海道旅行5日目 6/7(火)17時過ぎ、函館市元町公園を散策、「函館市写真歴史館」の前に立ちましたが、港付近の観光が残っており、入館しませんでした。

2009年8月の旅行で、内部の見学をしており、以下はその時の写真と、思い出です。



函館市元町公園から函館山方向を見上げた風景で、正面の建物は、「旧函館区公会堂」、向かって右には前回掲載した「函館四天王像」があります。

これから紹介する「函館市写真歴史館(2F)」と、「観光案内所(1F)」は、向かって左の建物で、歴史的建造物「旧北海道庁函館支庁庁舎」を利用したものです。

■建物の前にあった案内板です。
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旧北海道庁函館支庁庁舎(北海道指定有形文化財)
 旧北海道庁函館支庁庁舎は、明治42年(1909年)に建てられ、公園造成と合わせて昭和57年(1982年)に修復整備されたものです。特徴のひとつに柱廊玄関があり、2階に張り出した屋根が柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な4本の柱で支えられています。
 明治末期の函館を伝えるこの洋風建築物は、北海道開拓の歴史上価値が高いことから、昭和60年(1985年)北海道有形文化財に指定されています。
現在は、1階を元町観光案内所として利用し、2階は「写真歴史館」としで"北海道写真発祥の地函館”の歴史を伝える貴重な写真機器や資料を展示しています。

 なお、江戸時代、ここ元町公園には、松前藩の亀田番所が置かれ、19世紀初めの幕府直轄時には箱舘奉行が置かれました。安政元年(1854年)に日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となり、箱館奉行が再置されましたが、港湾から近く防備上不利であったことなどから、元治元年(1864年)に亀田の地(五稜郭)に移転しました。
     函 館 市
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「旧北海道庁函館支庁庁舎」の玄関の風景ですが、入口の両側には「元町観光案内所」と、「函館市写真歴史館」と書かれた黒い立て札ありました。

建物周囲には多くの花が咲き、見下ろす函館港の風景と合わせて観光気分を盛り上げてくれます。

上段の案内文中に「柱廊玄関」に「巨大な4本の柱」とあり、写真には左右あわせて6本の柱に見えますが、左右2本の柱廊の柱の間に壁の柱が見えているためです。

玄関前の階段の左の脇に「函館市写真歴史館 展示ご案内」と書かれた看板があり、古い写真のポスター(下段の写真)が掲示されていました。


これが玄関前の展示案内の看板にあった日本最古の写真です。

武士の姿に写真の古さを感じさせられます。

■看板の写真ポスターに添えられた説明文です。
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日本最古の写真(国指定重要文化財)
「松前藩士 石塚官蔵と従者像」
 撮影日:1854年5月24日
 撮影場所:函館実行寺
 撮影者:E.ブラウン・ジュニア

当館で展示しておりました「銀板写真(石塚官蔵と従者)」は、外国人が日本国内で日本人を撮影した現存する最古の写真の一枚です。幕末開港交渉という歴史上の重要な事象を裏付ける遺品として、また対外交渉史及び写真史上に貴重である資料として知られ、平成18年6月、国の重要文化財(歴史写真の部)に指定されました。
この指定に伴って、資料保護の観点から現在市立函館博物館に保存されることになりました。
 函館市写真歴史館
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撮影したブラウンは、ペリーに随行した写真師兼画家で、撮影場所の実行寺は元町公園から西北へ約800mの場所にあり、ペリー艦隊の宿舎となっていたようです。



日本最古の写真(複製)と、写真に写っている石塚官蔵の衣装と、刀が館内に展示されていました。

■館内の展示パネルの説明文です。
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日本最古の写真
『松前藩勘定奉行石塚官蔵』
展示している銀板写真lま、ブラウンガベリー艦隊の応接役・松前藩勘定奉行石塚官蔵を写したもので、日本最古の写真です。画像は、かなり薄くなっていますが、中央には石塚官蔵、後ろには従者3人(石:槍持万吉、中:草履取卯之吉、左:貨人[かしにん]村田某)が写っています。裃[かみしも]、刀、脇差は、石塚官蔵が撮影の時に着用していたものです。

石塚宮蔵とは?
石塚宮蔵は、ペリーが来航した当時、松前藩の勘定奉行兼旗奉行でした。
『ペリー提督日本遠征記』の中では、<函館の副長官>として紹介されています。異例の出世をした人で、国の大事の時にペリー艦隊の通訳らと漢文で筆談し、その経過を『安政元年 亜墨利加[アメリカ]船箱館碇泊中御用記』にまとめています。漢籍[かんせき]を多く所蔵し、相当漢学に通じていた知識人で、当時55歳でした。

撮影時の石塚宮蔵たち?
ペリー艦隊の通訳ウィリアムズの日記『ペリー日本遠征随行記』の5月24日の項に、撮影当日の石塚官蔵の様子が書かれています。

「遠藤と石塚は、肖像写真をとつてもらった。彼らは彼自身と背後に槍をもち、帽子をかぶり、特殊な鎧を着た家来どもを従えている写真を見て非常に喜んだ。写真術については、今まで聞いたことのあるものは、この他には誰もいなかつた。珍しさと驚嘆と喜びは、彼らの態度と問答中に等しくあらわれていた。この日は天気もよかつたし、結果は全ての人々に満足であった。」(馬場脩訳より)
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日本最古の写真の展示と並んで二つの写真が展示されていました。

「勘定奉行 石塚官蔵」と同様、ペリーと交渉に当たっていた「松前藩家老 松前勘解由」「松前藩用人 遠藤又左衛門」の写真です。

展示パネルの説明文によると、「石塚官蔵」の写真と同じ時、ブラウンによって撮影された写真で、これらも日本最古の写真でした。

しかし、この二つの写真の実物は、函館に現存していないようで「石塚官蔵」の写真だけがアピールされていたものと思われます。

又、ブラウンによって描かれたこれらの写真と同じ構図のさし絵も並べて展示されていました。

■パネル写真の説明文です。
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ブラウンと松前藩士
ペリーに随行した写真家ブラウンは肖像画家でもありました。「ペリー提督遠征記」には彼が撮影した銀板写真をもとにして描いた函館に関するさし絵が6点あります。「桶屋」「籠」「箱館の寺院」、そして「函館の長官」「函館の副長官」「松前候の代理」と説明のあるそれぞれのさし絵には、ベリー応接役の松前藩用人・遠藤又左衛門、勘定奉行・石塚官蔵、家老・松前勘解由が描かれています。
ブラウンが撮影した彼らの写真は、幕府との交渉のために下田へ出発する直前の6月1日、ペリーからそれぞれに贈られました。
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一階の観光案内所の奥に函館の歴史を飾る著名人の写真が展示されていました。

上段左から-ペリー提督、石塚宮蔵(日本最古の写真)、ニコライ司祭、
中断左から-石川啄木、新島襄、木津幸吉、田本研造、横山松三郎、土方歳三
下段-函館の写真師



1854年(安政元年)5月17日に函館に来航したペリー提督です。

函館の人々から見ると幕府に開港を迫り、函館が国際港として大きく発展した立役者とも言えます。

■写真歴史館の中にペリーに関する展示パネルがありました。
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写真の箱館渡来
箱館に写真をもたらしたのは、1854(嘉永7)年、箱館に来航したアメリカのペリー艦隊でした。ペリーに随行した写真家ブラウン(1816~1886)は、18日間におよぶ箱館滞在中に、箱館の寺院や町並み、人物など数十枚を写真に収めたといわれています。「人物草木生るが如く」すべてのものをそのまま写し撮る写真との出会いは、当時の箱館の人々にとつてはかなり衝撃的で、市中では「写真は魔術か?」といううわさまで飛びかっていました。

ペリー艦隊の遠征記録は ペリー提督日本遠征記(F.L.ホークス編)として、1856(安政3)年に刊行されました。その中にはブラウンの写真などをもとにしたさし絵が掲載されています。
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写真技術が日本に伝来したルートが地図に描かれていました。

長崎、横浜と並んで函館に技術が伝わり、日本人による写真撮影が始まったようです。

鎖国が解かれ諸外国との交流が始まると、発明されて間もない写真技術も日本に伝来し、機器の改良、撮影技術の情報など次々と伝わってきたものと思われます。

■展示パネルの説明文です。
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写真術の日本伝来
写実術が日本に伝わつたのは、1848(嘉永1)年オランタ船がダゲレオタイプカメラ一式を長崎に持ち込んだことに始まります。
フランスでダゲールが最板写夫を公表してから9年後のことです。しかし日本での写真術の開花は、銀板写真法ではなく新しい技法として入つてきた湿坂写真法でした。
1856(安政3)年、下岡蓮杖が下田でアメリカ領事ハリスの通訳ヒュースケンから写真の基本を学び、1858(安政5)年には長崎で上野彦馬がオランタ医官ポンペから写真の指導を受けています。箱館では、1858(安政5)年にロシア領事として着任したコシケ一ヴィチなどから、木津幸吉、田本研造、横山松三郎が写真術を学んでいます。このように日本での写真術は、いずれも開国により西洋文化が一挙に流入することとなっ国際貿易港を舞台に、広まって行きました。
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函館で、ロシアから写真技術を学び、写真師となった「木津幸吉」「田本研造」「横山松三郎」3名の写真です。

函館が誇るこの3人の写真師は、ライバル関係ではなく力を合わせて黎明期の写真技術の発展に尽くした関係だったようです。

2009年05月、三重県熊野市の観光スポット「鬼ヶ城」を旅行した時に見つけた石碑で偉大な写真家「田本研造」を知り、このブログ<熊野「鬼ヶ城」の石碑で知った写真家「田本研造」>に掲載しています。

函館写真歴史館に「田本アルバム」の一部が展示されていることで、函館旅行の楽しみの一つになっていました。

又、旧幕府軍を率い明治新政府に半旗を揚げ、函館戦争を指揮した「榎本武揚」の父が備後福山藩(地元)の出身であったことや、新政府軍に備後福山藩からも数百人を派兵した歴史も函館旅行の楽しみでした。

■3名の写真の説明文です。
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草創期の写真師たち
木津幸吉 1830(天保1)年~1895(明治28)年
新潟県新発田市出身。1858(安政5)年ころ、妻よしと箱館に移り、ロシア領事館の洋服の仕立てを行ううちに、領事のコシケーヴィチなどから写真術を学びました。1864(元治1)年に現在の船見町に北海道で最初の写場を開きました。木津の撮影した最も古いものは、田本研造と共に写した福山城全景、蠣埼将監などです。木津の作品は、現在、市立函館図書館に 木津アルバムとして保管されており、函館ではこれが唯-のものです。

田本研造 1831(天保2)年~1912(大正1)年
三重県熊野市出身。長崎でオランタ医学や化学を学び、1860(万延1)年、長崎の通詞(通訳)に従つて箱館に来ました。田本もロシア領事館で写真術を学び、木津幸吉と共に研究しました。1867(慶応3)年には風景や人物を撮影し、1868(明治1)年に開業しました。田本の写真を最も特徴づけているのは、開拓使の委託によつて撮影した開拓のドキュメントです。その視点、技術は現在の写真家をも驚かせるものです。また、後継者を多く育てたことでも特筆すべき人物です。

横山松三郎 1838(天保9)年~1884(明治17)年
択捉島出身。箱館でロシア画報通信社の画工レーマンの助手となり、その際洋画法を習得しました。横山は絵を描くため写真の利用を考え、横浜で下岡蓮杖の門下に入り、湿板法や印画法などの写真術を学び、箱館でもロシア領事のゴシケーヴィチなどから学んでいます。1868(明治1)年、東京両国に写場を開設し、常に写真技術の開発に挑み、立体写真や写真油絵などのを研究し、その技術を独占することなく、函館に戻るたびに写真師たちに伝えています。
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「函館市写真歴史館」に展示されていた「田本アルバム」の写真の1枚で、洋館建てが並ぶ八幡坂から函館港を見下ろした風景のようです。

函館戦争の人気のヒーロー「土方歳三」の甘いマスクの写真や、「榎本武揚」の写真も「田本研造」の撮影とされており、函館戦争の史跡をメジャーにしたものと思えます。

館内には多くの写真が展示されていましたが、興味のある方は函館市図書館の「田本アルバム」のページをご覧になることをお薦めします。

■館内に掲示されていた「田本アルバム」の説明文です。
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田本アルバム (函館市図書館所蔵)

「田本アルバム」は,昭和39年,名誉市民の斉藤与一郎氏の夫人が市立函館図書館に寄付した貴重な郷土資料です。
 ここに展示している写真パネルは,田本アルバムに収載されている写真の一部を,北海道写真史料保存会が.図書館の許可を得て複製したものです。

「北海道新聞」 昭和39年4月15日付け
貴重な二つの贈り物 平沢屏山の掛け軸と明治初期の写真 市立図書館 幕末の有名なアイヌ画家平沢屏山の描いた掛け軸と本道写真界の草分け、田本研造のとった貴重な写真アルバムが十四日、函館名誉市民、斎藤与一郎氏未亡人から市立函館図書館に寄贈された。
 掛け軸は屏山が苦いころ描いたと思われる『熊送りの図』。クマ祭りをしてクマを天に送ったあと祝宴を行なっている風景で、絵が一一五×五六書ンとかなりスケールの大きな掛け軸。平沢屏山は文政五年奥州生まれ、のち函館に移住して青柳町に住んだ。よく十勝方面に旅してアイヌ風俗を描き、アイヌ画家としての名声をあげた。彼の描いたアイヌ絵は市立函館図書館にもかなり所蔵されているが、この掛け軸のように克明にクマ送りのもようを描いたのははじめて。
 一方田本研造の写真アルバムもこれに劣らぬ貴重なもの。彼は幕末に函館へ来て脱そにかかったとき治療を受けたロシア領事館の医師ゼレンスケの写真を見てこれを学び、慶応二年本道の日本人写真師としてはじめて風景、人物を撮影、その後写真製版にも着目してコロタイプ写真銅版を始めるなど、本道写真界草分けとして大きな足跡を残した人。その彼が生存中道内を旅行して撮影した写真の数々をおさめて一冊のアルバムとしたもので、明治二十九年軌こ写したと思われる函館市全景をはじめ同明治四十年の函館大火で焼ける以前の英国領事館、大沼公園、さらに明治初期の江差港、松前福山城、小樽、札幌、釧路の市内風景、変わったところでエトロフの漁場など、いずれも明治初期の道内各地をおさめた貴重な写真集。
『郷土函館の研究に役立ててもらえれば‥・』一名誉市民斎藤与一郎氏の夫人ツユさん(七七)は寄贈のことばをこう語っていたが、元木図書館長は『おかげでまた郷土資料に一段の厚みが加わりました』と思わぬプレゼントに大喜びだった。
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「田本研造撮影機材」と題する写真が展示されていました。

明治初期、屋外での写真撮影は、驚くほどの重装備だったようです。

「田本アルバム」には多くの北海道各地の風景写真が多くあり、今では考えられない苦労をして撮影されいたことが分かります。

■写真の説明文です。
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野外撮影は大荷物を背負って?
湿板写真の野外撮影は撮影機具、携帯暗室、現像用品一式の他に水まで持参するキャンプさながらの大装備が必要でした。
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館内には昔の写真師たちが使っていた古い写真機材や、市販カメラの変遷を知る多くの展示があります。

「函館市写真歴史館」の見学で、記録し、伝え、芸術にまで高められた写真の世界を知ることが出来ました。

■写真の歴史を説明したパネルがありました。
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函館/写真の歴史
函館の写真は、新しい技術の導入の歴史でした。ロシアから湿板写真の技術を学んだ後、写真師たちはお互いに研究しあいながら、新しい写真技術を習得していきました。木津幸吉や田本研造が函館で湿板写真に取り組んでいるとき、横山松三郎は横浜で印画法を学び、二人にその技術を伝えています。函館の写真師たちは次々と開発される写真技術の習得に余念がなく、たえず技術を研鑽、発展させていきました。
そして、写真師たちは函館で培われた技術をもとに、札幌、小樽、根室など道内はもとより、青森、秋田などへ広がり、各地で写真館が開業されていきました。
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今回は、かなり多くの説明文を掲載してしまい、ご容赦下さい。

要点を集約するには時間がかかり、撮影した説明文をOCRソフトで読み取り、そのまま掲載する手抜き手法でした。



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2 コメント

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最古の写真 (なりひら)
2011-11-13 21:45:13
日本最古の写真が北海道で撮られたことは知りませんでした。日(火)の記事を含めて大変勉強になりました。
文化の道 (tako_888k)
2011-11-14 10:12:42
なりひら様
いつもコメントありがとうございます。

北海道に来ると大陸北部との文化交流の太さをよく感じます。
開港時期の函館や、稚内港を経由したサハリンなどでの文化交流の歴史は、新鮮な驚きがあり、旅行の楽しみです。

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